8 囚われる思い
「ヨウちゃん、か」
ぼそり、と倉本主任がつぶやいた。
ああ、弟さんのことを考えてたのか。
愛海先生は、弟さんのことをすごく可愛がってたんだな。弟さんの描いた絵を、ずっと大事に持ってたくらいだもん。主任もそのことを思ってるんだろう。
そんな弟さんをモデルにしたザンと、何だか変なことになっちゃって、ごめんなさい。
「あの設定、やっぱり入れたらいいんじゃ……?」
「あの設定?」
「『巫女は処女でなくてはならない』……そしたら、結婚だって形ばかりに……」
そこまで言ったものの、私は罪悪感を覚えて口をつぐんだ。
そして、自分が罪悪感を覚えた事に、ショックを受けた。
もう、私はザンのことを、ただの小説のキャラクターだなんて思ってないんだ。だから、嘘をついたり傷つけたりしたくない。
……ちょっとちょっと、しっかりしないと。私は帰るんだよ? 元の世界に。
「こいつ、さっきも、巫女がなかなか海上から戻ってこないって、何度も海面を見上げてた」
倉本主任が、ぽそっとこぼした。
そんなこと言わないでよ……その顔で、その声で。
そう思ったけど、私は黙って彼の話を聞く。
「ザンはたぶん、結婚して家族を作ることに、人一倍あこがれてるんだろうと思う。養父母に可愛がられて育ったとはいえ、神官という身分があるために他の家庭との交流もないだろうから、ごく普通の家庭がどんなものか知りたいという気持ちも強いんだろう」
私がじっと主任を見つめると、彼は肩をすくめた。
「いや……俺も結構フクザツな家庭で育ってるんでね。色々、ザンの気持ちを想像してしまう」
「そう、なんですか?」
……もしかして、ザンの目を通してラグーンの世界にいるせいで、倉本主任はザンにずいぶん感情移入してるんじゃないだろうか。
「でも、私は帰るんです!」
私は、ザンの姿に宣言するように言った。
「きっかけを作っちゃったのは私で、それは悪いことしたなって思いますけど。でも、本当の結婚なんてもちろんできないし、しません。今日は状況把握に手一杯で何もできなかったけど、必要なら明日からだって、つれない態度を取るくらいやってみせます」
ああ……落ち込む。ザンみたいな人を、嫌いでもないのに振らなくちゃならないなんて。振る側だって辛いんだっ。
「早く、そっちに帰りたい」
口に出したら泣きそうだよ、もう。
不意に、倉本主任の手が私の肩に回った。
ぐっ、と力が入って、抱き寄せられると、思った。
――彼は、そっと手を離して言った。
「……このまま、お前を連れて帰れたらいいんだけどな」
視線が絡み合った。でも、それも少しの間だけで、逸らされる。
少し、沈黙が落ちた。
主任が、自分の膝をポンと叩く。
「余計なことを言って悪かった! 璃玖がこっちに帰ることだけ考えよう」
「そうしましょう!」
ドライに行こうドライに! 元々私はそういうキャラじゃないの。
「で、言いにくいんだがな、璃玖。結婚式まで、たぶんもうあまり時間がないぞ」
「え?」
「ザンとナキが、話してたんだ。塔の完成セレモニーと結婚式を、同時にやったらどうかって」
それを聞いたとき、私が考えたのは、自分の貞操の危機のことなんかじゃなかった。
前回の『夜』に倉本主任が言ったセリフで、何がおかしかったのかに気づいたのだ。
あのとき、まだ塔は計画段階で、デザインも何も全く決まっていなかったのに、倉本主任は言った。
「白い塔」って。
なぜ、これから建つ塔が白だとわかったの? 愛海先生の弟さんが描いた塔は、青いクレヨンで描いてあったのに?
それに、だんだん私のことを「璃玖」と名前で呼ぶようになってきて……。
私は背筋がぞくりとするのを感じた。
倉本主任とザンの人格が、混ざり始めてるんじゃないだろうか?
このままだとどうなるの? 倉本主任もこちらの世界にとらわれて、戻れなくなるんじゃ……。
早くこの物語を終わらせないと、取り返しのつかないことになるかもしれない。
先生は何と言ってたっけ? 区切りとなるような出来事が終わって、私がヒロインとしての役割を済ませれば、元の世界に戻れるかも……?
『もちろん、『めでたしめでたし』系でねー』
一つ、その条件を満たすことができる方法がある。
私は密かに、ある決意を固めた。
本当に倉本主任が危なくなったら、この方法を実行するしかない。私のために、主任を巻き込むわけにはいかないよ。
「璃玖? また疲れてボーっとしてるのか?」
倉本主任が、私の前で軽く手を振る。
「考えてたんですよっ。どうしたらザンと結婚しないで済むかって!」
私はわざとっぽく、少しイライラしている演技をして主任をにらんだ。
主任には、気づかれないようにしなくては。
9/6拍手小話更新しました!




