1 その日までは
青い光に満ちたフィッシュボウルの中を、私は落ち着かない気持ちでぶらぶらと歩いていた。
いつものように、真夜中にここに来たのに――倉本主任が、なかなか現れないのだ。
疲れて眠っちゃってるのかな? だったらもちろんしょうがないけど……でも、話したいことがあったのに。
ザンのモデルである、愛海先生の弟さんが、生きているらしいこと。
そして、その弟さんとの再会が、先生の心残りであること。
このラグーンの物語は、再会のきっかけになるようにという希望が込められていること。
心残りが、先生をあんな風に酔っ払ってるような記憶があいまいなような状態にしているのなら、弟さんを探して会わせてあげたいと思う。そして探してあげられるのは、今は倉本主任しかいない。
でも、二十年以上音信不通の弟さんが、簡単に見つかるとは思えないし……今は時間がないから無理か、やっぱり。
まずは私が現実世界に帰ることが先決だよね。そうしたら、私が弟さんを探すのに。
奥の段差に腰かけた私は、ぼんやりしているうちに昼間のことを思い出した。
◇ ◇ ◇
先生と会った後でラグーン城に戻ってきたら、ちょうどナキさんが城を出てテラスから降りるところだった。街に帰るらしい。
ウミガメくんに頼んで、私はナキさんの近くに着地してもらった。
「お、巫女どの。お疲れさまでした」
「ナキさん、女神さまが、塔が完成したら来て下さるそうですよ」
ウミガメくんから降りながら言うと、ナキさんは「良かった」とうなずいた。
「すみません、お帰りの所を引きとめて」
「いやいや、こちらこそお疲れの所をありがとうございました。ザン殿が、お戻りを待っておられましたよ」
軽く手で城の方を示されて、私はあいまいに笑った。
「そ、そうですか」
うーん、会ってまたラブラブウェーブが来たらどうしよう。
私がちっとも急がずにグズグズしていると、ナキさんが言った。
「あの……巫女どの。もしかして、巫女どのは、あまり結婚に乗り気ではないんですか……?」
「えっ、あー……」
な、何て答えよう。
「私は、女神さまによってこの世界に連れてこられましたけど、そのう……」
永住するつもりで来たんじゃないんですー。
とも言えないし、嘘もつけずに言葉を濁していると、ナキさんが軽く目を見開いた。
「もしや……いつか、女神の世界にお戻りになる?」
「…………かも?」
答える私が疑問形でどーする。
そ、そうだ、昔話の『かぐや姫』っぽく答えておこう! なんでこれ、今まで思いつかなかったんだろう!
「いつか、女神さまの世界からお迎えが来るかもしれないと思うと……」
遠い目をしてみせた。
お迎え、ある意味もう来てるからね。倉本主任がね。
すると、ナキさんは微笑んだ。
「私はね、巫女どの、女神マーナが時おり海からこちらをご覧になっているのを見て、ずっと思っていたのです。マーナはもっと、こちらに近づこうとされていると」
そして続けた。
「そうしたら、あなたを遣わして下さった。これからは、塔だってあるではないですか。もしかしたら、二つの世界が溶けあう時が来ているのかもしれませんよ?」
二つの世界が溶けあう、か……。愛海先生がこの世界のために何かしたいと思ってるのは確かだけど、でも今の方向で大丈夫なのかな?
そんなことを考えながら、私はウミガメくんにもう一度乗ってラグーン城に戻った。
彼にご飯をあげようとフィッシュボウルに行くと、ザンが奥の長椅子で書類を読んでいた。
「リク」
こちらに気づいて微笑みかけてくれたので、
「ただいま」
とだけ答えて隅の壺の方へ行き、ウミガメくんにご飯をあげるのに集中した。
でも、ザンが時々こちらに視線をやるのも気になったし、ウミガメくんは海藻をくわえたらさっさと行ってしまったしで、間が持たない。
何か理由をつけて部屋に戻ろうとして振り返ったら、ザンが立ち上がってこちらに近寄って来るところだった。
「リク……どうかした? 今朝からなんだか……」
私がザンを避けているのに、さすがに気づかれたらしい。いつものように、長身を少しかがめて私の顔を覗き込んだ。
「ねえ……ザン」
私は下を向いて口ごもりながら、さっきナキさんに言ったのと同じことを言った。
「私は女神さまにここに連れてこられたけど……いつか、今度はお迎えが来るかもしれない。もしそうなったら……」
私が元の世界に帰ってしまったら、勝手だけどザンには別の幸せを見つけてほしいと思う。
だから、その可能性はザンにも知っておいてほしい。
「うん……それは、僕も、考えた事があるよ」
はっ、と顔を上げると、ザンが私を見つめていた。
「初めて会った時から、どこか他の場所に君の気持ちがあるのは、気づいてた」
お見通し、だったのか……鋭いな。倉本主任みたい。
「それでも、結婚するの?」
私が尋ねると、ザンははっきりとうなずいた。
「将来そういうことがあるとしても、その日までは、君は僕のものだ」
強く抱き込まれた。ザンの胸に、私の吐息がこぼれる。私はそっと、彼の背中に手を回して抱きしめ返した。
私の知らない一年の間に、私の婚約者になった人。きっと彼から、私にプロポーズしたんだろう。
その時、彼は何と言ってくれたんだろう……もちろん、そんなことは聞かない。もう一度言わせるなんて、そんなこと絶対したくない。
目を閉じて、私は言った。
「……早く、結婚式の日が来るといいな」
こんな風に、何日も過ごすよりは。早くその日が来るといい。
もし私が元の世界に帰れなかったら……。
その時はきっと、私はずっと、この人のそばで暮らすだろう。そう思った。