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名もなき墓

 ブルーノ家の墓所の片隅にフィリスは座り込み、無名の石碑を撫でる。


「ハリー……」


 ざああ……と風が吹き、細く小さくなった顔に髪がかかるが、かきあげることなく石碑を撫で続けた。


「フィリス」


 背後から夫の声がした。

 手を止める。


「……なぜ、名を入れていない」


「まだ。入れたくないからよ。お義母様も認めてくださったわ」


 声が震えてしまった。

 フィリスは懸命にゆっくりと深く呼吸したのち、振り向いた。


「旦那様。貴方が……。贈ってくれたクマのぬいぐるみがあったでしょう。ハリーはとても喜んでいたわ」


「え……? ぬいぐるみ?」


「ええ。今年の川遊びの後に、貴方が『悪かった』とカードを添えて贈ってくれて。ちょうどエイダお義姉さまの末の子くらいの大きさだったから、ハリーは『ぼくのおとうとだ』って大はしゃぎして、いつも抱きかかえてどこに行くにも一緒だった。もちろん寝る時も」


「──そう。そうか……」


 落ち着きなく目を瞬かせるアーロンに、フィリスは「ああ……」と声を上げそうになるのを堪えた。


「貴方からはあの子へ、たくさんいただいたもの。贈り過ぎて覚えていないわよね」


「……すまない。その頃、私は凄く落ち込んでいて……。本当にすまないと思ったんだ。でも、どう謝ればいいのかわからなくて……」


 しどろもどろの弁明に、フィリスはゆるりと首を振る。


「いいの。ハリーは、貴方から贈られたものは全て喜んで。よく並べて眺めたり手に取ったり……。私のせいね。私が貴方とハリーの間をうまく取り持てなかった」


「そんな事はない。私は、小さな子どもにどう接したらいいかわからなかった。だから、ケイティやジェイクに助言をもらって──」


「そう」


「二人が言ったんだ。父親からの土産が楽しみだったって。ケイティも貰ったリボンを大切にしまっていたと言うし、もしかしたら、ハロルドにもそういうことをした方がいいんじゃないかと思ったんだ。そのうちハロルドからの便りが来るのが楽しみになってね。ケイティたちと読んで、彼らもハロルドの絵が可愛いと言っていたよ」


「──そうだったの。ありがとう。本当に、とてもとても喜んでいたの。だからそのクマのぬいぐるみを始め、あの子が大切にしていた物は全部、棺に入れたわ」


「え……?」


「あの子が寂しくないように。宝物と一緒にしてあげたの」


「そう……なのか」


「ええ」


 フィリスは無名の墓標を撫でながら続けた。


「ケイティとジェイクに、伝えてくださるかしら」


「ああ……」


「あの子に、贈り物をありがとうと」


「……わかった」


 風が原っぱを走り抜けて、まるで海のようにざわめいた。





 ***



「私は……。あの人の前で、きちんとした振舞いが出来たかしら」


 アーロンは侍従に呼ばれて墓地を去った。

 そばで控えていたのは、侍女と騎士と──。


「奥方様。大丈夫です。ご立派でした」


 イアンが背後から肩掛けをそっと、座り込んだままのフィリスにかけてくれた。

 フィリスの頬から涙があとからあとから伝う。


「どうしてこうなってしまったのかしら。どうすればこうならずに済んだのかしら」


「──きっと、誰にもわからないことです。だから、どうかどうか、奥方様。ご自分を大切になさってください。いま貴方様が倒れてしまわれるようなことになれば、ハロルド様はお嘆きになると思います」


「そうね……。ハリー、そして巻き込まれた多くの人の為に……。私は、強くあらねばならない」


 フィリスは墓碑に手をあてて、目を閉じた。


「どうか私に力をちょうだい、ハリー。私は枯れてなくなったりしない。この草原の草のように生きていく。何があっても、絶対に──」


 フィリスの呟きは風の中に消えた。



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