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川辺での悲劇

「母さま、はやくはやく!」


「ハリー、前を向かないと転ぶわよ」


 初夏の川辺をハロルドがフィリスを何度も振り返り、はしゃいで走る。

 明るい日差しの中フィリスは笑いながら悠然と後を追った。


「あっ!」


 何かにつまずいてハロルドが草原で転んで両手をつく。

 すぐに近くで控えていたエマや騎士、そしてフィリスが駆け寄った。


「ふふ。転んじゃった」


 フィリスはハロルドを膝の上に乗せて膝小僧や手のひらについた汚れをハンカチで落とす。

 たいした怪我にはならなかったのか、母親の膝の上で笑って甘える息子の額にフィリスは頬を寄せた。


「もう……。この子ったら」


「ふふ。母さま、いい匂い」


「あら、そう? ありがとう。ちゃんと手をついて偉かったわね」


「うん」


 フィリスとハロルドは手をつないで歩き出す。


「母さま、あっちにお花があったの」


「そうなのね。案内してくれる?」


「うん。えっとね……」


 二人の後ろ姿をアーロンは木陰で椅子に座り、ワイングラスを傾けながら眺めていた。


「アーロン。昼間から飲み過ぎよ」


 いつの間にか傍らにレイチェルが立ち、アーロンを見下ろしている。

 先週から姉達の家族がブルーノの屋敷に滞在していて、昨日領地へやって来たアーロンも交えて川辺へピクニックに行くことになった。

 母グィネスは体調がすぐれず屋敷で休んでいる。


「こんな薄いワイン、水みたいなものさ」


「……貴方どうしたの。何かあった?」


「どうって、別に」


「最近、少しはまともになってきたと思っていたのに──」


 姉の説教に苛立ち、アーロンは乱暴にグラスをテーブルの戻して立ち上がった。


「アーロン!」


 引き留める手を払って、足早に人のいない方へ歩き出す。


 イライラが止まらない。

 自分はいったい何なのだろう。

 いつの間にか三人の姉たちとその家族が我が物顔で屋敷に滞在し、フィリスと母は喜んで受け入れている。

 それに比べ、自分はどうだ。

 たまにくる客人のような扱いを受けている。

 当主だというのに、これではまるで名ばかりではないか。

 

「────っ!」


 アーロンは立ち止まった。


 そうだ。

 自分も、名ばかりの当主じゃないか。

 全ての決定権は母もしくはフィリスにあり、自分が大きな決断をしたことは一度もない。

 ただただ、彼女たちが作成した書類に署名して執事に渡すだけ。

 これはまるで───。


『だってそうだろう。君は夫人の父親──ドナルド・ウエストだったっけか、奴にそっくりだ』

 

「ちがう!」


『キャメロンが娼館に幽閉されたのを忘れたか』


「やめてくれ……」


 かつての友や文官の、冷たい声がまざまざと脳裏によみがえり、慌てて頭を振った。


「私は──」


 額に手をあてて、ふらふらとあてどもなく川辺を歩く。

 ここ最近、飲み過ぎている自覚はある。

 眠りも浅く、考えがまとまらない。

 都から付いてきた者たちから酒の量を控えるよう忠告されたが、睨みつけると黙った。

 睨まれて口をつぐむくらいなら、言わなければいいのに。


「疲れた……」

 

 やがて浅瀬で立ち止まり、川面を眺めていると、後ろから声をかけられた。


「おとうさま」


 幼い声に振り返ると、ハロルドが立っていた。

 もじもじと後ろ手にしたまま、ちらちらとアーロンを見上げる。


「なんだ」


 贈り物を送っているものの、ハロルドとの距離は一向に縮まらなかった。

 数か月に一度、数日しか滞在せず、しかも僅かな時間しか対面しない。

 そもそも、甥や姪たちともさほど関わったことがないから子どもの扱いがわからない。

 一番関わったのはアルフレッドとアメリくらいだろうが、それはフィリスとここで過ごした時期だけで、その記憶も──。

 


 アーロンは奥歯を強く噛み締めたが、父の頭の上からさす太陽の光が眩しくて、ハロルドには父の表情がよく見えなかった。


「あの、これ、おとうさまに──」


 両手に持って差し出してきたのは、草原に咲く花で作った花束だった。

 どこかフィリスに似た眼差しで、無邪気に花束をアーロンに贈ろうとする。

 

 わからない。

 今、自分の中にある感情がよくわからない。

 泣きたいのか、笑いたいのか。

 そんな気持ちにさせたハロルドが──。


 とてつもなく、憎かった。


「くだらない」


 ぱしっと花束を叩いた。


「あ……」


 花束は、弧を描いて川面に落ちた。


「だめ! かあさまとぼくが──」


「ハリー! 駄目よ!」


 何が起きたかわからなかった。


 気が付くと、ハロルドが流れていく花束を追いかけて川に入った。

 そして、すぐに足を取られて流された。


「ハリー!」


 アーロンのすぐそばをフィリスが駆け抜けて、ドレスが濡れるのも厭わずざぶざぶと川の中へ入っていく。


「奥様! お待ちください!」


「フィリス! ハリー!」


 姉たちの悲鳴と、使用人たちの叫び声、そして侍従や騎士たちが一斉に川に飛び込む。

 騒然とする中、アーロンはただただ、目を見開いて立っているだけだった。

 どれくらいの時間が経ったのかわからない。

 一瞬だったのか、それとも。


「大丈夫です! ハロルド様は無事です!」


 騎士たちがハロルドを抱いて岸へ戻ってきた。

 ぐったりとしているが、目は開いている。

 身体も、動いている。


「ハリー!」


 ずぶ濡れで、結い上げた髪がすっかり乱れて背中に落ちているフィリスはハロルドを受け取るなり、強く抱きしめた。


「か……さま」


「ハリー! ハリー! 大丈夫よ。もう、大丈夫よ……もう、だいじょうぶ……」


 ハロルドを抱いて座り込んだフィリスに、使用人たちが次々と乾いた布をかける。


「急いで帰る支度をして! フィリスとハロルドだけでも先に屋敷へ返すわよ……!」


 レイチェルが指示を飛ばし、使用人たちが一斉に馬車に向かって走り出す。


「川に入った者たちは焚火の方へ! 後で物資を寄こすからそれまでそこで身体を温めてくれ!」


 レイチェルの夫が濡れた者たちをいたわる声も聞こえたが、アーロンは一歩も動けない。

 何が起こっているのか、どうしたらいいのか、全く考えられなかった。


「私は、いったい……」


 ただただ。

 川辺に立ち尽くすばかりのアーロンに、声をかける者はいなかった。



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