5 Coffee & Doughnuts
新宿高層ビル街の中でも、その特殊な形から「三角ビル」の愛称で知られる住友ビル。
年も押し迫ったある金曜日、上階の某和食系居酒屋にて、わが書籍部のメンバーによる忘年会、兼、送別会が行われていた。
宴もたけなわ、部長を始めとする十人ちょっとが、個室の和室でわあわあと盛り上がっている。
私はウーロンハイのグラスを傾けながら同期の友達と世間話をしていたけど、頭の片隅では別のことを考えていて、半分上の空。
その上の空の原因は、今日送別される当の本人なのだけれどね。
「さて、それじゃあ最後に、今日の主役に一言いただきましょうか!」
なぜか仕切り役を買って出ている先輩社員の上田さんが拍手を始め、ばらばらと他のメンバーがその拍手に続く中、主役が立ち上がる。
倉本主任――鷹さんだった。
鷹さんは今月で、うちの出版社を退社するのだ。
「じゃ、『手短に行くぞ』!」
彼の最初の言葉に、何人かが笑う。私も思わず口元を緩めた。
「新卒で入社してから八年、書籍部に異動してからは五年お世話になりました。版元の「は」の字も知らなかった自分ですが、多くのことを学ばせてもらって感謝してます」
上座を向いて軽く頭を下げる鷹さんに、俺に足向けて寝るなよ、と部長が応えて場が和む。
そんなくだけた別れの言葉を聞きながら、私は数週間前のことに思いをはせていた。愛海先生のお墓参りに静岡に行った、その少し後のことだ。
◇ ◇ ◇
「会社、辞める?」
私は紙カップのコーヒーを倒しそうになって、あわてて両手で支えた。
「うん。前から考えてはいたんだけど、知り合いから仕事の話をもらっててな。ライターの仕事でやっていけそうなんだ」
鷹さんは早くも、ドーナツを一つ食べ終えている。え、本当に早っ。
退社後、例によって私たちは会社の外で合流し、夕食を軽めに済ませてから甘いものを食べに来ていた。今日は新宿南口、クリスピー・クリーム・ドーナツ。平日なので思ったよりは混んでいない。
「この、ガツンと甘いのがいいんだよな」
という鷹さんは、「ケーキ食って『甘さ控えめで美味しい』とか言う奴は、ケーキなんか食うな」という極論をお持ちの甘党。そうは言っても、さすがに毎日は食べたりしてないみたいだけどね。
「元々、自分で何か書く仕事はやりたいと思ってたんだ。姉と似てるかもな」
そう言って紙カップを傾ける彼は、何だか活力にあふれている。
私が今の会社を志望した動機は、この会社が出している本が好きだからだけど、鷹さんは会社自体に思い入れがあるわけではないのだそうだ。まず出版業界に関わり、そこから先をどうするかを常に考えていたらしい。
それなら、私は応援するだけだ。
二つ目のドーナツに手を伸ばす彼を見ながら、私は頬づえをついて言った。
「そうですかぁ……この会社、何年ですか?」
「八年かな」
「十年だったら退職金の額が違ったのに、残念ですね」
現実的な話をする私に、鷹さんは苦笑する。
「お前ね。俺はあと二年も待つ気はないよ」
言葉の裏にあるものを視線に乗せつつ、彼は言った。
「どこに住みたいか、考えといて」
そう、もしも社内恋愛が公になると、片方が異動になる慣例がうちの会社にはあったため、私たちは二人の関係を秘密にしていた。割を食うのは経験の浅い方、そして女性であるということもまだ根強く影響するであろうことを、鷹さんは考えてくれたのだ。
「そういうマイナス条件がなくなったら、一緒に暮らそう」と言われたのは、ついこの間。い、一緒に暮らすって!?
そもそも、私は未だに鷹さんを自分の家に上げたことすらない。男性に限らず、誰かに家の中を見られることは、私にとってはとても恥ずかしいことだった。
だって、物の配置のひとつひとつ、皿やカップのひとつひとつで、自分の精神面をさらけ出してしまう気がするんだもん。あと、本棚のラインナップとかね!
そんな話をしたら鷹さんは、
「璃玖って本当に、見かけによらず恥ずかしがり屋だよな」
と面白そうにしていた。見かけによらず、は余計です。
それなのに、私たちが一緒に暮らしてる所を想像すると、あああああ。
彼はさらに、
「あ、一緒に暮らす前に、璃玖のご両親にも会っておきたいな」
なんて言うので、私はもうお腹いっぱいになってしまって、顔が赤くなるのをごまかすように自分のドーナツを両手で彼の前に押しやった。
「どうぞ」
「……いや、さすがに俺も夜にドーナツ三つは……」
「私もう、しばらく甘いのはいらないかも」
「え、ちょ、どういう意味?」
言葉を深読みしすぎてあわてる鷹さんを微笑ましく思いながら、私はブラックコーヒーを飲み干すのだった。
上に話を通した鷹さんがついに辞めることが決まり、その日が近づくと、ドライな私にもさすがに寂しい気持ちがじわりと湧いて来た。
鷹さんが仕事を他の人に引き継いだり、自分のデスクを整理したりしているのをつい見つめてしまって、あわてて仕事に戻ることもあった。
そんな私の様子に気づくと、私が仕事で外出した時などに、鷹さんは携帯に電話をくれた。
『どこか遠くに行くわけじゃないんだから』
「いえ、何だか変な気分なだけです。もう『倉本主任』とか『くらッシュ』って呼べなくなるんだな、と思ったら」
『そのうちお前が『みやッシュ』って呼ばれるのかな』
うげげ。昇進しても、鷹さんにそんな風に呼ばれるのはなんか嫌だ。
「や、やめて下さいよ。璃玖って呼んで」
思わずそう言ったら、電話の向こうが一瞬沈黙。
そして、渋い低音の声が優しく響く。
『……なんか今の、来た。『璃玖って呼んで』っていいな』
あわわわわ。
「も、もう切りますよっ」
『璃玖。今夜会える?』
「仕事次第です! わかりません!」
『俺の家、来いよ』
「話聞いてます!?」
そ、そう……それで初めて、成増にある鷹さんのアパートに行ったんだった。
いかにも寝に帰るだけという感じで、家具の少ない部屋だったけど、本棚だけは立派で本がぎっしりだった。
一緒に暮したら、二人分の本で大変なことになりそう……と思ったら、少し未来を想像することができた。
◇ ◇ ◇
「――というわけでライター業頑張るので、仕事回して下さい。優先的にやらせていただきます。ギャラはびた一文まかりませんけど」
和やかな笑いに包まれて、鷹さんの短いあいさつが終わろうとしている。
同期の女の子が「ねえ二次会出る?」とひそひそ話しかけてきて、そちらを向いていた私は、次の鷹さんの言葉で注意を引き戻された。
「あー、最後に、私事だけど言っておきたいことが」
皆が注目する中、彼がまっすぐに私を見た。
……嫌な予感がした。
「宮代璃玖さん。俺と付き合って下さい」
一瞬ののち、その場は一気に騒然となった。
◇ ◇ ◇
「怒るなよ」
「……怒ってません」
「じゃあ、照れるなよ」
「無茶言わないで下さいよっ」
都庁近くの陸橋から車の流れを見下ろして、私は顔のほてりを冷まそうとしていた。ため息をつくと、白い息がふわりと風に流れて行く。
こんな顔じゃ、恥ずかしくて電車にも乗れやしない。それなのにこのひとは!
「一石二鳥だと思ったんだけど?」
鷹さんは私の頭をくしゃりと撫でた。
「これでいっぺんに周知徹底できたから、俺が辞めた後、璃玖に手を出そうって奴はなかなかいなくなるだろうし。ついでに今日の二次会に出ないで済んだし」
そう、会社の皆さんに、「後は若い二人で!」と笑顔で送り出されてしまいました。あああああ!
そりゃ、一番いい形だとは思いますよ、はい。
会社在籍中に二人の関係がばれて、どっちかが異動する話になってから鷹さんが辞める辞めないって言いだしたら、すごく感じ悪いし私もいたたまれなくなっちゃうけど。辞めるのが決まってから私に……こ、告白しました、っていう形なら。
恥ずかしいけどね。ええ、恥ずかしいですけどね!
「はぁ……来週どんな顔して出社すればいいんですか。いっそ、告白されたけどお断りしましたってことにした方が気が楽」
「おいおいおいおい」
突っ込む鷹さんに背を向けて、夜空を仰ぐ。高層ビル群の衝突防止灯の赤い光が闇に浮かび上がり、そのゆっくりした点滅のリズムが、私の心を落ち着けてくれた。
ようやく彼を振り返ると、私は右手を出した。
「嘘です。よろしくお願いします」
鷹さんは口の端を上げて、私の手を取った。そして、その手を引いて私を胸に抱き寄せた。
もう、見られても構わないんだもんね。私は鼻先を、彼のコートの胸にすり寄せた。
「明日、さっそく物件探しに行く?」
「告白の翌日に?」
顔を見合わせ、思わず噴き出す。
「実際には夏から付き合ってるのに、変なタイムラグができたな」
「それはおいおい埋まっていきますよ」
私は身体を傾げて彼を軽く押し、駅の方へ促した。
そうだ、両親に会わせる話もあったっけ……と考えながら、私はふと鷹さんに尋ねてみた。
「あの……鷹さんのお父さまって、今は」
「さあ。俺は知らないよ」
「そうですか」
鷹さんが何の感情も含めずに答えたので、私もそれ以上は聞かなかった。今は、この話をする時ではないような気がして。
代わりに、別のことを言った。
「……明日物件見に行くなら、今日はうちに泊まります?」
鷹さんが驚いた顔になるのを眺めながら、明日の朝のコーヒーはとっておきのモカマタリを開けちゃおう、と決める。
告白されたその日に上司をテイクアウトなんて、私もなかなかやるじゃない?
【Coffee & Doughnuts おわり】
タイトルは、2人で食べる朝ご飯のイメージです(^m^)
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