6 物語の結末
ナキさんだった。
塔の中に落ちた私を立たせて、羽交い絞めにしたナキさんは、天井の上にいる先生たちを見上げながら、少し後ろに下がった。
「あなたが、女神……マーナ」
ナキさんは、行動とはうらはらに落ち着いた声で言った。
「話は聞かせていただきました。巫女は、元の世界に戻るのですね。でも、マーナには残っていただかないと。あなたの力が必要です」
そして、さらに一歩下がった。
「こちらに、降りて来ていただけますか。そうしたら、巫女を解放します」
「ナキ、さん」
私は、ただ驚いて呆然としていた。恐怖感が全くないのが、自分でも不思議だった。
どうして、と聞こうとした私の視界で、愛海先生がすいっと立ち上がった。
そのまま、さっさと梯子を下りてくる。今は人間の姿だから、こちらの世界にも普通に入って来れるんだ……とどうでもいいことを考える。
ザンは梯子を使わず、一気に飛び降りた。
愛海先生は私たちと向かい合って立ち止まり、いつものようにニッコリと笑った。
「私はもうこの世のものではないから、成仏しなきゃーと思ってたけど、やめた。私、残るわよ。この世界で暮らすわ」
「は?」
ナキさんがひるんで、腕の拘束が緩む。何か武器のようなものを持ってるのかと思ったけど、全然そんなことはなかった。
単に、どこかに行ってしまいそうだった女神をとっさに引きとめる方法が、他になかっただけみたい。
私がおそるおそるナキさんから離れると、ザンが近づいてきて私を引き寄せる。
見上げたら、その瞳は一瞬海の色になって、また黒に戻った。二人とも、様子を見ているみたい。
その“彼”の瞳が、二人分の心配を浮かべて「大丈夫か」と問いかけていたので、私はうなずいてみせた。
愛海先生は、はきはきとナキさんに告げた。
「でも、あなたがもし女神の力を当てにしてるなら、それは無理。あなたはひょっとして、女神の力を利用して、海の上の世界から何か自分の利益になるようなものを得ようとしたのかしら?」
うっ、とナキさんが絶句する。
え、そうだったの!? それであんなに、塔の建設に熱心だったのか……。
先生は続けた。
「海の上の、私の世界は、素敵なものだけで満ち溢れているわけじゃないの。期待させたならごめんなさいね。でも、女神の力なんて必要ないのよ」
先生は、“彼”を振り返った。
「ラグーンの世界で弟を幸せにしようとしたけど、ザンはどこか寂しい気持ちを抱えて大人になったみたい……でも、現実の弟は、厳しい世界でもちゃんと立派に大人になったのね」
“彼”の手を、きゅっと握る。
「私、ちゃんと覚えておくわ。物語の後ろには現実があるってことを。そうしたら、物語はもっと面白くなるわね、きっと」
私は何だか、さっきまでの白い姿の女神よりも、今の先生の方が神々しく見えるような気がした。
先生は、本当の意味で、この物語の女神になったのかもしれない。
“彼”――倉本主任は、先生の手を握り返して言った。
「俺も、忘れません。俺をずっと心配し続けてくれていた、あなたのことを。……姉さん」
先生は、今までで一番、綺麗な笑顔を見せた。
次に先生は、私の手を取って言った。
「璃玖さんは、ずっと私を見守ってくれたわね。質問された覚えはあるけど、一度も私を否定しなかった。女神にとっては、最高の巫女さんね」
私は首を横に振った。
「編集者としては、力を発揮できなかった気がします……」
この世界を編集します、なんて。はは、おこがましいったら。
「ふふ、でもきっと将来は素晴らしい編集者になってね!」
先生が笑うので、私も……笑った。
ああ、お別れなんだ。
先生は、手を離してナキさんの方へ下がった。そして、呆然としているナキさんの肩を、元気よくぽーんと叩いた。
「私もこの世界を良くするように頑張るから、よろしくね!」
私は思わず笑いそうになった。女神様に肩を叩かれて、ビックリだろうなぁナキさん。
「リク」
その口調に、ハッとして振り返る。
ザンが、私に話しかけていた。
「半人前な僕と、結婚しようとしてくれてありがとう。振り回して、ごめん。……でも、君を迎えに来たのが『ヨウ』で嬉しいよ。僕は彼の中にも存在するから」
「そう、なの?」
「マーナが……姉が弟を心配する気持ちそのものが、僕だ。その気持ちが『ヨウ』に届いたんだから、『ヨウ』がそれを忘れない限り、僕は存在する」
ザンの親指が、私の頬をそっとぬぐって、私は自分が涙をこぼしていることに気づいた。
「じゃあ、また、会えるんだよね?」
私が尋ねると、ザンは微笑んでうなずいた。
「会えるよ。いつでも」
私は、自分が以前考えた事を思い出した。
世界は、循環している。空も陸も海も、つながっている。
そしてきっと、物語と現実も切り離せない。現実から生まれた気持ちを物語の中に見つけて、物語から感じたことを現実の自分に響かせて。
ラグーンの世界で弟を守ろうとしてきた愛海先生自身、辛い夜から目を背けていたけれど、ふと夜空を見上げればそこには月が輝いていて。
これからは、マーナもザンも物語の住民たちも、ラグーンだけでなく、この循環する世界の中で生きて行くんだ。
月光が強くなったような気がして、ハッと見まわしたら、塔の中が光で満ち溢れつつあるところだった。
倉本主任――それともザン? の手が、私を抱き寄せる。
光の向こうから、先生の声が響いた。
「ありがとう、ヨウちゃん、璃玖さん……私と一緒にこの世界を作ってくれて。『めでたしめでたし』で世界は完成して、あなたたちがここを覚えていてくれる限り続いて行くの」
彼の手が、私の頬に触れた。
私は瞳を閉じた。
唇が、重なった。