失ったもの、得たもの。
「ここは……」
フィリスが目覚めたのは、魔物の襲来より二日後のことだった。
私室の寝台に横たわり、僅かに空いたカーテンの隙間から差し込む光の強さが不思議に思えた。
「お目覚めになりましたか」
侍女長が心配そうな顔で覗き込んでくる。
手にした手巾をフィリスの頬に当てた。
ひんやりと気持ちいい。
「……旦那様は。アーロンは……無事なの?」
涙がこぼれた。
魔物に襲われた時、フィリスは必死に抵抗した。
何度も殴られて、容赦ない力で首を絞められ意識が遠のくなか、アーロンの絶叫が聞こえた。
「アーロン様は。肩を脱臼されていました。これについては駆け付けた騎士がすぐに手当てを施したのですが、肋骨などを折られて、そのせいで高熱を出して寝込んでおられます。医師が言うには、命に別条なしだと……」
「生きているなら……助かったなら……良かった」
生きていてくれたことへの喜びと。
これから先への不安と。
フィリスは涙が止まらない。
そして、あの、恐ろしい夜の記憶が鮮明によみがえり、身体が勝手に震えだす。
「フィリス様!」
侍女長の声に、医師が現れてフィリスの鼻に小瓶を押し付け、強い香りの何かを嗅がせた。
「……は……っ。ごめんな……さ……」
呼吸の仕方がわからない。
まるで水の中で溺れているようだ。
浅い呼吸を繰り返すフィリスに医師は次々と何らかの処置を講じてくれる。
申し訳なくて、涙がまた流れ、自分が制御できない。
「フィリス様。どうか。どうか、心を強くお持ちください。……フィリス様の身体はもう、貴方様一人のものではないのです」
「ひとりの、ものでは、ない?」
「こんな時に、私から申し上げることをお許しください」
医師は、のろのろと言葉を続けた。
「……フィリス様。ご懐妊おめでとうございます」
ご懐妊。
頭の中が真っ白になる。
「……え?」
「フィリス様は、身籠られておいでなのです。ですから……」
「待って。まさか……」
「それは違います。あのことは関係ありません」
「でも、でもっ……!」
『あれ』ならそんな事もやってのけて不思議ではない。
『あれ』は人ではなかった。
悪魔だ。
「フィリス様、落ち着いてください。本来なら月の物がもう来て良いはずなのに、まだ来ておられないでしょう。アーロン様の御子です」
「でも……」
それが、どうだというのだろう。
開けてはならない扉を開け、自ら厄災を招き入れた愚かな妻のせいで、アーロンは身体も心も大きな傷を負ってしまった。
アーロンが目覚めた時。
フィリスをどう見るだろうか。
たった一晩。
ほんの一瞬の間に。
全てを失ってしまったことを、フィリスは知っている。
「……ごめんなさい。こんなことになって」
レイチェルのふくよかな手に包まれると、汚れて傷ついた自分の手も、少しは浄化されていくような気がした。
「アーロン様の御相手がなかなか決まらなかったのは……こういうこと、だったのですか」
「……ええ」
田舎に押し込められ世間から隔絶されていたフィリスだけが。
キャメロンの悪評を知らなかった。
「気休めにしかならないけれど。何があっても貴方のお腹の子がキャメロン・ブルーノの子になる可能性は全くないから、安心して」
「それは、どういう意味ですか」
「母から聞いたのだけど……。アーロンが生まれてすぐに。王家の秘薬を賜っているそうなの。本人は今も全く気付いていないままに……」
「つまりは」
「彼の子どもは私たち姉弟だけ。たとえ、幼いアーロンに何かが起きたとしても、これ以上の不幸が起きないようにと」
「これ以上の不幸?」
思わずレイチェルの手を強く握ってしまった。
「これは、昨夜のことは、不幸のうちに入らないと……そう、仰るのですか?」
あんまりではないか。
「ごめんなさい、ごめんなさい、フィリス」
レイチェルは、手を放さずに頭を何度も下げた。
「幼いころからあの男を寵愛してきた王族たちがいて、彼が死ぬと、その責を私たちや家臣たちの首で贖わなければならなかったの……。本当にごめんなさい……っ。あの男の所業を言えなくて、ごめんなさい……っ。貴方とここでずっとずっと、暮らしたくて、言えなくて……」
フィリスの頭の中に、ブルーノの人々の顔が浮かぶ。
グィネス、レイチェル、アルフレッド、アメリ……。
誰もが親切にしてくれた。
彼らの優しさは、本当で。
フィリスを利用しようとしていたわけではないのだろう。
身分が低いと殴られることも、育ちが悪いと蔑まれることもなく。
この地を踏んで以来、大切に守り、育ててくれた。
それをぶち壊しにしたのは、他でもない自分なのだ。
「私が……。鍵を……開けなければ……。こんなことには……」
「いいえいいえ。違うわ。私たちが、あの男をさっさと始末していれば良かったの。十五年前のあの時に!」
いつも春の陽気のように明るく、綿毛のように柔らかなレイチェルが激しく慟哭する。
「十五年前……?」
「キャメロン・ブルーノは十五年前に犯した罪を問われ、事実上、領地からの追放及び領地及びタウンハウスへの禁足命令が下されたの。命を奪わない代わりに、母が首都の高級娼館を買い上げ、事実上の幽閉措置となった」
「高級娼館……? では、私が父に連れられて行った場所は」
あの日。
突然現れた父にエマから引き離されて長時間馬車に揺られ、ようやく目的地に着いた時には夜になっていた。
父に腕を掴まれ馬車から降りて、引きずられて行った先には立派な館があった。
「首都にブルーノの別邸は存在しないから、そうでしょうね」
もしあの時。
男たちの会談が決裂していたならば、自分はどうなっていただろう。
「……実は。領内の使われていない森番小屋に、ウエスト準男爵がいたわ」
どくんと、心臓が跳ねる。
「先回りしていたのよ、彼らは」
馬車での移動は道が限られていて、フィリスたちは必ず宿屋に泊まったためどんなに急いでも一週間かかり、悪天候のせいで実際十日の道のりだった。
しかし、騎乗ならば二日以上短縮できる。
道を知るものなら尚のこと。
「父を。いえ、ウエスト準男爵は捕まりましたか」
「ええ。尋問にかけて地下牢に収容している。念のために足を潰して逃げられないようにしてるわ。もう一人の傭兵崩れもね」
「傭兵崩れだったのですか、あの男は……」
アーロンを痛めつけて愉しんでいた男。
それが掴まったなら……。
「ならば」
「ええ。キャメロンももちろん。裂傷と打撲、骨折。指一本動かせない身体になっている上に、風邪をこじらせて衰弱して虫の息になっているの。長くはないでしょうね」
血のつながった人間のことを、レイチェルがまるで遠いどこかの噂のように語る。
彼らの間で何があったかは知らないが、そうなるまでの道のりがあっただろうことは理解できる。
フィリスは初めて、自らのお腹に触れた。
手のひらをあててじっと探ってみたけれど、何も感じない。
本当に存在するのかわからない。
なのに、医師と侍女長は間違いないと何度も言い切った。
なんて不思議だろう。
腹も殴られたはずなのに、負けずに生きた、強い子。
この子が、生きているのだから。
私は強く。
何があっても、強くあるべきだ。
「……お義姉さま。お願いがあります」
フィリスは、ゆっくりと起き上がった。




