逃げ続けた果てに
「待ちなさい、アーロン!」
廊下を足早に歩いていると、後ろから末の姉エイダが追いかけてきた。
「逃げる気? ハリーにもフィリスにも、お母様にも会わずに出ようとするなんて!」
「私がここにいても邪魔になるだけだ。だから」
「何を言ってるの! 貴方のせいでハリーが川に流されたのよ? 確かに無事だったけど、あそこの水は冷たいのは知っているでしょう。今、息子が熱を出して寝込んでいるのに、心配しないの? 貴方、それでも父親なの?」
「私は何もしていない! ハロルドが勝手に川に入っただけじゃないか」
「ハロルドとフィリスが貴方の為に作った花束を貴方が投げ捨てたからそうなったのでしょう!」
「投げ捨てていない、ちょっと手元が狂っただけだ!」
「そうは見えなかったわよ。貴方が思いっきり払いのけたのは、皆見ていたのだから」
「みんな? 君たちは私を監視していたのか!」
「何故そんなひねくれた物言いしかできないの? 今日のピクニックは貴方の為に」
「私の為に? あれのどこが──」
「貴方、昔言っていたじゃない! いつか子どもが生れたら家族で川遊びをしたいって! みんなで何度でも行こうって!」
「────っ」
アーロンの中である日の記憶がよみがえる。
夏草の匂い、川のせせらぎ、優しい風。
柔らかな膝を枕にして、言った言葉。
『よし、決めた。これからもっともっとここに来よう。僕たちに子どもが生まれたらここで遊ばせて、孫もひ孫もみんなで……。そうだな。きっと僕たちが死ぬまでに百回は来れるんじゃないかな』
『まあ、あなた一年が何日かご存じ?』
幸せだった。
ずっと続くと思っていた。
なのに。
どうして。
「そんな昔の話なんか覚えていない。お節介もいい加減にしてくれ。君たちのせいでこうなったんだ。私のせいじゃない」
「アーロン、貴方……」
「止めても無駄よ。行かせてやりなさい、エイダ」
次姉の二コラが現れ、姉弟の言い合いに割って入る。
「貴方。フィリスもハロルドもずぶ濡れで戻ったことも、お母様がここの所体調が悪いことも分かった上で、ここを出ると言うのね? だいたい、今出発してもすぐに日が暮れるわ。領地の端にたどり着くのがせいぜいよ。それでも行くと言うの?」
「ああ」
とにかく、ここを離れたい。
急いで離れなければ。
頭の中を占めるのはそれだけだ。
「貴方。いつまで逃げるの? 最初はフィリスと婚約した時にケイティ・ウエストの嘘を信じてフィリスを嫌って避け続けて、次は暴行されたからと逃げ出して、よりによって元凶の女を囲ってだらだらと遊び惚けて。ねえ何年そうするの? 死ぬまで? そうしたところで貴方の中に何が残るっていうのよ」
昔からこうだ。
理詰めでアーロンを責め立て、頭ごなしに叱りつける。
だから──。
「だから、お前たちが嫌いなんだ。そう言いたげね。アーロン」
二コラは唇を片方だけ器用に上げて笑った。
「私だってこんなこと言いたくないわよ。情けない。二十六にもなって姉たちから説教されたくなければ、貴方自身で今の事態を解決して見せたらどうなの?」
「うるさい! 黙れ!」
「子どもだって、貴方みたいに癇癪ばかり起こしてないわよ。少なく私の子どもたちはね」
「黙れ黙れ黙れ──っ」
近くにあった花瓶を花ごと払い落とした。
姉たちは床にそれが落ちる前に、後ずさる。
大きな音をたてて花瓶は砕け、水も花も飛び散る。
「二コラ様、エイダ様! だいじょうぶですか!」
執事たちが驚き駆け付ける足音が聞こえる中、アーロンは背を向けて出口へと向かう。
「誰も……。私に指図するな……」
***
周囲の制止を振り切って別邸へ戻ったアーロンは、道中からすでに酒浸りになっていた。
「貴方のせいじゃないわ」
「そうだよ。義兄さんはなんにも悪くないよ」
ケイティとジェイクに慰められるが、酒を飲むのをやめられない。
タウンハウスの執事が何度もフィリスの手紙を持参しては、『お酒はおやめください』とか『せめてタウンハウスへお戻りください』とか言うのが鬱陶しい。
フィリスの手紙にはハロルドは無事だと書かれていた。
思わぬ事態に動揺してしまい行き届かず申し訳ないとの言葉に、腹をたててめちゃくちゃに破った。
申し訳ないって何だ。
息子が死にかけたのだぞ。
それでも母親か。
ああ。
死にかけたのは、自分のせいだった。
なら、私は父親失格か。
床に散らばるフィリスの手紙を踏みつけて笑いが止まらない。
その後も何度か手紙が届いたが、整った筆跡としおらしい文章が余計に癇に障り、読んだら火にくべた。
「義兄さん、マーク様に匿ってもらったら?」
ある日ジェイクに提案され、そうするのが良いかもしれないと思った。
促されて書いた手紙をジェイクが届けに行き、数時間後にはマークが所有する宿屋の特別室に転がり込んだ。
道中の記憶はないが、なかなか立派な造りの部屋で、階下は夜になると多少騒がしいが気にならなかった。
時々、ジェイクやケイティが忍んでやってくる。
マークに励まされ、また酒を酌み交わす。
快適だった。
何もかも遠くに押しやって、忘れた。
***
「こんな所にいたとはね。探しましたよブルーノ伯爵」
不意に、アーロンにとっての平穏な生活が終わりを告げた。
扉を乱暴に開けて押し入ってきたのは、末姉エイダの夫。
大柄で威風堂々としていて。
家臣だが、アーロンより十歳年上だった。
情けないが、思わず怯んでしまう。
「待ってくださいよ、クロス男爵! アーロンをそっとしておいてくれと──」
一発殴られたのか、マークは頬を抑え後ろから駆け込んでくる。
そんな彼をクロス男爵はちらりと連れの騎士に合図して扉を閉めさせた。
「ブルーノ家から貴方の方にも通達があったのに、無視しましたね、マーク様」
「それは」
「ブルーノのカントリーハウスで原因不明の病が発生し、大奥様、子息様、奥様ほか使用人たちが罹り、重篤な状態だとも、ご説明したはずですが」
「なら、尚更アーロンが領地へ赴くのは危険でしょう? 感染したら元も子もない!」
「そうですね。ですが」
「待て」
アーロンは、横になっていた長椅子から慌てて立ち上がる。
「どういう……ことだ。重篤……? 原因不明の病? ハロルドは……ただ単に川に落ちただけだ。無事だったではないか。それに母上とフィリスまでどうして……」
「確かに、川に落ちたショックと風邪は数日で落ち着きました。しかしその後しばらくしてから、激しい咳と熱に見舞われるようになったのです。貴方が雲隠れする前のことですよ。早馬の知らせに執事が慌てて伝えに行ったのに、貴方は全く相手にしないで帰れと怒鳴ったそうですね。奥様達はそんなに自分の気を引きたいのかと」
「あ……」
そういえば、そんなことがあったような気がする。
「私がここに乗り込んできたのは、さすがに知らないままにしておくわけにはいかなくなったからです」
ぞわりと、アーロンの背中に冷たいものが走る。
「原因不明の病は不明のままではありますが終息したので、領地へ戻られても貴方様が感染されることもないでしょう」
クロス男爵は騎士でもあるが、全身黒い衣装で固めるのは稀なことで──。
「葬儀は終わりました。もう十日ほど前のことです」
「え……」
「ハロルド様が亡くなりました」
『おとうさま』
ガラスのように繊細な、愛らしい声。
幼い子どもが勇気を振り絞って自分に呼びかけたのを思い出す。
小さな野の花の束が川を流れて行って──。
「そんな……。うそだ……」
すべては突然に。
世界が、終わる。




