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乗り越えるために。


 高熱に苦しみながら眠る夫は、変わり果てた姿で横たわっていた。

 顔面を何度も殴られたのだろう。

 自分もひどい状態だが、それよりはるかに赤黒く変色し膨れ上がってもはや別人のようなアーロンに、涙が流れそうになるのをフィリスはぐっとこらえた。


「旦那様……」


 自らも傷だらけの両手を伸ばし、夫の顔を包み込む。

 手のひらの中が熱い。


「申し訳、ありませんでした。愚かな私のせいでこんなことに」


 目を閉じて浅く呼吸を繰り返し、生きる苦しみと戦うアーロンに、フィリスはの声は届かない。

 だけど、夫にこうして触れられるのは、きっとこれが最後。

 きっと。

 アーロンはフィリスを許さない。 


「貴方様の子どもを宿しました。……待望の子を。この先、何があろうともこの子を守ると誓います」


 そして、フィリスは夫の額に口づけを落とした。


「たとえ、貴方にどれほど憎まれようとも、私は……」


 アーロン。

 貴方を愛している。






「着きました。失礼ながらここからは私が若奥様を抱えさせてもらいます」


「ありがとう」


 馬車に乗せてもらい、森の入り口にやってきた。

 この先をしばらく入った所に小屋があるらしい。

 騎士団長に抱き上げられて、フィリスは森を進んだ。


「若奥様。本当に宜しいのですか」


 誰もが、全てを知っている。

 誰もが、フィリスを気遣って壊れ物のように扱う。

 ありがたいことだ。

 だけど、それでは駄目なのだと思い知る。

 屋敷を出る時にわざわざ執務室から出て見送りに来てくれた義母は、この事件の始末に奔走してかなりやつれていた。

 自分が彼女の負担になってはならないし、少しでも担うべきだ。


「乗り越えるために、必要なの。ごめんなさいね」


「いえ。若奥様がそう決めたのなら、私は従うまでです」


 たどり着いた小屋の前には二人の騎士が見張りに立ち、その前に一人の少年が所在なげに佇んでいた。


「イアン……」


 フィリスの呼びかけに、麦わら色の頭が揺れる。


「わかおくさま」


 今も彼は、前髪で綺麗な瞳を隠している。


「ごめんなさい、ここからは自分の足で歩きたいの。降ろしてくださる?」


「……はい」


 ゆっくりと、地面に足をつけた。

 一歩踏み出してみたものの、バランスを崩してよろけそうになると、背後から騎士団長が、前はイアンが支えてくれた。


「二人ともありがとう。たった数日で歩き方を忘れてしまったみたいね、私」


「……若奥様。俺の肩につかまってみてはどうでしょうか」


「私は助かるけれど、貴方は大丈夫?」


 彼は、ずっとここに立っていたのではないかと思う。

 入るべきか、立ち去るべきかを迷って。


「若奥様と一緒なら……。入れる気がするのです。駄目でしょうか」


 声変りをしたし、背も高くなり、伯父を越えたと聞いた。

 それでもまだまだ線の細いイアンの背負うものは、あまりにも重すぎる。


「いいえ。私も貴方が一緒なら、心強いわ」


「私もご一緒しますがね」


 背後の騎士団長の言葉に、フィリスはふっと笑った。


「そう。ブルーノの騎士団長も一緒なの。だからきっと大丈夫よ、イアン」


 そうして三人は扉を開け、小屋の中へ入った。






「……ア……、ジョ……、マ……、スタ……、ギル……、ドリ……、ファ……」


 中にも数人、見張りがいた。


「ご苦労様。お前たちは少し外の空気を吸ってくるが良い」


「ありがとうございます」


 騎士団長の言葉に彼らは退室する。


 少しばかり藁が敷かれた上に、男がひとり仰向けに横たわり、苦しい息の下、天井に向かってブツブツと呪文のようなものを呟き続けていた。


「あれは、あの男の罪の一部です。多すぎて全ての犠牲者の名前は唱えられない」


 捕らえられこの小屋に運ばれてから、領民、そして使用人たちが面会に訪れたのだと言う。

 男は、様々な人々を絶望の淵に追いやり、多くの人が大切な人を失った。

 生きている人々は、失くした人の名を男に告げてその罪を思い出させ、去っていく。

 次から次へと面会人は現れ、糾弾する。

 それが、グィネスが与えた男への罰だった。

 碌な食べ物も与えられず、高熱を発している男の命はもう少しで尽きるだろう。


 まるで萎びた人参のようだ。

 目の前の男と、あの夜の魔物が重ならない。


「マディ・ゴードン……」


 イアンがぽつりと名を告げた。

 すると、男の声が止まる。


「スタン・バリー」


「…………!」


 突然、顔が横向きになり、血走った眼が向けられた。


「す、スタン……おまえッ、おれを、おれにしかえしにきたのか……!」


 驚きに軽く身体をはねさせたフィリスの腰を騎士団長が片手で引き寄せ、剣の柄にもう一方の手をかける。


「仕返し? 何故ですか」


「お前が……お前のその瞳が悪いんだ! 俺は悪くない。何も悪くない。下賤な女から生まれたくせに、始祖に似るなど、身の程知らずめ! お前が弟だなんて、虫唾が走る! なのに、牧童のスタンが主になればいいだと? 奴らもみんなみんな……!」


「……私は。ただの牧童です。伯爵家を追放されて育ち、教養も何もなく、家畜と草木を愛し、草原に寝転んで空を見るのが好きな、ただの平民です。そんな男が領主になれるはずもない。なのになぜ」


「お前の顔……お前の身体……お前の、お前の、お前の、お前のッ!」


 指一本動かせないと聞いていたにもかかわらず、男は片腕で支えて半身を起こし、イアンに向かって手を伸ばす。


「お前、が、消え……れば、俺は……」


 目を大きく見開き、ひび割れた口からよだれが滴る。

 まるで全速力で駆けぬ駆けたかのように、ゼイゼイと息をしながらにじり寄る男を、イアンはじっと見下ろした。


「地獄へ堕ちろ。キャメロン」


「……ッ!」


 ぷつり。

 命をつなぐ糸の切れる音がした。


 ダ───ン。


 男は顔から床へ崩れ落ちた。


 しばらく三人は動かなかった。

 外の見張りも動かず、あたりはしんと静まり返る。

 近くの木に停まっていたのか、鳥が一声鳴いた。


「失礼します。イアン、若奥様を頼む」


「……はい」


 イアンがフィリスの身体を支えると、騎士団長が床に膝をついてうつぶせのまま動かない男の首に手を当てた。


「死んでいます。おそらく」


「……そう。医師を呼びましょう」


「はい」


 騎士団長が扉を開けると、見張りの騎士たちが現れ、遺体を藁の上へ戻す。

 その様子を、フィリスとイアンは黙って見つめた。


「……イアン」


「はい」


「魔物は、死んだわ」


「……はい」



 これが終わり。

 そして、始まりなのだ。



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