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プロローグ

 うちみたいな弱小出版社でも、忙しいものは忙しい。

 今日は、出版社で最も忙しい日の一つ、『見本出し』の日だしね。

 始業してすぐ、宅配のお兄さんが重い段ボール箱を担いでやってきた。中には、茶色のクラフト紙に包まれたかたまりが二つ。印刷所から見本として送られてきた、出来立てほやほやの新刊本です。ああ、紙とインクのいい匂い!


 これを数か所ある取次に持っていけば、仕入れ部数が決定されて全国の書店に配本される流れになるんだけど、取次が見本出しを受け付けるのは、基本的に午前中のみ。

 ここは新宿の外れ、あまりのんびりしていると、大手取次のあるお茶の水や飯田橋で午前中のうちに見本出しを済ませることができなくなる。社員たちがあわただしく見本本を袋に詰め、出かけていった。


 すっかり閑散とした部屋で、一人でお留守番の私はため息をついた。

 やれやれ、見本を送りだすとほっとするな。さて、配送する分の見本出しも終わらせちゃおう。

 遠方の取次宛ての伝票を書こうとした私は、開け放したままのドアからふんわりしたシフォンのチュニックがのぞいているのに気がついた。


「あっ、愛海まなみ先生!」

「おはようございます、璃玖りくさん。ごめんなさい、今日って忙しい日だった?」


 エッセイストの愛海先生――もちろん名字もあるけど、ペンネームでは下の名前だけを名乗っている――だった。

 うちの出版社から出している雑誌に連載を持っているので、普段は雑誌部の方と付き合いのある先生なんだけど、その連載をまとめた本をわが書籍部で出している関係で、私も顔見知り。


 そうそう、私の名前は「宮代みやしろ 璃玖りく」と言うんだけど、

「私は海で、宮代さんは『陸』なのね!」

と愛海先生が面白がってくれて、以来下の名前で呼んでくれる。フレンドリーな先生だ。

 これで、さらさらストレートの長い黒髪に、テレビ出演依頼が引きも切らないという美しいかんばせなのだから……天は二物を与えるよなぁ。


「おはようございます! 今日は新刊の見本出しで、出払っちゃってるんです。倉本にご用ですか?」

 愛海先生の本の担当をしている主任の名前を上げると、愛海先生はうなずいた。

 そして目元をほんのり染めながら、大判の封筒を私に見せるように胸の前に上げた。

「例のファンタジーね。設定資料と、出だしの所だけ書いたから、見てもらおうと思って」

 思わず、わお、と声が漏れる。


 愛海先生、もともとはエッセイストじゃなくて、ファンタジー小説家になりたかったのだそうだ。今までエッセイを書いて経験を積むうちに、書きたいことが表現できるようになってきたと実感したので、子どものころからずっと温めてきた物語を書きたいと思ったんだって。

 それで、うちの倉本主任に、世に出せる作品かどうか見てもらいたい、という話を持ってきたのがほんの三日前。

 人気エッセイストが書くファンタジー小説だもん、話題性は十分だよね!

 ちなみに、愛海先生はいまどき珍しい手書き原稿派。直接持ってきてくれたんだ。


「私も読みたい! 倉本の次に読んでいいですか?」

「は、恥ずかし……! ん、でも感想聞きたいな」

 はにかむ愛海先生。そこで私は、お茶も出していないことにやっと気がついた。

「あ、すみません、どうぞお座りになって下さい!」

 ソファのあるパーテーションの向こうに手を向けると、愛海先生はニッコリ笑って、

「ううん、ちょっと寄らせてもらっただけだから、いいの。これ、倉本さんに渡しておいて下さい」

と封筒を私に渡した。

「それじゃ」

 軽く会釈をして、身をひるがえす。ツヤツヤの黒髪が、背中でさらりと揺れた。


 封をしていない封筒を、指先でチラリと開いてのぞくと、原稿用紙の一行目に綺麗な文字で『プロローグ』と書かれているのが見えた。

 うわー、倉本主任、早く帰ってこないかな!

 うずうずしている所へ、電話のベル。書店からの注文電話だろう。

 私は急いで電話を取りながら、封筒を倉本主任のデスクに置いた。


 結局、その物語は、プロローグから先に進むことはなかった。

 その夜、愛海先生が、交通事故で亡くなってしまったから。


◇  ◇  ◇


 倉本主任は部屋に入ってくると、塩が入っていたらしい開封済みの小袋をごみ箱に捨てた。

 自分のデスクの足元に鞄を置き、黒いネクタイの結び目に指を入れて緩める。

「お疲れ様です……」

 声をかけると、うん、とうなずいて、

「ファンがずいぶん来てたよ。……残念だな」

と椅子に沈み込んでため息をついた。

 今日は、愛海先生のお葬式だった。先生のご実家は、静岡県の海に面した街にあり、ご実家近くの斎場で執り行われたそれに、倉本主任を始めうちの会社から何人かが出席していた。


 倉本主任は、デスクの上から封筒を取り上げた。愛海先生の原稿だ。

「この原稿、ご遺族にお返ししないとな。雑誌部の方でもお返しするものがあるって言ってたから、一緒に入れてもらって」

「はい」

 私は手を伸ばして、封筒を受け取る。この封筒を持ってはにかんでいた先生の笑顔が思い浮かんで、目頭がじわりと熱くなった。


 愛海先生……いつか、作家御用達の、お茶の水の『山の上ホテル』でカンヅメになれるくらい、有名な作家になるんだって言ってたのに。


 倉本主任はロッカーで普通のスーツに着替えると、ホワイトボードの予定表に『○○印刷→直帰』と書き込み、

「それじゃ、お疲れ」

と私の肩を一つ叩いて、また鞄を下げて部屋を出ていった。


 時計は、夕方の五時を回っていた。このくらいの時刻になると、書店からの注文電話も減って、その日にやり残した仕事をゆったりと片付けることができるようになる。

 部屋には、私一人だった。個人のお客さんのデータを入力し終わると、椅子の背にもたれてぐうっと伸びをする。


 机の上の封筒が目に入った。

「……先生、約束通り、読んでもいいですか?」

 私はぽそっと呟き、そっと合掌すると、封筒から原稿用紙を取り出した。


 薄緑の罫線の中のきれいな文字が、すべるように、私を物語の世界へと誘った。


 プロローグだけなのに、かなり入りこんで読んでいたと思う。

 さらさら……

 さらさら……

 何かがこぼれ落ちるような音が耳に入り、私は我に返った。

 どこから聞こえるのかと、原稿から顔を上げて、あたりを見回す。

「……えっ?」

 パソコンのディスプレイが、角の所から砂のように崩れ始めていた。

 がた、と立ち上がると、原稿用紙がデスクの上に落ちる。そのデスクも、角から白く変化してさらさらと崩れていく。

 振り向くと、椅子も。キャビネットも。コピー機も。

 やはり白っぽく変化しながら崩れ落ち、床に砂の山を作っていった。

「や、なんなのこれ……!」

 後ずさった足が、ザッ、と砂を踏む。

 とにかく部屋を出なくちゃ!

 踵を返した私は、ハッとして天井を見上げた。


 蛍光灯が一気に崩れて、大量の砂が私の上に降って来るところだった。

「うわ……っぷ……!!」

 私は手で顔をかばいながらしゃがみこみ、目を閉じた。ざあっ、と身体に砂が降り注ぐ……。


◇  ◇  ◇


 次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは、抜けるような青空。エメラルドグリーンの海。真っ白な砂浜。


 私は穏やかな波打ち際の砂の上に、たった一人で座りこんでいた。

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