2 瞳
豆知識……?
「璃玖」
声がして、ハッと顔を上げる。
そう、私は今、真夜中のフィッシュボウルにいたんだった。
奥のカーテンの陰から、ザンが――倉本主任が、こちらに速足で近づいて来るところだった。
「悪い、遅くなった」
「いえ。大丈夫ですか? 今、いつの何時ですか?」
倉本主任、ちゃんと休めたんだろうか。
「日曜の昼だ。俺は大丈夫だから」
何か、しゃべり方が急いでるみたい。
「あのー、弟さんのこと……」
「うん、読んだ。死んだわけじゃなかったんだな」
「す、すみません、私の早とちりで!」
ひー、また怒られるっ。私が肩をすくめると、彼は柔らかな口調で言った。
「いや、まああの言い方じゃ、そう思うよ僕も」
――今、倉本主任、自分のこと『僕』って言った。
私は唇を噛んだ。
そんな私に、彼はまたいつもの口調に戻って続けた。
「それより俺、もしかしたらその人のこと、わかるかも」
「えっ!? 弟さん!?」
私は仰天した。
あっ、そうか、倉本主任は少なくとも私より、愛海先生との関わりが深い。何かヒントになるようなことに思い当たったのかも!
「そ、そしたら愛海先生の心残りがなくなるかもしれないですよね!」
「それで璃玖が、解放される可能性もあると思うんだ。先生は、璃玖をこの世界に引き込んだり解放したりっていうのは自分ではコントロールできてないみたいだけど、閉じ込めっぱなしってことは望んでないと思う。お前のこと気に入ってるんだし……弟の嫁に望む程度にはな?」
うっ。昼間の先生との会話、読んだんですね。
「ちょっと俺、調べてみるわ。少し会社を離れたりするかもしれない。原稿は持って行くけど、移動中は読めないかも」
コピー用紙の束を持ってくの?
「なっ、なくさないで下さいよ」
小説がバラバラにでもなったら、私どうなるんだろうとか考えるとね。私もバラバラ? みたいなスプラッタなことを考えてしまうわけで。
「大丈夫。今、ツカに文字が移ってるから。コピー用紙の代わりに置いてみたら、そっちに文字が現れてるんだ」
ああ、ツカ……それならバラバラにはならないかな。
ツカというのは、束見本のこと。これから出す予定の本とまったく同じ紙・サイズで作る、でも中身や表紙は真っ白な本のことだ。
セットものや全集ものを出す時に事前に作って、化粧箱を作る時にサイズの参考にするとか、カバーだけ巻いて宣伝に使うとか、そういう用途の見本。
もちろん、本が実際に完成してしまえば束見本は不要になるので、私なんかはよくもらって帰って甥っ子のラクガキ帳に進呈してるんだけど、愛海先生のこの物語は今、その真っ白な本に浮かび上がってるらしい。
突然、倉本主任が両手で私の頬を挟んだ。
「しっかりしろよ。何度でも言うけど、お前は戻るんだからな、こっちに」
一瞬、呼吸が止まったけど、私はいつものように笑った。
「もちろんです」
この、倉本主任の黒い瞳を、また見られるかな。
すると、彼も私の瞳を見つめ、その姿勢のまま言った。
「こんな、自分の身体じゃないような感覚じゃなくて、直接お前の瞳を見たい。名前の通りの、璃玖の瞳を」
えっ。そ、それって……。
「くらッシュ、私の名前の意味、知ってるんですか?」
思わずあだ名の方を口走ってしまった。
「気になる女が、変わった名前してたら、意味くらい調べる」
何だかむすっとした顔をして言うと、彼は早口で続けた。
「明日の夜は会えるかわからないけど、何か分かったらなるべく早く知らせられるようにするから。勝手なことしないで、僕を待ってて。じゃあ、行って来る」
私の頬を親指でちょっと撫でてから手を離すと、倉本主任はまた速足で去っていってしまった。長身がカーテンの陰に消える。
い、今、なんて言った? 気になる女? 私が?
私の名前は、『璃』が宝石とか水晶、『玖』は美しい黒い石のことだ。母が、生まれたばかりの私の瞳を見て、この子どもの無垢な瞳が大人になっても澄んでいるように、とつけてくれた名前。
く、くらッシュってば、私の瞳が名前の通りだって……。
うああ、こっちが恥ずかしくなります!
巻きスカートの前の部分をぎゅーっとつかんで悶えつつ、私は複雑な気分でいた。
倉本主任、少しこの世界から離れるんだ。それなら、ザンとの融合も進まないかも。それはホッとする出来事だ。
でも……早く帰ってきて欲しい。矛盾した気持ち。
――僕を待ってろ、か。また『僕』って。
急がないと。もう時間がない。
私は首を横に振って色んなものを振り切ると、自分も足早にフィッシュボウルを後にした。
◇ ◇ ◇
翌日は、朝からズーイさんにつかまった。
「花嫁衣装ができあがってきましたよ! 少し直しますから、着てみて下さい!」
ぎゃあああ。そうか、すっかり失念してたけど、この一年の間に結婚式の準備が進んでるのね。
ズーイさんとお針子さんらしき女性に着せつけられた花嫁衣装は、女神マーナの服装に似ているインドのサリー風のものだった。色も同じ白。光る糸で貝殻のような模様が織り込んであって、とてもとても、綺麗だった。
ズーイさんは、衣装を着た私を褒めちぎってくれたけど、私は申し訳ないような気持ちでいっぱいだった。
「どうなさったんですか、リク……どこか苦しいですか?」
ウエストのあたりをチェックしてくれる、優しいズーイさん。この世界の人は、みんな優しい。
私は笑顔を作って、お礼を言った。
「ズーイさん、色々とありがとう」
彼女は、ちょっと不思議そうな顔をしていた。