1 真夜中の金魚鉢
夜のフィッシュボウルは、かすかな青い光に染まっていた。
海は深くなるにつれ、赤い波長の光から吸収していく。そして残った、純粋な青。
まだ、ザンは来てないみたい……。
私はフィッシュボウルの真ん中に立ってぐるりと見回し、誰もいないのを確認すると、奥の一段高くなった場所に腰かけた。
白い床も、青く染まっている。足元を、数匹の細長い魚が追いかけっこしながらすり抜けていく。
音を立てないようにこっそり部屋を出てきたから、ズーイさんやリュウにはたぶん気づかれてないと思う。でも、あんまり長く部屋を空けてもしばれたら、また心配をかけてしまうので申し訳ない。一応、上掛けの中に適当なモノを詰めて、寝てるっぽく見せかけては来たけどね。
いないことに気づかれたら、後で「また女神に呼ばれちゃって!」って言うしかないか。お手軽に呼び出される巫女だなー。
時計がないから、真夜中って言うのがいつなのかよくわからないけど、お城の中は静まり返っていた。
ラグーン城にはもちろん、掃除や料理や他の色々を担当する様々な人たちもいて――まあ、それほど数は多くないみたいだけど――昼間は歩いていると何人かとすれ違うんだけど、今夜ここへ来る途中には、誰とも会わなかった。もしかして、通いで来てるのかな。夜は下の街へ帰るのかも。
――あの人たちも、みんな、現実世界では亡くなっている人たちなのかな。ズーイさんも、リュウも、そしてシュリさんやヤーエさんも……?
考えに沈んでいた私に、後ろから声がかかった。
「宮代」
振り向いた。
少し離れた所に、ザンが立っている。紺色の髪が、この青い空間では黒っぽく見えた。
少し遅れて、驚きが脳を揺さぶった。無意識に立ち上がる。
この人、「リク」って呼ばなかった!
「今、なんて?」
上ずる声で聞き返すと、ザンはこちらに近づいてきて段差を降り、私のすぐ隣に立った。
「宮代、俺だ。倉本」
私は黙って彼を凝視した。
あの、青いような緑のような、不思議な色の瞳は、今は明かりを点した闇夜のように黒く光っていた。でも、姿かたちは、この世界で初めて出会った人物、ザンだ。
それなのに、倉本主任…だと?
私は聞いた。
「フルネームをどうぞ」
ザンは軽く目をすがめた。あ、今の表情は初めて見る……ザンらしく、ない。
「倉本 鷹」
合ってる。
いや待て、ここが愛海先生の作った世界なら、先生が知ってることをザンが知ってるのは当たり前だ。何か……そう、私と倉本主任しか知らないようなことを聞いてみないと。
「倉本主任が担当したピラティスダイエット本、印刷直前に発見されたミスは?」
尋ねると、ザンは口をへの字に曲げてから答えた。
「カバーの写真が裏焼きだった」
合ってる。
カバーの校正紙を見て、写真の女性タレントのホクロの位置が左右逆なのに気づいたのは、私だ。結局あれ誰のミスだったんだろ。
ともかく間違いない、姿はザンだけど、今私と会話してるのは倉本主任だ!
「どういうことですか?」
私が聞くと、ザン(倉本主任)は「信じたか」と言いながら、さっき私がそうしていたように段差に座った。
「時間がない。手短に行くぞ」
あっ、と私は思った。いつも打ち合わせの時に、倉本主任が言う決まり文句だ。「手短に行くぞ」。
私は少し安心した気分で、隣に腰かけた。
「まず俺、倉本は今、会社の出版部の部屋にいる」
しょっぱなから「?」な言葉が飛び出した。
ザンの顔をした倉本主任の話は、こうだった。
金曜の夜、彼は他社の編集さんたちと、愛海先生の追悼飲み会をやった。お酒が大好きだった愛海先生を偲んで、それは深夜まで及んだ。
当然のように終電を逃し、倉本主任は会社に泊まりに来た。
はいはい、それ用に寝袋置いてるもんね、くらッシュ。
出版部の部屋には明かりがついていた。誰かが残業してるのかと入ってみたけど、誰もいない。
私のデスクがいかにも作業中で、バッグも携帯も置きっぱなし、デスクの下には通勤用の靴もそのまま。しかし当の私がいない。
そして椅子が倒れ、床に原稿用紙の束が落ちていた。様子がおかしいのでいぶかしみつつも、原稿の束を拾おうとすると……。
「原稿用紙が、発光してるんだよな。で、すぐそばのコピー用紙の束に、その光が移ってるんだ。見てみると、こう……コピー用紙にじわじわと文字が浮かび上がっていて」
こう、と何か表現しようとしたらしい倉本主任は手を浮かせたけど、結局そのまま膝の上に下ろす。
「その文字、筆跡が愛海先生の字なんだ。宮代が先生から預かった原稿はプロローグだけだったけど、続きが――本編が少しずつ、浮かび上がってきてるんだよ」
「続き、って……」
「宮代がラグーン城に到着して。ズーイに世話になって。神官ザンに巫女って呼ばれて」
「ちょちょちょ、ちょっと待って下さい」
私はあわてて遮った。
「ずっと、私の行動を小説として読んでたってことですか!?」
「そういうこと」
ザン、いや倉本主任がうなずく。
一瞬呆然となった私は、即座に立ち直って急きこんで聞いた。
「あの、ひとつ確認したいんですが。愛海先生の書いたプロローグは三人称で書かれてましたが、浮かび上がってきた本編もそうですか?」
彼は答えた。
「そうだけど?」
よ、良かったぁ――!
私は思い切り、安堵のため息をついた。
だって本編が、ヒロイン(私だ)の一人称であってごらんよ! 私の考えたことがダダ漏れになってた可能性があるじゃないの! ただでさえ不思議な世界なんだから。
リュウを見たときに元カレのことを考えたこととか、やっぱ知られたくないじゃん、上司になんて。
「ただし、ヒロイン視点の三人称だったけど。たまに神視点も入るし」
「ぎょぎょっ」
げ、じゃあ私の行動が、他のキャラクターよりは細かく書かれているということにっ。しかも神視点? ってことは、キャラクター自身の知りえない、愛海先生しか知らない出来事も入ってきてるわけ?
うわーん、先生、あまり私について変なこと書かないで下さいよ!?
「何」
倉本主任にじろりと見つめられて、私はぶんぶんと首を横に振った。
「何でもございません。続きをどうぞ。そう、どうして倉本主任が、ザンの姿でこんな風に?」
ザン二重人格疑惑の真相、次話に続きます。なんとなくビクビクしながら更新中(笑)