1 見覚えのある女神
「……???」
私は、一通りあたりを見渡した。
と言っても、何しろ、空と海と砂だけ。シンプル。
海の向こうは水平線、砂の彼方は地平線。実にわかりやすい。
人の子一人いないし、家の一軒、車の一台もなし。あっという間に見終わってしまう。
……こんな場所、日本にあったっけ。鳥取砂丘だって、もっと起伏があって、林なんかも見えて……。
いや、だいたい、会社にいたはずなのに、なんでこんなことに?
言う言葉の一つも思い浮かばない。
身じろぎすると、服の隙間に入り込んだ砂が、ざらざらして気持ち悪い。
……とりあえず、身体から砂を落とそう。
私は立ち上がると、スカートのウエストからシャツを引っ張り出し、シャツの胸元をバタバタやって服の中の砂を落とした。
髪をまとめていたバレッタも外して、頭を振る。天然のウェーブヘアからも、砂がパラパラと落ちる。
手足だけでも流そう。
社内用に履いていたミュールを脱ぎ、砂の入りこんだストッキングも思い切って脱いでしまって、私は用心深く波打ち際に足を浸した。少し温まった海水が、さざなみを寄せている。
数歩進んで、膝下まで海につかり、私はかがんで手を洗った。
ぺろり、と指をなめてみると、普通に海水だった。塩辛い。
鮮やかな青をした小魚が、ちょんちょんと足にぶつかって来る。その小魚の影が、砂地に映って揺れている。
鼻の下に、脇の下に、じわりと汗が浮いた。
……このままここに立っていたら、日焼けして真っ赤っかのヒリヒリで大変なことになるんじゃないだろうか。これだけ天気が良いんだから。でも、日陰になるような場所がない……。
もう一度当たりを見まわしてから、海に視線を戻すと。
少し離れた水面に、人が立っていた。
真っ白な長い髪、アクアマリンの瞳。透き通るように光っていたけれど、その姿は間違いなく、
「愛海先生!」
私はこの状況に陥ってから、初めて声を上げた。
でも、様子が変。いや、髪や瞳の色も変だし水の上に立ってるだけでも十分変なんだけど。
愛海先生の身体は、半分透けていた。瞳はぼんやりしていて、今にも眠りそうな表情。
服装も変わっていて、インドのサリーみたいに上半身に斜めがけした白い布が、風もないのにふわりと浮かんで足元を取り巻いている。ウエストは少し肌が見えていて、その下はロングスカート。そのスカートも白く、裾がふわりと広がって水中に没していた。
額や首、手首には、虹色に光る貝殻のようなアクセサリーが連なり、絡まりついている。
その姿は先生の美しい顔と相まって、まるで海の女神のようだった。
先生はゆっくりとこちらに視線を向けた。
『……璃玖さん……?』
「そうです! 聞こえてますか!?」
私は夢中だった。だって、こんな状況で知ってる人に会えたんだもん。
たとえ相手が死んでたって、すがりつくでしょ普通! お花畑の向こうにおばあちゃんが見えたら、そっち逝っちゃうでしょ普通!
「ここはど……!」
一歩踏み出した時、ずるっ、と足元の砂が崩れ落ちた。
「!」
声もなく、私は頭まで水中に沈んでいた。遠浅だと思っていた浜が、ここから急に深くなっていたのだ。
うそ、私、泳げないんだけど……!
必死で水を掻いて、水上に頭を出そうとして――その前に、水中の景色が目に飛び込んできた。
ピンクの魚の群れは帯がたなびくように泳ぎ、黄色の魚の群れは海草の森をかすめて飛び去る。
海底は一面、珊瑚礁。木々のように密集する珊瑚、段々畑のように連なる平らな珊瑚。黄色、紫、緑に青……色が海上からの光線に照らされて乱舞する。
そんな華やかな世界を、誰かが泳いでくる。愛海先生だ!
でもそれは、あまりにファンタジックな光景だった。
海水を巻き込んで泡の渦を作りながら、私の周りを一周して目の前で止まった先生の身体は。
下半身が白いうろこにおおわれ、時おり虹色に光っていた。
人魚? いや、なんか違う。下半身が長すぎ! 全長三メートル以上ある。ヘビ? ドラゴン?
先生はふわりと微笑み、私の右手をつかむと、水面ではなく底へ向かって泳ぎ出した。
な、なんで、なんで!? だめーっ、溺れるー!!
だんだん気が遠くなっていく。
気を失う直前、海の底の珊瑚の林の間に、紺色の髪をした男の人が立っているのが見えた気がした……。