「跡継ぎを産めないなら出ていけ」と義母に言われた公爵夫人ですが、公爵様は私を手放してくれません
子供が生まれた。泣かなかった。
十時間の陣痛を越えた体は水に溶けるように弛緩していて、クレアの視界は汗に滲んでいた。産婆が赤子を取り上げた。部屋に響くはずの声が聞こえない。水を打った沈黙が天井から降りてくる。壁のランプの炎だけが揺れている。産婆の助手をしていた侍女が息を呑んだ。その音がやけに大きく聞こえた。
新たに生まれた命を祝福するはずだった体が、急速に温度を失っていく。
——ああ、また。
「奥様」
産婆の声がひび割れた磁器のように震えている。皺だらけの腕に抱かれた小さな体を白い布が包んでいく。手慣れた所作だった。何人もの赤子を取り上げてきた老婆の手が、同じ手つきで命のない体を包んでいる。
わたしの子供を。
声に出ていたのか唇が動いただけだったのかわからない。産婆がためらった。目の端で侍女のメグが顔を伏せたのが見えた。それでもクレアは腕を伸ばした。白い布の端に指が触れる。産婆がゆっくりとその束を渡した。
腕の中に重さが落ちてきた。
小さい。こんなに小さかったのか。腹の中であれほど暴れていたのに。蹴るたびに肋骨の裏が軋んで、しゃっくりをするたびにクレアの体ごと揺れて、夜中に寝返りが打てないほど存在を主張していたのに。
目を閉じている。睫毛が長い。ヒューに似ていた。鼻梁がまっすぐで唇が薄い。小さな掌を開くと五本の指がある。爪もある。眠っているようだった。——そう思いたかった。揺すれば目を開けて泣き出すのだと。
腕の中に収まるその子が、それ以外の何よりも愛おしかった。この子が目覚めるなら、自分の命など容易く捨てられる。クレアは本気でそう思った。
額に唇を押しつけた。
冷たい。
生まれたばかりの赤子は温かいはずだった。母の体温を纏って、命の熱を宿して世界に出てくるはずだった。
一年半前も同じ冷たさだった。あのときは五月目で、掌に収まるほど小さかった。人の形に近づいてはいたが、目鼻の区別もつかない。産婆が白い布で包んで持ち出すのを見送ることしかできなかった。抱けなかった。
今度は抱けている。顔が見える。指が数えられる。ヒューに似た鼻のかたちがわかる。
——それが何倍もつらかった。
嗚咽が喉の奥から這い出してきた。殺そうとしたのに殺せなかった。獣じみた音が自分の体から漏れている。天井に跳ね返って壁を伝い、部屋の隅々に広がっていく。
扉の向こうで足音がした。
ヒューだ。何時間も回廊で待っていたはずだ。椅子を勧められても座らずに、壁に背を預けて立ったまま待っていたのだろう。足音が速まった。扉の前で止まる。ノブに手をかけた気配がして——開かない。開けられない。男は産室に入れない。しきたりだ。
「——クレア」
扉越しの声は低く掠れていた。なぜとも何があったとも訊かなかった。訊く必要がないのだ。扉の向こうに産声が聞こえないことが、もうすべてを告げている。
クレアは冷たい子供を抱いたまま、夫の声に答えられなかった。嗚咽だけが漏れる。おそらくその声が扉の木を越えて回廊に届いた。
扉板一枚を隔てて、ヒューの息が止まったのがわかった。
三日目の朝に、乳が張った。
体はまだ知らないのだ。子供が死んだことを。九月のあいだ命を育てる支度を重ねてきたこの体が、約束どおりに乳を出し始めた。胸が石のように硬くなって熱を帯び、寝返りを打つだけで鎖骨の奥まで痛みが走る。
飲ませる口がない。
冷やした布を当ててただ耐えるしかなかった。メグが氷水に浸した布を替えに来る。何も言わない。目も合わせない。古い布を取り、新しい布を当て、水差しの水を足して、寝台の脇に置かれた盆——冷めたスープと手をつけていないパン——を無言で下げていく。六年この屋敷に仕えている少女は、いつの間にか主人の沈黙の意味を読めるようになっていた。
窓辺に弔いの花が並んでいる。
白百合と菊の束。社交界の義理で届いたものだ。この国では死者に白い花を手向ける。子供が生きていたら黄色い花が届いたはずだった。——どこかの夫人がすでに「お悔やみ」の手紙を寄越している。公爵家の嫡子が死産だったことは、おそらく社交界の隅々まで広まっているだろう。
クレアの母は七年前に死んだ。
長い病だった。最後の冬に骨ばかりになった母がクレアの手を取って、「あなたは誰より強い子だから」と言った。力のない声に力だけが込められていた。あのとき母の手は冷たかった。命が去るとき体は等しく冷たくなることを、クレアは母の手で覚えた。
母がいたら何と言っただろう。泣いていいと言ってくれただろうか。泣けないのだと言ったら、泣けるまで隣にいてくれただろうか。
寝室の隅に揺り籠がある。
白い蒲柳の揺り籠。クレアが自分の手で刺繍した綿の敷布。小さな枕。小さな毛布。ヒューの祖父の名前を継がせるはずだった子のために用意したすべてが、与えられるはずの役目を与えられずに空のまま窓辺に佇んでいる。
片づけてほしいと言えなかった。片づけてしまったら、あの子の居場所が消える。居場所を消すことは、あの子をもう一度殺すことだ。
——お前の体が悪い。
誰の声でもない。クレア自身の声だ。頭の中で七日間鳴り続けている。
一度目のあと、ヒューは「君のせいではない」と言った。何度も言った。医師も産婆も口を揃えた。——では二度目は。一度は不運で片づけられる。二度は。二度続けて子供を失った女に、何の言い訳がある。
公爵夫人の務めは跡継ぎを産むことだ。この家に嫁いだ日から、社交界のすべてがそれを当たり前のこととして見ていた。婚礼の夜、義母のオーガスタが乾杯の席で微笑みながら言った「健やかな男子を」という言葉を忘れていない。あれは祝辞ではなかった。命令だった。
跡継ぎを産めないということは、義務を果たせないということだ。
義務を果たせないということは、存在する意味がないということだ。
ヒューは毎日来た。
朝と夕刻に二度、扉を叩いて名を呼ぶ。入ってもいいかと訊く。クレアが返事をしないと、しばらく待ってから靴音を残して去っていく。遠ざかる足音を聞きながら、クレアは毛布を頭まで引き上げた。
会いたくないのではない。合わせる顔がない。
その声を聞くたびに、彼の子を殺してしまったという罪悪感が、クレアの胸を締め付けるのだ。
胸がまた疼いた。寝衣の胸元に湿った染みが広がっている。飲む者のない乳が体を腐らせていくようだった。
七日目に義母が来た。
扉を叩く音で誰かわかった。一度。短く鋭い打音。メグの遠慮がちな三度でも、ヒューの静かな二度でもない。
「入りますよ」
返事を待たない声とともに扉が開いた。薔薇水の匂いが寝室に流れ込んでくる。鼻の奥を刺す甘さだ。この匂いを嗅ぐと背筋が伸びるのは、三年間で叩き込まれた条件反射だった。
先代公爵夫人オーガスタが入ってきた。灰色の絹のドレスに顎元まできっちり留めた襟。白い髪を一筋の乱れもなく結い上げて、背骨に鉄の芯が通っているような姿勢で立っている。この人の背筋が曲がった姿をクレアは見たことがない。三年前に嫁いだ初日からそうだった。
鋭い目が部屋を巡った。散らかった寝台。閉じたままの鎧戸。手つかずの食事の盆。——そして窓辺の揺り籠。
「まだ片づけていないのですか」
最初の言葉がそれだった。
クレアは寝台に体を起こした。七日間梳いていない栗色の髪が肩口で絡まっている。寝衣のまま。この義母の前に出る姿ではなかった。だがオーガスタは身なりのことは何も言わなかった。それが逆に、この訪問の目的の重さを語っている。社交辞令を省くだけの用件があるということだ。
「お加減はいかがですか」
温度のない声だった。形式だけの問いかけだ。クレアが答える前に、オーガスタは窓辺の椅子に腰を下ろしていた。招いてもいないその椅子に座る義母の姿が、かつて自分が公爵夫人として使っていたこの部屋をまだ自分のものだと主張しているように見えた。
「二度目ですね、クレア」
その一言がどこを抉るか、この女は正確に知っている。
「一度目は不運でした。五月目でしたか。よくあることだと医師も申しておりました。わたくしもそう思いました」
オーガスタの指がスカートの襞を正した。
「けれど二度目は——よくあることでは片づきません」
沈黙が落ちた。ランプの芯が爆ぜる音だけが微かに聞こえている。クレアの指が毛布を握りしめた。関節が白くなるほど。
「この家にはね、四百年の血があるのです」
声に感情がない。怒りすらない。事実を並べている口調だ。それが何より冷たかった。
「先代——わたくしの夫は、跡継ぎを授かるまでに八年かかりました。八年ですよ。けれどわたくしは諦めなかった。務めを果たしました。ヒューを産み、育て、この家の当主にした」
言葉を切った。目がクレアを射抜いている。
「公爵夫人の務めとはそういうことです」
クレアの喉が詰まった。何も返せない。返す言葉がない。義母の言うことは正しい。正しいから胸に刺さる。
「あなたにその務めが果たせるのかと、問うているのです」
問うてはいない。宣告している。
「何も、あなたを憎んではおりませんよ」
嘘だ。クレアにはわかっている。この女は息子の嫁を——跡継ぎを与えられない嫁を、内心で見下している。けれどそれを慈悲の皮で覆い、優しさの形をした刃物に仕立てる。
「ただ——現実を見なければなりません。あなたの体は二度の懐妊に耐えられなかった。もし三度目を試して、また同じことになれば——」
「やめてください」
声が出た。掠れて震えて、自分でも聞き取れないほど小さかった。
オーガスタは止まらなかった。
「今度の子は男子でしたね」
心臓を鷲掴みにされた。
「惜しいことでした。男子であれば——」
「やめてください」
今度は少し大きかった。けれど声が大きくなったところで、オーガスタは止まらない。この女は止まらない。標的を見据えたら最後まで追い詰める女だ。三年間で嫌というほど知っている。
「エルドリッジ伯爵のお嬢さんが来月、社交界にお目見えします。十八歳。母御は三人の男子を産んでいる。健康な血筋です」
空気が凍った。クレアの腹の底が抜ける感覚があった。
「わたくしはすでに、先方のお父上にお伝えしております」
伝えている。
打診などという生やさしいものではない。すでに動いているのだ。クレアがまだ褥の血を流しているこの七日間に——いいえ、もっと前からだ。一度目の流産のあとから、この女はクレアの代わりを探していたのだ。
喉の奥が痺れた。視界が薄れていく。
——出ていくべきなのかもしれない。
この女の言う通りだ。クレアがいなくなれば、ヒューは新しい妻を迎えられる。子供を産める女を。健やかな男子を産んで四百年の血を繋ぐ女を。クレアが意地を張ってこの家に留まることが、ヒューの将来を閉ざすことになるのなら——
「あなたのことも考えてのことですよ」
慈悲の仮面が微笑んだ。クレアの全身を吐き気にも似た嫌悪が駆け抜けた。
「子を喪うというのは辛いでしょう。ご実家にお戻りになれば——」
「母上」
声が部屋を断ち切った。
扉が開いていた。いつから開いていたのかわからない。ヒューが敷居に立っている。白いシャツに乗馬の長靴。額に汗が浮いている。朝の騎乗から戻ったばかりだ。いつもの通り扉を叩きに来て——中から義母の声が聞こえた。
灰色の目が母親に向いていた。いつもは穏やかに凪いでいる目が、今は鉄の色をしている。
「いつから聞いていたの」
オーガスタの声に動揺はなかった。息子の前でも仮面を崩さない女だ。
「充分に」
低い声だった。怒鳴ってはいない。ヒューは怒鳴らない男だ。だがその低さの中にクレアが三年間で一度も聞いたことのない温度がある。凍えるほど冷たい温度だ。
「エルドリッジ伯爵への件は今日中に取り消してください。書面で」
オーガスタの眉が僅かに動いた。
「ヒュー、感情で——」
「書面で、と申しました」
遮った。公爵家の当主が母親の言葉を遮る。この家の歴史で何度あったことか。
「あなたは公爵です。この家の血統を——」
「この家のことは俺が決める」
声が一段冷えた。
「父上が亡くなったとき、この家の当主は俺になった。跡継ぎのことも、婚姻のことも、俺が決める。母上ではない」
オーガスタの背筋が揺れた。鉄の芯が軋んだような揺れだった。
「クレアは俺の妻だ」
ヒューの視線が一瞬だけクレアに向いた。凍りついていた灰色の目がほんの一瞬だけ溶ける。すぐに視線は母親に戻った。
「この家を出ることはない。今日も。明日も。この先もだ」
「跡継ぎがいなければ公爵家は——」
「従弟のウォルターが継げばいい」
オーガスタの顔から色が失せた。
「あの男は気のいい人間だ。公爵家を任せられる。——それで構わない」
「あなたは——自分の血統を捨てると」
声が震えている。この女の震え声を聞くのは初めてだった。
「構わない。俺は妻を選ぶ」
静かだった。怒鳴ってもいない。叫んでもいない。ただ事実を口にしている。この男はそういう人間だ。大きな声は出さない。代わりに動かない。一度決めたことを、誰にも崩させない。
オーガスタが立ち上がった。スカートの襞が崩れている。直さなかった。この女が衣服の乱れを放置するのを見たのは初めてだ。唇が引き結ばれている。何か言いかけて、飲み込んだ。言っても届かないと悟った顔だった。
「後悔なさいますよ」
声は震えたままだった。薔薇水の匂いを残して背中が扉に消え、重い音とともに閉まった。
「しないさ」
オーガスタの声に応じた言葉。けれどそれは、彼女に向けられたものではなかった。
二人きりになった。
ヒューは扉の前に立ったまま動かなかった。肩が僅かに上下している。息を整えている。拳が白くなるまで握られている。母親の前では完璧に制御していた感情が、ここにきて体に滲み出している。
クレアは毛布を握った指を緩められないまま夫を見ていた。涙はもう出ないと思っていた。七日間で使い果たしたはずだった。
「……ヒュー」
名前を呼んだ。七日ぶりだった。声が錆びた蝶番のように軋んだ。
ヒューが振り返った。灰色の目が揺れている。母親を相手にしていたときの鉄の色が溶けて、目の縁が赤い。
「入っても——」
いいかと訊こうとして、声が途切れた。喉が動いている。この人は今、泣くのを堪えている。
クレアは頷いた。
ヒューが寝台のそばに来た。膝をついた。床に膝をついて、クレアと同じ目の高さになった。
革と馬と汗の匂いがする。この匂いを七日間遠ざけていたのはクレアのほうだ。扉の向こうに追い返し続けたのはクレアのほうだ。
ヒューの手がクレアの手に触れた。指先から。ゆっくりと。触れていいのか確かめるように指の背でクレアの甲を撫でている。その手が震えていた。
「ごめん」
掠れた声だった。
「——産室に入れなくてごめん。お前が泣いている声を扉の向こうで聞いて、何もできなかった」
クレアの胸の奥が軋んだ。
「あなたのせいじゃない」
声が震えた。おかしな話だ。この七日間、自分に向けていた言葉と同じ言葉を今度は夫に向けて言っている。
ヒューが首を横に振った。
「お前のせいでもない」
その声が胸に落ちた瞬間、何かが割れた。
堤が崩れるように涙が溢れた。乾いたはずの目から。枯れたはずの涙が。七日間泣き続けた体にまだこんなに水が残っていたのかと思うほど、止めどなく溢れた。嗚咽が喉を突き破って出てくる。体面も誇りもなかった。公爵夫人の殻を被る力が、もう残っていなかった。
ヒューの手がクレアの手を握った。強く。指の骨が軋むほど握って、額をクレアの手の甲に押しつけた。
温かい。額が温かい。
ヒューの肩が震えていた。声は出さない。出さないようにしている。この人は声を上げて泣いたことがあるだろうか。公爵の嫡子として、声を殺すことばかりを教え込まれてきたのではないか。肩だけが震えて、手の甲にヒューの額の熱が落ちてくる。
——この人も、泣いていたのだ。
七日間。扉の向こうで。クレアが応えなかった扉の外側で。靴音を残して去っていくたびに、どこで泣いていたのだろう。厩舎で。書斎で。誰にも見えないどこかで、この人は一人で泣いていた。
クレアの手がヒューの髪に触れた。汗に濡れた亜麻色の短い髪。初めて会った舞踏会の夜を思い出した。社交辞令の踊りすらまともに踏めなかった不器用な男が、ワルツの最中にクレアの足を踏んで顔を真っ赤にした。あの赤い顔を見た瞬間、この人は嘘がつけない人なのだとわかった。公爵の地位も家名も全部脱ぎ捨てたら、ただ踊りの下手な若い男がそこにいる。その人がクレアに手を差し伸べた。
ヒューが顔を上げた。目が赤い。鼻の頭も赤い。泣き顔が不格好だ。三年間の結婚生活で知っていた。一度目の流産のあともこうだった。顔中が赤くなって鼻を啜りながら「大丈夫だ」と言おうとする。大丈夫ではない顔をしながら。
「……さっき、言ったこと」
クレアの声が震えた。
「——本気なの」
「本気だ」
躊躇いがなかった。
「でも——四百年の——」
「お前と結婚したのは跡継ぎのためじゃない」
ぶっきらぼうな声だった。不器用だった。きれいな言い回しなど知らない男の、剥き出しの言葉。
「お前がいい。子供がいてもいなくても、お前がいい。——それだけだ」
涙がまた溢れた。拭おうとしたがヒューのほうが先だった。粗い指がクレアの頬に触れてぎこちなく涙を拭っている。繊細さのかけらもない手だ。騎乗で硬くなった指先が壊れ物を扱うように頬を辿る。そのちぐはぐさに、胸が詰まった。
「……馬鹿」
クレアの声が掠れた。
「それを——七日前に言ってよ」
ヒューの手が止まった。耳が赤い。
「……扉を開けてくれなかったのはお前のほうだろう」
正論だった。ぐうの音も出ない。泣き笑いのような声が漏れた。笑ったのは七日ぶりだった。引きつった不格好な笑いだ。ヒューの泣き顔と同じくらい不格好だろう。
ヒューの視線がふと窓辺に向いた。揺り籠を見ている。空の揺り籠。白い蒲柳の枠に、クレアが刺繍した敷布。
「……片づけようか」
クレアは首を振った。
「もう少し——このままにして」
ヒューが頷いた。
長靴を脱いで寝台の端に腰を下ろした。靴下の片方の親指のあたりに穴が空いている。公爵の靴下に穴が空いている。クレアの口元がまた緩んだ。こんなときに。
「何だ」
「靴下」
ヒューが自分の足元を見て、耳を赤くした。
泣きながら笑っている。笑いながら泣いている。どちらが先かわからない。どちらでもよかった。ヒューの腕がクレアの肩にまわった。引き寄せるでもなく、ただ腕を置いただけだ。重さが伝わってくる。体温が伝わってくる。
子供はいない。この腕の中にも、窓辺の揺り籠の中にも。
けれどこの腕は温かかった。
悲しみが消えたわけではない。乳の痛みが引くまでにはまだ幾日もかかるだろうし、空の揺り籠を見るたびに胸は潰れるだろう。母の墓前に何と報告すればいいのか見当もつかない。社交界の視線にも耐えなければならない。
けれど、一人ではなかった。
隣にいるこの男の肩にクレアは頭を預けた。汗と革と馬の匂い。泣き顔が不格好で踊りが下手で靴下に穴の空いた公爵の匂いがする。
目を閉じた。
明日、揺り籠のそばに花を供えよう。あの子のために。白い花ではなく——黄色い花を。生まれてきた証に。
今はまだ泣いていい。この人の隣でなら。
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