ハロルド
秋になり、フィリスは出産を迎えた。
「フィリス様……。もう少しです。気を確かに」
手を握って励ましてくれるのは、母の亡くなる前からずっとそばにいてくれたエマだ。
義母がエマを探し出して呼び寄せ、フィリスの専属侍女にしてくれた。
なんと心強いことだろう。
感謝してもしきれない。
医者の見立てよりもひと月近く早く生まれた赤ん坊はとても小さな男の子だった。
頭も手も足もみんな小さい。
でも、ちゃんと動いている。
「ふふ。あわてんぼさんね」
顔を真っ赤にして元気に泣く我が子が愛しくて、三日三晩の苦しみも吹き飛んだ。
「名前は……ハロルドはどうかしら」
レイチェルの元に身を寄せて以来、義母は折を見て訪ねて来てくれたが、アーロンが来ることは一度もなかった。
そして、生まれた翌日も。
「ありがとうございます。しかしブルーノ家の祖の名を……。この子が頂いてもよろしいのですか?」
「ええ。英雄になって欲しいわけではなく、彼のように健康で長生きをして欲しいの」
「……お義母様。ありがとうございます。この子に名前のいわれを教える日が楽しみです」
「そうね。待ち遠しいわ」
義母の腕の中で、ハロルドは小さな口を開けてあくびをした。
「……何だこの不細工な子は」
洗礼式の日、周囲に説得されてしぶしぶ現れたアーロンは、眉をひそめてフィリスの腕の中の我が子を見た。
「アーロン!」
「こんなのにハロルドだと? 頭がおかしいんじゃないか、こんなどこの馬の骨かしれない赤ん坊に」
アーロンの言葉は、フィリスが不義を犯したと公言するものだ。
内輪だけの集まりだから、みな事情を知っている。
だからと言って、この妄言を見過ごせるわけはない。
「アーロン、貴方って人は!」
義母が、手を振り上げ息子の頬を打った。
「お義母様!」
逆上して暴れるアーロンを義兄たちが羽交い絞めにしたが、もう何もかもめちゃくちゃだ。
洗礼式はいったん取りやめになり、後日アーロン抜きで行われた。
その後、義母が家臣や義姉たちと話し合い、アーロンを首都へ送ることに決めた。
フィリスはブルーノへ戻り、ハロルドを育てながら義母と領地経営を行う。
今のアーロンに当主の仕事は難しく、首都で療養させるしかない。
しかし、タウンハウスを守る執事から暴れて酒に手をだし手が付けられないと早馬が来た。
原因として、フィリスとの思い出がそこかしこに残っているからだと。
義母はキャメロン・ブルーノを幽閉していた高級娼館を処分した金で、都の郊外にある屋敷を購入した。
程よく静かで品の良い邸宅にアーロンは満足したのか、だんだんと落ち着いていったと、手配に奔走した義兄たちが報告してきた。
ほっと胸をなでおろし、このまま心の傷が癒えて、元のアーロンに戻ってくれればと誰もが願った。
フィリスは義母と執務室を同じにして、女主人の仕事を引き継いでいく。
そばにはハロルドの眠るゆりかごが揺れている。
義姉たちが子どもたちを連れて訪れては、皆で代わるがわる新たな命を可愛がる。
使用人たちも生き生きと立ち働いていた。
平穏な日々が続いた。
しかし。
その裏で、また影が忍び寄っていた。
フィリスを絶望の淵へと追いやるために。
「落ち着いて、聞いてちょうだい」
ある昼下がりに、レイチェルがフィリスと義母の元へ現れた。
彼女は夫と一緒に首都で所用をこなすついでに茶会にも出席し、様々な情報を耳にした。
その中には聞き捨てならない話があったのだ。
「アーロンが、別邸に女を引き入れていたの」
「え……」
そんな報告は上がっていなかった。
彼の為に新しい使用人を揃えたのがあだになったようだと、レイチェルは言う。
「その女性はいったい……」
「ケイティ・ウエスト。貴方の異母妹よ」
「……ケイティ? でも彼女は」
フィリスより早く嫁がされていた。
資金繰りに困った父が大きな商家の隠居の後妻にしたと聞いている。
「数か月前に追い出されていたらしいわ。わがままな上に贅沢が過ぎて、手に余ると……。弟と母のいる実家に戻されたと茶会で話題になっていたの」
「でも、何故ケイティが旦那様と?」
「実は、学生時代、ケイティがアーロンと一緒にいるところを時々見かけていた人たちがいてね。どうやらその時にフィリスの事であることないこと吹き込んでいたようなの」
もともと継母とケイティは、社交に出るたびフィリスの消息を問われると、とても外に出せない問題児だと答えていた。
それは婚約してブルーノ家へフィリスが行ってしまっても変わらず、むしろ酷くなっていたらしい。
周囲にしてみれば継母アリスは末端貴族である上に従姉の夫を略奪した女である。
ケイティも学生時代に様々な子息にすり寄り、時には婚約者である女生徒ともめ事を起こしていた。
「アーロンがケイティを連れてドレスメーカーや宝飾店へ行き、一緒に観劇もしているそうよ」
ケイティは、アーロンの妻として振舞い始めているらしい。
タウンハウスの人々は、アーロンの代わりに仕事に明け暮れて全く噂に気付かなかったという。
「なんて……こと……」
ケイティの高笑いが、聞こえるような気がした。




