かりそめの婚約者
時はどんどん流れていく。
アーロンからあからさまな拒絶があるのに、グィネス夫人はそのことについて何も言わない。
尋ねてはいけない気がして、フィリスは目の前の事のみを懸命にこなし続けた。
ブルーノ家へ受け入れられて二度目の秋にフィリスは領内の茶会に出席させてもらった。
結果はまずまずで、それから近隣の茶会に招待されることが増えていく。
「それで、彼は『彼女はあくまでもかりそめの婚約者だから』って言ったらしいわ」
化粧室へ行くために中座し戻る直前につい、立ち聞きしてしまった。
付き添いの若い侍女が息を飲んだのを見て、自分の噂話なのだと気づく。
「仮初め、ねえ。ブルーノ伯爵子息も必死ね。学校を卒業しても見聞を広めるためとか言って領地へ戻らず、その実はお相手探しに明け暮れているだなんて」
「いくら裕福で本人の見た目が良くても、ねえ……?」
「無理ですわ。何も知らない他国の方か、お金で買うしか」
まさに金で買われたのがフィリスだ。
それは動かしようのない事実で、ウエスト家の懐事情もとうに社交界で知れ渡っているのだろう。
あからさまに蔑まれたことはないが、誰もが『ああ、これが例の』と思っているのは、最初からわかっていたこと。
話題が別に移るのを待って、フィリスは席に戻った。
「先ほど少し庭園を歩いてみたのですが、ネリネが綺麗でしたわ」
「あら、そうなのですか。後でご一緒してくださいませんか、フィリス嬢」
「ええ、もちろんですわ」
給仕が淹れ直してくれた茶を受け取り、丁寧な所作でカップを口に運ぶ。
これも、一つの学びなのだ。
これまで尽力してくれたブルーノ家の人々の顔に泥を塗るわけにはいかない。
フィリスは何も知らぬ顔をして、ふわりと微笑んで見せた。
茶会の翌日、フィリスは執務室へ呼ばれた。
「お茶会でアーロンの言動が噂になっていたそうね」
ああ。
フィリスは内心ため息をついた。
侍女には女主人に報告する義務がある。
黙っていても良いことはないのだ。
「はい。アーロン様がご自分で婚約者をお探しだと」
「『かりそめ』ね……。恥ずかしくて目も当てられないわ」
「申し訳ありま……」
「やめて。貴方のせいじゃない、私たちの不手際よ。息子の手綱が取れていないこと、申し訳なく思います。」
グィネス夫人が立ち上がって詫びるのを、慌ててフィリスは押しとどめた。
「グィネス様。どうか私なんかに謝らないでください。この婚約で私は多くを得ました。飢えることも凍えることもなく、豪華な服に身を包み、豪勢な食事と手厚い世話を頂き、教育も惜しみなく与えてくださって、この一年は天国にいるような心地です」
「フィリス嬢」
「これだけ尽力いただいていながら、大変申し訳ありませんが、私は婚約を結んでからこのかた、伯爵夫人になれると思ったことは一度もありません。いつか、もっと良い条件のご縁があれば解消になると解っていました。もしそうなった場合、国の外へ出て、家族と関わりのないところで生きようと思っていましたので、どうかお気になさらないでください」
「フィリス嬢!」
気が付くと、抱きしめられていた。
グィネス夫人愛用の百合の香水の香りがする。
この人はフィリスの目標であり、憧れだ。
「辛い思いをさせて、本当にごめんなさい。私は、貴方以上の人がいるとはとても思えない。だから、貴方が十八歳になったら私が後見人になって社交界デビューさせようつもりだったの。その時に、アーロンにはエスコートを必ずさせる。その時までどうかここで待ってもらえないかしら」
フィリスは今度の冬に十七歳になる。
つまりは、一年後。
当初の予定ではデビュタントと結婚式を同時に、今年の夏にする予定だった。
しかし、アーロンが拒否し、学校で同級生だった公爵令息の口添えで結婚を延期したのだ。
フィリスは、アーロンがこの婚約を認めるとは到底思えない。
「たとえこれから一年、どれだけ探し回ってもアーロンの妻になりたいと手を挙げる令嬢は出ないと思う。たとえ下位の貴族だとしても」
「……なぜですか」
「私の夫の素行の悪さは薄々気付いているでしょう。彼はもう十年以上、高級娼館で暮らしていて、首都の屋敷ですらほとんど足を踏み入れていないの。私が、そうすることを認めて仕送りをしているわ」
「今一度なぜと。お聞きしてもよろしいですか」
「ええ。そもそも私はキャメロンの乱行を抑え込むために嫁がされたの。取り潰しも考えられたのだけど、この家は遡れば王家の血筋だから王族たちがそれを決行するのを躊躇ってね」
グィネスに課された王命は、荒廃したブルーノ家の立て直しと、まともな当主を据えて次へ繋ぐこと。
キャメロンに下された王命は、グィネスを当主夫人とし運営を任せ、彼女の命を脅かすことがあればそれがいかなる理由であっても、即、爵位と領地を返上すること。
紆余曲折の末に、グィネスは高級娼館を一軒、キャメロンの為に買い上げた。
領主が現れないことにより、領地に平和が訪れた。
「私は、アーロンを……。夫とは違う人間に育て上げたつもりだったけれど。今となっては」
「……わかりました。私は大丈夫です。かりそめだろうが何だろうが、あと一年は確実にここで暮らすことが出来るなんて、正直なところ嬉しいです」
「ありがとう、フィリス嬢……」
そしてまた一年経った。
アーロンは他国に赴いても妻になってくれる令嬢が見つからなかった。
そこでグィネスは首都へ行き、息子に最後の願いと提案をした。
デビュタントの時にフィリスのエスコートをしてほしい。
もしデビュタント終了後にやはり彼女を気に入らないと言うならば、婚約解消をし、改めて探し直すと。
アーロンは、母の願いと提案を受け入れた。




