1-3
珠洲香先輩が所に着てから1ヶ月が経った。
何回か出動があったけど、珠洲香さんはいつも所内に残っていた。
あれだけ、現場に出たいと言っていたけど、何か事情があるのだろうか。
事情と言えば、時折珠洲香先輩は休む。
いや、もちろん僕たちにも休みはある。
出勤日、非番日、週休日とあって、週休日が休みの日に当たる。
でも、珠洲香先輩は非番日でも、ときどき2時間ぐらい、いなくなるのだ。
もちろん、どっかで埋め合わせはしているのだろうけれど、
シフト表から外れた動きは目立ってしまう。
綾佳さんに聞いてみると、医者に行っているのだという。
「医者の都合と消防のシフトと合わないからなあ。
その分、ずずには無理させてるよ」
もう、すっかりずずが通るようになってきている。
「どっか、悪いところがあるんですか?」
「うん、あー、まあ、詳しいことは知らないんだけど、いろいろとな・・・」
物事をはっきり言う綾佳さんにしては、珍しい言い方だった。
「ヒロにもいろいろフォローしてもらうことがあるかもしれないけど、頼むよ」
はい、とは言ったけど、そんな日がくるなんて、思ってなかった。
あの日、所長と綾佳さんが真剣な話をしていた。
いや、綾佳さんはまず、冗談を言うような人ではないので、それはいつものことなんだけど、
所長のあんな真剣な顔は、現場でもない限り、まず見ることはなかった。
そして、その結論。
「ずず、次回の出動は、現場に行ってもらう。その準備をしておいてくれ」
「はい!」
珠洲香さんの表情には、うれしさと緊張、そして不安が入り交じっていた。
そして、その初出動の日が来た。
いつものように、ブザー音、連絡、そして着替え。
いつもの手順、いつもの動作。手慣れた物のはずだった。
建物火災。一軒家で類焼の恐れなし。安否は確認済み。問題なし。
珠洲香先輩は真っ先に着替えて、真っ先にポンプ車に乗り込む。
自分より速い動作に、少々、焦ったぐらいだった。
(なんだ、珠洲香さん、訓練はばっちしじゃないか)
これなら、いつものように、簡単な作業だ。
でも、いつもの和音に少しだけ混じっていたのは、珠洲香さんの単音だろうか。
カチカチ、カチカチ。狭い車内に響く。
その音は、珠洲香さんが震えている音だった。顔面は蒼白。
確かに初出動の時は、僕も頭が真っ白になった。
でも、ここまで緊張するものだろうか。
「先輩、珠洲香先輩」
「大丈夫、大丈夫だから」
それは、僕の声に答えたと言うより、自分に言い聞かせているみたいだった。
「着くぞ!目標、及び水利の確保、いいか!!」
「はい!」
指示どおりに車が着く。すかさず飛び出す。
目の前に、赤々と燃えさかる炎。
ホースを伸ばし、放水場所を確保。
太江先輩がポンプの操作に入る。問題なし!
その瞬間だった。
「あ、ああ!ああああ!!!」
「ずず、ずず!!」
綾佳さんのうわずった声に思わず振り返った。
半狂乱、と言っていいのだろうか。
「落ち着け、ずず!しっかりしろ!!」
綾佳さんは珠洲香先輩を羽交い締めにしていた。
暴れる珠洲香さんを、抑え込んでいる。
思わず、近寄ろうとした僕を、所長が止める。
「バカヤロウ!現場はあっちだ!!」
いつ、所長が来たんだ?
そう思いながら、再びホースに取りつく。
「くるぞ!ヒロ。はねとばされるな!」
両脚を踏ん張り、水圧で暴れ回るホースを両手で押さえつける。
力一杯込めないと、弾かれたり、ふっとばされたり、何度体験させてもらったことか。
そんな僕の目の前に信じられない光景。
ホースの筒先を楽々と操る所長。
どこにそんな力があるんだ?
いや、力じゃなくて、なにか、特別な操作方法があるのか?
自由自在に筒先を操り、果ては片手で無線で指示まで与えている。
余裕が違いすぎる・・・
もう一方で気になって仕方がないことがあった。
珠洲香先輩は・・・?
所長の指示に従い、必死でホースを操りながら、チラッと後ろを見た。
どうやら、後ろも落ち着いたらしい。
いや、あの白衣の女性は誰だ?
綾佳さんがその人に珠洲香さんを引き渡している。
見えたのはそこまでだった。
内部への突入。鎮火。徹底的に消火。
鎮火鐘を鳴らして、ようやく出張所へひき上げたのは数時間の後。
だが、所には珠洲香先輩の姿はなかった。
消防の方も、勉強することばかりです。
消防組織法、消防法。
消防庁の出している様々な通達。これで消防官の制服が決まっているなんて、
全然知りませんでした。