6 for my sweet 前編
新居に『倉本・宮代』という表札を掲げると、私は鷹さんと顔を見合わせた。ちょっと照れ笑いをすると、鷹さんも目元をほころばせた。
去年の会社の忘年会でいきなり恋人宣言(?)されてから、実はもう二ヶ月が経っている。一緒に暮らそうという話になったものの、結局その後二人とも繁忙期に突入して、なかなか物件を絞り込む所まで至らないまま時間が過ぎちゃたんだよね。
年明け、松の内も過ぎて世間が落ち着いたころに私の両親には紹介したけど、実際に引っ越すことができた今日は、もう二月の下旬だ。
小雪が舞う中をやってきた新居は、荻窪の二DKの賃貸マンション。私の弟に車を借りて、それぞれ一人暮らしで使っていた家具を運び込んだら、ひとまずの体裁は整った。
私の方が一人暮らし歴が短くて家具や家電も新しいので、私が持ち込んだものの方が多い。特にキッチン用品ね! 鷹さんって本当に料理は壊滅的らしくて、「切るだけ」とか「焼くだけ」しかしないで来たらしい。
段ボール箱からお皿やコップを取り出しつつ、
「イマドキの男子は料理ができないとモテませんよ」
って言ったら、電子レンジのコードをつないでいた鷹さんに
「モテて欲しいのか?」
って切り返された。
ウッ、と詰まったら鷹さんが笑う気配がして、背後から腕が腰にまわり……ってこらこら、引越しが終わらないでしょうが、作業作業!
初めて行く慣れないスーパーで、目指す商品の売り場を二人でいちいち探し回りながらこまごました物を買っているうちに、本格的に雪が降り始めて大急ぎで帰宅した。東京はちょっと積もっただけでも交通機関が大混乱になるから、会社が休みの日で良かったよ。
早々にお風呂に入って疲れを流し、鷹さんが残りの片付けをしている間に夕飯の支度をする。恋人の気配を感じながら作る食事は、変な話、ちょっと緊張感があって失敗しそうだ。
夕食の卓を挟んで向かい合うと、鷹さんが一缶のビールを二つのグラスに分けて注いでくれた。半分こ……これだけで照れてしまう。あーだめ、今日はもう何もかもに照れる!
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
しゃちほこばって乾杯した。
引越しそばの代わりに作ったうどんすきを、ふうふうやりながら食べる。視線を上げると、何度も鷹さんの優しい視線とぶつかる。
何か大事なことを話しかけられるな、この雰囲気は……と思っていると、果たして鷹さんが口を開いた。
「あのさ……何で『結婚』じゃなくて『同棲』かって、思った?」
口の中の春菊を飲み込むわずかな時間で答えを考えて、私は返事をした。
「少し。でも、同棲で良かったです」
「何で」
自分から言いだしたくせに、鷹さんはちょっとムッとした顔。
「そりゃあ、色々ですよ。会社の人から見たら、私たちまだ付き合い出して二ヶ月ですし、今は鷹さんは仕事をある程度安定させたいでしょ? それに、お互いを知るための同棲ってしてみたいと思ってました、私」
鷹さんは、私特製の鶏団子を口に放り込んでもぐもぐやってから、
「お前のお母さんに聞いたよ。お母さんが璃玖に『何で結婚じゃなくて同棲なの?』って聞いたら、『同じ釜の飯を食ってみないと、相性なんてわからない』って答えたんだって? 色気がなくて済みません、って謝られたぞ」
ちょ。おかーさん、私が席を外した時に何をしゃべってんの。
「う、でもホントにそう思ってますから」
「同じ釜の飯って……せめて『一つ屋根の下』とか何とか、もうちょっと表現がさ」
言いながらも、鷹さんは強面の顔をほころばせた。
「でも、俺みたいな生い立ちの男と暮らすことについて、先に璃玖が説明しておいてくれたから話しやすかったよ。これで少しずつ、社会復帰できるかな」
「社会復帰?」
聞き返すと、鷹さんはうなずく。
「ああ。俺はとにかく早く一人立ちしようとして就職して、自分の生活のためだけに働いて来たから、仕事がらみの人間関係しか作って来なかった。でも璃玖に出会ってから、璃玖の周りを取り巻く社会にも溶け込みたいと思ったんだ。……そうでないと、お前を俺のものにできても、いつかお前を『こっち』へ引きずりこんでしまうと思ったから」
私は思わず手を止めた。
しばらく付き合ってみて気づいたのは、鷹さんはプライドの高い人だということだ。
愛海先生と鷹さん姉弟の両親は、離婚した時にどちらも鷹さんを引き取らなかったため、彼は親戚中を転々として育っている。現在は、親戚とはほとんど連絡を取っていないようだ。
そんな過去を背負っているのに、彼は自分の弱さをあまりさらけ出すことがない。弱みを見せると強者に食われると思っている、野生動物のように。
今のはそんな彼が漏らした、心の声の一部、だろうか。
「結婚って、家と家の結びつきでもあるだろう? 俺みたいなのがいきなりそういう世界に飛び込むのもさ。まともな親戚づきあいなんてしたことないからな。だから、璃玖の家族とまず知り合えて、よしここからだ、と思ったわけだ」
鷹さんはビールを飲み干すと、微笑んだ。
「だから、まずは同棲」
『まずは』?『ここから』? その先があるって宣言されたようなコレって、プロポーズみたいなものじゃないの!?
私はどうしていいかわからなくなって、
「あつ、あつ」
とか言いながらうどんをすする方に専念することにした。顔が赤いのはうどんが熱いからですよ、っと。
それから、二人で食卓を片づけて、二人で流しに並んで食器を洗って。
ただの家事なのに、一人が二人になるとこんなにも違うんだ……って内心感動しながら横を見たら、鷹さんが口元を引き結んで明らかにニヤニヤ笑いを押さえこんでいるのがわかり、思わず吹き出した。
それから、「新居での初めての夜だし、もうちょっと飲もうか」って鷹さんが誘ってくれて。
灯りを落とした部屋、カーテンを開けて外を眺めながら、雪見酒に……酔った。
◇ ◇ ◇
そんな風にして二人の生活が始まったんだけど、鷹さんを見ていてびっくりよ。フリーライターって本当に何でもやるんだね!
例えば、自然農法についての本を作るのを手伝うことになって、実際に農地で畑作業をしたり。
お酒関係の雑誌の、創刊号の記事を知り合いに頼まれて、コンセプトがはっきりしないので口出ししたら企画段階から参加することになっちゃったり。
某大手企業の会長さんの自伝を作るにあたり、本人から聞き書きするので、会長さんの自宅のある長野に長期出張しちゃったり。
かと思えば家にこもって、溜めこんでしまった請求書をひーひー言いながら作ってたり。
お酒や食べ物がらみの仕事が多いなぁと思ったら、愛海先生を通じてできた人脈が生きてるんだって。
「俺、すごく価値のある遺産をもらった気がする」
と、鷹さんは毎朝、チェストの上で微笑む愛海先生の写真(著者近影)に勢いよく手を合わせてから出かけて行く。
写真の後ろには、あの原稿の入った封筒が立てかけてある。
家族以外の人との初めての生活は、洗濯物の干し方一つに違いを感じて戸惑ったりもしたけど、桜が咲くころにはすっかり馴染んだ。そのころ、私も初めて作家さんに担当としてつくことになって、お互い忙しくて休みが合わないことも多くなった。
でも、夜にお互いの体温を感じながら眠る時、鷹さんは満足そうに
「忙しくても、お前のいる場所に帰れるって、いいな」
と安らいだ顔をしている。
あまり家では仕事の愚痴はもらさないけど、それも彼の性格だし、私もあまりマイナスなことは言わない方だから似ているのかな。ここで安らげているなら良かった……と、私も幸せになる。
人の幸せで自分も幸せになれるのって、素敵なことだ。
五月になった。実は鷹さんの誕生月だ。こっそり彼の運転免許証を見て誕生日がいつなのか調べてあったので、サプライズで大きなケーキを作って用意した。
私ってこんなこともやっちゃうんだ!? と、自分のデレ加減に途中で我に返って悶えまくり、製作をやめようかと思ったけど。耐えろ私!
夕食の後でテーブルにどーんとケーキを置いて、照れ隠しに早口で
「誕生日おめでとうっ」
と言ったら、鷹さんは少し呆然として私とケーキを見比べた。
そして、表情を変えないまま、ぼそっとこう言った。
「俺、ホールケーキ食うの、初給料で自分で買った時以来だ。……甘いものを食べたい時に食べられるのっていいなあと思って、買ったんだっけか……」
そして、くしゃっとした笑顔を見せた。
「……ありがとう」
美味い美味いと言いつつ、切り分けもしないで直接フォークでホールケーキを食べている鷹さんを見ながら、私は自分のしでかしたことの大きさに驚いていた。
鷹さんが甘いもの好きなのは、子どものころに食べられなかった反動? 誕生日をケーキで祝ってもらったり、大人にお菓子をねだって買ってもらったりっていうことをしてないからなの?
私は言葉に迷った挙句、こう言った。
「全部あげるから、好きなだけ召し上がれ」
鷹さんの瞳が獣のそれのように光り、フォークが音を立ててテーブルに置かれた。
いやー、思いっきり引き金引いちゃいましたね私。彼が『全部』『好きなだけ召し上が』ったのは、ケーキだけじゃなかったですよ。
長い夜を過ごし、半分意識を失うようにして眠りに落ちていく私を抱きしめて、鷹さんが耳元でささやくのが聞こえた。
「来年の誕生日も、楽しみにしてる。あ、その前に璃玖の誕生日か」
指をからめながら夢うつつに聞く未来の話は、まるで大事な約束のよう。
うん……でも……そう言ってくれるのに、あれから一度も結婚の話はしてない、ね……?
結婚の話を思い出した時、心に引っかかったのは、鷹さんのお父さんのことだった。
◇ ◇ ◇
再び、夏が巡って来た。関東地方もいよいよ梅雨明けだと、今朝のニュースが伝えていた。
会社の昼休み、私は携帯電話を耳に当てながら廊下の窓際に立ち、街路を眺めた。エネルギッシュな陽光に木々が濃い影を落とすのを見ていると、あの不思議な夏を思い出す。
『予定通り、今日帰るからな』
電話の向こうから、鷹さんの声が届く。今回はなんとワイン関係の雑誌のつながりで、取材がてら山梨にブドウの収穫のお手伝いに行っているのだ。今日でもう五日目になるけど、彼は律義に毎日電話をくれていた。
『土産、何がいい? ワインは山ほどもらったんで、昨日そっちに送っといたけど』
「山梨と言えば、桔梗信玄餅!」
『ああ、了解。あれ美味いよな、きなこに黒蜜……』
ふふ、鷹さん今、頭の中スイートになってる?
『璃玖、少しは寂しいとか思ってる?』
と、鷹さん。
当たり前だよ。一緒に暮らし始めてから、こんなに長い間離れているのは初めてだし。夜に電話で話した時なんか、切った後どれだけ寂しいかわかってる?
「思ってますよー」
それなのに、つい何でもないようにさらりと言ってしまう……私も可愛くないな。
『怪しいもんだな……帰ったら確かめてやる』
ど、どうやって確かめるつもりですか。怖っ。
「何時頃、到着の予定ですか?」
『うーん、夜九時には。なるべく早く帰るよ』
私は電話を切ると、軽くため息をついてから顔を上げた。
――九時、ね。
全力で仕事を片付けたら、金曜日なのにもかかわらずどうにか定時ちょっと過ぎに会社を出ることができた。買い物をしてからマンションに帰りつき、部屋の空気を入れ替えながら買って来たものを冷蔵庫に入れる。窓を閉めてエアコンをON、それからシャワーを浴びて部屋着に着替える。
夕食の下ごしらえを済ませると、私は時計を見た。あと二時間しないうちに、鷹さんが帰って来るはずだ。
部屋の隅のチェストの前へ行って、愛海先生の写真の前に立った。鷹さんがするみたいに、ポン、と両手を合わせる。
「先生、これから、そちらへお邪魔したいんです。よろしくお願いします」
写真立ての後ろに立てかけてあった封筒を手に取り、中から鷹さんが子どものころに描いた地図を取り出す。封筒は元の位置に戻した。
足のない二人掛けのソファの片方の隅に地図を置き、その上にクッションを置いてころりと横になった。鷹さんが帰ってきた時に、ちょっとうたたねしてしまった、という風に見えるように。
瞳を閉じるとすぐに、頭の芯が痺れたようにぼうっとなって、私は眠りの海に引き込まれていった。




