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こぼれ落ちていく

 王宮でブルーノ家に割り当てられた部屋にアーロンが現れたのは入場ぎりぎりの時間だった。


「行くぞ」


 待たせた人々に謝罪の一つもなく、フィリスを一瞥することなく、腕を差し出す。


「はい」


 腕にそっと手をかけ、歩き出す。

 二人きりになって間もなくアーロンが口を開いた。


「……その香水は母上のか」


「はい。お義母様から頂いて──」


 フィリスが二十歳になった祝いに贈られた、グィネス自ら調合した香水だ。

 敬愛する義母の香りを貰ったことが嬉しくて、フィリスは社交に出かける時は必ずつける。

 フィリスにとって義母の香りは鎧であった。


「母の匂いを纏った女と歩くなど、恥だ。後で別のに変えろ」


「……仰せのままに」


 互いに前を向いたままの会話。

 どんな答えも気に障るのか、ふん、と鼻を鳴らし大股で歩き出す。

 フィリスが体勢を崩すことなく歩調を合わせることが更に気に障ったのだろう。


「──風情が、淑女気取りで滑稽な」


 ぼそりとフィリスだけには確実に聞こえる音量で、言葉の刃を落としてきた。


「……」


 フィリスの中で、何かがこぼれ落ちていく。




 新年の宴の会場に入ると、アーロンは伯爵としての体裁を保ち続けた。

 あのドレスメーカーでの一件について、上位貴族や王家からアーロンはお叱りを受けたと聞いていてる。

 フィリスを連れてにこやかに挨拶をして回り、ダンスも一曲躍った。


「その宝飾はお前には過ぎたものだ。二度と身に着けるな」


 微笑みを浮かべて踊りながらアーロンはフィリスを否定し続ける。

 大粒のサファイアで作られた首飾りと耳飾りは、グィネスが嫁ぐ時に実家から譲り受けたものだった。

 アーロンはそれを理解した上で言っている。

 フィリスは足を止めることなく答えた。


「承知しました」


「ふん……」


 途中で別れて紳士たちの間で過ごしたのち、驚くことに帰りはタウンハウスへ一緒に戻った。

 出迎えた使用人たちも聞いていなかったらしく、夜更けだと言うのに慌てて当主の寝室を整え始めた。


 私室に戻ったフィリスが化粧を落とし、夜着に着替え終えて独りになって間もなく、続き部屋との境の戸を叩く音がした。


「私だ。開けろ」


 あの魔物は死んだ。

 夜の掟はもうなくなったはずなのに。


 フィリスは扉の前で立ち尽くした。


「さっさと明けろ!」


 この扉を開けたら。

 多分、もう。


 フィリスは両手で顔を覆い、深く、深く息をついた。

 やがて顔を上げ、ゆっくりと内鍵に手をかける。


 扉が開いたら。

 私たちは。


「今、開けます」


 一つ、二つ、三つ……。

 数えながらフィリスは解錠した。




 パン───!


 アーロンは入って来るなり、思いっきり振りかぶってフィリスを平手で叩いた。


「よくも。よくもこの間は恥をかかせてくれたな」


 叩かれて熱を持つ頬に手を当てると、すかさずもう一方も強く打たれ、床に倒れ込んだ。

 口の中で血の味が広がる。


「そのままそこに座れ」


 暖炉を背にアーロンは立ち、フィリスは冷たい床に座らされた。

 そして、ドレスメーカーでの一件から始まり、過去の様々な出来事の中で細かいことを持ち出してはあげつらい始めた。

 昔はそこが良いと褒めていたことは全て逆になり、お前は取るに足らない女なのだと言い続ける。

 真冬の床は冷たくて、夜着一枚のフィリスの身体はどんどん冷えていく。

 それをわかっていて、アーロンはいつまでも説教をやめようとしない。

 フィリスの中で、まるで砂時計の砂が落ちていくように感情が少しずつこぼれていく。

 

「……聞いているのか! お前のために、わざわざ言ってやっているのだぞ」


「はい。ありがとうございます」


 もう、疲れていた。

 このまま冷たい床に横になっても構わないくらい、眠かった。

 もう、いい加減終わりにしてくれないかと、心の中で思っていた。

 そして、こんなに自分は疲れているのに、彼はずいぶんと元気なのだなと皮肉めいた思いが湧いてきた。


「嘘つきめ! お前のように性根の腐った女は──っ」 


 そんなフィリスの様子が癇に障ったのか、突然アーロンは部屋を横切り書机へ向かった。

 彼が抽斗をいくつも開け、フィリスの前にやってきた時に手にしていたのは鋏だった。


「お前なんか、二度と社交に出られなくなるがいい!」


 そう言うなり、フィリスの腰まで伸びた髪を鷲掴みにした。


「───っ」


 暖炉の火の明かりしかない薄暗い部屋で、ジャキジャキと鋏の音だけが響く。

 ばさり、ぱさりと床に髪の束が散らばっていく。


「こうしてやる! こうしてやる!」


 フィリスはじっと動かずに、癇癪と興奮で歪んだアーロンの顔をじっと見つめた。

 アーロンの呼気はとても酒臭く、宴で飲んだだけでなく屋敷に着いてからさらに酒瓶を開けたのだと解る。

 引っ張られる頭皮が痛いけれど、大した怪我にはならない。

 だけど、心が痛まないわけじゃない。

 まるで自分は子どものうっぷん晴らしに腕を千切られる虫のようで、惨めだった。


「あははは! これでお前はもう二度とドレスメーカーで大きな態度をとることはできないぞ! こんな無様な姿をした女なんか門前払いに決まってる!」


「──髪だけで、宜しいのですか? 旦那様」


「は?」


「髪は、すぐ伸びますわ。どうにでもなります。そんなに私に罰をお与えになりたいなら、そのハサミでいっそのこと顔に傷をつけてはどうでしょう。なんならそのまま首を刺しても構いませんわ」


「え──?」


 フィリスは頭を振って中途半端に引っかかっている髪を落とした。

 頭が、軽い。


「残念ながら、このように髪を切られたのはこれが初めてではありませんの。幼いころから何度も何度も継母とケイティにやられたので、今更、さほど痛手にならないのです。実際、ブルーノ家と婚約を結んだ時の私の髪はこんなものでしたわ」


 こてりと頭を傾けて見せると、首が露わになる。

 めちゃくちゃに切られたので長さがまちまちで、前方の髪は顎の下でふわりと浮いた。


「な……」


 頬を殴られるなど、日常茶飯事だった。

 エマと自分、どちらを殴るか選ばせられたこともある。

 そんな卑劣な提案をしてフィリスを弄んだ継母も、父亡き後に頼った男ともめて殺された。


 月日が流れていく。

 フィリスと、アーロンの間もまた。


「確かに。私などよりも、はるかに、ケイティのほうが旦那様の御気持ちを分かってくれるのでしょう」


 そして、首の筋に指を滑らせた。


 アーロンを愛していた。

 幸せだった頃に戻りたかった。

 愛して、愛されて。

 夢のような時間だった。


 でも。

 フィリスは顔を上げる。

 でも、もう戻れないのだ。

 私たちは、ずいぶん遠くまで来てしまった。


「どうします? 顔にしますか? いっそのこと一思いに刺しますか?」


「お前はどうかしてる!」


 アーロンは鋏を放り投げ悲鳴を上げた。


「別れましょう。それが貴方様には一番良いと──」


 壊れたものはもう戻らない。

 そして、私たちの間には何もなかったのだ。

 たった一年。

 二人でおとぎ話のような夢を見た。 


「うるさいうるさい! 黙れ!」


 今一度、アーロンはフィリスを殴った。

 すっかり冷え切ったフィリスが床に崩れ落ちたのを見て、前に後ろにと足踏みをした。


「おまえが……お前が、お前がすべて悪い。俺は、悪くない」


「……そうですか」


「こんちくしょう!」


 アーロンが吠えると使用人たちが駆け付け、廊下から扉を叩いてくる。

 

「旦那様」


「俺に指図するな!」


 アーロンが化粧台の上にあった香水の瓶を床に叩きつけ、百合の香りが広がった。


「さっさと領地に戻れ!」


 彼は開いていた隣室の扉から出ていき、調度品に当たって使用人たちを怒鳴り散らし、別邸へ帰っていった。


「奥方様!」


 侍女たちはフィリスの変わり果てた姿と部屋の惨状に悲鳴を上げた。


「私は大丈夫。驚かせてごめんなさいね」


「そんな……」


 アーロンは無事に別邸へ戻ったと知らせを受けた後、一つの事実が判明する。

 フィリスの書机の引き出しに入れていたグィネスの宝飾が消えていた。


 後に、ケイティが豪華なサファイアの首飾りを身に着けてアーロンと観劇に現れたと、上位貴族夫人からフィリスの元へ手紙が届いた。





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