後編
こいつの小説全てに通底しているのは、恋愛感情とは別の男女の形だった。
口数少ない美女をフォローする少年もいれば、いい子過ぎて危なっかしいと世話を焼く兄貴分もいた。厭世家の魔女を和ませる弟子もいたが、多分一番顕著なのは、政略結婚のために姫様が嫁いだ家で、実の家族よりも愛してくれた夫一家だろう。
俺が初めてその作者の作品を手に取ったのは高校に上がってからのことで、デビュー作の映画化が発表された時だった。店頭に並ぶ刊行された書籍を眺めながら、ジャンルが一貫しないなと陳腐な感想を抱き、美女が押し出されるなんて商業的に当然のことだしなとスルーしていた。だが文章表現と雰囲気に惹かれて作者買いし、一通り読んでみると、その美女が恋愛関係や性愛を遠ざけていることが作者のこだわりなのではと思うに至った。彼女たちは時にコミカルに、時にシリアスに、ゲストキャラの求愛やラブレターを突っぱねていたし、後々作者があとがきで『竹取物語』について熱弁していたことも裏付けとなった。
様々な貴族たちの求婚を難題ではねのけ、帝の妻となるという、当時の女性にとっての最大の栄誉をも拒むこと。即ち、地上の価値観の全否定。
俺はそれを読んで、理想主義とロックは紙一重だなと思い、きっといつの世もピュアで無邪気な夢想は反秩序に通じているのだろうという学びを得た。男性にありがちな典型的な処女信仰だの、所詮現実はこうはいかないだのという野次を見ると、つくづく実感してしまう。
こいつ自身は、不自由なく愛を注がれて育ったと言っていたし、実際そういう幸せで恵まれた人間らしい振る舞いをしていた。他人からの承認や愛情に飢えることもなければ、衝動的に感情を晒すことも人を悪し様に罵って喜ぶこともなかった。同級生として安定感があったし、人として安心感があった。
こいつがサークルで出した掌編は、文体こそ商業名義作品と違えど、一つ一つの言葉選びが非常に細やかで丁寧だった。何気ない一言にやたらと実感がこもっているように感じさせたり、台詞だけ拾い読んでも少し喋っただけで人物像がありありと浮かんでくるような、台詞やモノローグのキレがずば抜けていた。地の文も台詞回しも単品で売りになる仕上がりだが、商業名義で特筆すべきは構成で、中長編で主題と副題を並行して走らせ、クライマックスでがっちり合流させる演出力とストーリーテリングの手並みが鮮やかだった。
骨組みは実にロジカルな一方で、肉付けや装飾は文芸的センスを遺憾なく発揮していた。
感動や感傷を頭の中から取り出して物語に組み立て、暗喩やアナロジーを巧妙に駆使して一つを全てに敷衍し、あらゆる感慨や感性を読み手に重ねさせる──それがこいつの作家性の核だった。社会性を持つヒトが抱かずにいられない普遍的な感情や場面を澄んだ文体で描き、悪意や憎しみさえ慈しみ愛すべきものと思わせてしまうような、逆に善意や信頼さえ滑稽で憐れに思わせることも時にはあるような、懐の広さと器の大きさがあった。
初めて読んだ時、これを書けるならきっとそいつは人間を超越した神か何かだろうと思った。さらに読むにつれ、この作者は何でも書けるのではないかと思った。既刊を読み切って、自分の得意な作風を掴みきっているこの作家はこれから先どう深化していくのだろうと思った。
そして作者の素顔を知り、人柄を知り、価値観を知り、体温を知った。
彼女は覆面作家として活動し、そこにどんな人物がいるのか秘密を貫いていた。素顔を晒せばサイン会で大行列を作れること請け合いの容姿を特に活かそうとはせず、作品のみの価値判断を読者に委ねていた。それはプライベートでも同様に、自身が作家であることをちらつかせようともせず、ただ文章力のある明るく面倒見のいいお嬢さんとして扱われたがった。商業名義を俺に知られてしまった時には戦々恐々としていたが、俺が変わらず踏み込まず聞かずを通しているうちに、彼女は安心して俺が部屋にいる時でも執筆活動にのめり込むようになった。
俺の読みが正しければ、こいつのアイデンティティは、飛び抜けた美貌でも売れっ子小説家であることでもなく、絶群のコミュニケーション能力にあった。そして、彼女自身は、その才覚を持て余すことなく適切に注ぎ込もうと空の器を探し求める、おねえさんぶった子供だった。
彼女は同期として、友人として、語り始めた。
「…………私はね。私のことを好きにならないでいてくれるから、キミといて楽しかったんだよ。ずっとそう思ってた」
「人としてはずっと好きだったさ」
「それは私もそうだけど、ね。そういうことしようとしてこなかったでしょ。あんなにチャンスあったのに」
「今もそうだろ」
腕を少し動かせば、胸でも尻でも触れる距離にいる。そう混ぜっ返すと、こいつは俺の瞳を覗き込んでくる。
「それってそうなのかな。……今、キミ、どきどきしてる?」
「しないようにしてる」
「意識してコントロールできるの?」
急に素に戻った彼女のその問いは、異性の感覚に対する純朴な疑問のようで、俺が彼女に性的魅力を感じているかという核心に踏み込むようでもあった。俺はあくまで俺自身のスタンスだけを述べる。
「人として失礼な真似はしたくない。付き合ってない相手に手を出す気はない。女性作家は特にデリケートだから俺のせいで続きが変な方に進むと困る」
3つ目はもう遅い話だった。俺は彼女から今更何をと一笑に付されることを観念していたが、こいつはどこまでも優しい笑みを浮かべる。
「最後のは、性差別だーとか、あんまり見くびらないでもらいたいな、って言いたいところだけど、書けなくなっちゃったからなー。……あ、別に謝ってほしいんじゃないよ。心当たりがあるからあんまり強く言い返しづらいってだけ」
「俺は謝らせてももらえないのか」
「せっかくこんな格好してまで同じベッドにいるのに、キミの反省に私を付き合わせてほしくはないかな、って答えは、意地悪?」
彼女は俺の腕を探すように布団の中で脚を動かし、こちらの掌に自分の肌を触れさせてくる。俺が思うより遥かに心を許していると、スキンシップで示すかのように。
「……ごもっともだ」
謝るよりは、素直に彼女の寛大さに感謝しておくのが筋だった。俺が手で膝を押し戻すと、こいつがにっこりと表情を変えたのが暗がりでもわかった。
「話戻すね。じゃあコントロールできなくなったのは、最後に会った日だけ?」
いざそう問われてしまうと、何も言えなかった。自分でもよくわからなくなっていた、というのが実態に一番近い表現だろう。せっかくの協力を全てフイにして、結局就職活動よりこいつと過ごす最後の大学生活を優先してしまった。俺はこいつから用済みだと宣告されることが恐ろしかったし、同時に心のどこかで宣告されることを望んでいた。
俺は結局、こいつの一番の弱みである恋人という言葉を自分のために持ち出してしまったのだ。それが彼女にとって、どれほど不要な存在か知り尽くしていたから。
懊悩する俺を柔らかく包み込むように、こいつは俺の頬を撫でる。
「責めてないよ。私の意思を尊重してくれてたってわかったから」
また、フォローさせることしかできない。
俺がついに放心状態に陥りかけたその時、彼女は語りかけた。
「なんであの日キミが、あんなこと言い出したのかってずっと考えてて。仮説、聞いてくれる?」
「…………どうぞ」
俺が促すと、こいつはどこから話したものかとばかりに微かに唇を尖らせた。
「……退院してからのキミ、結構ボロボロだったの、気付いてた?」
「…………そうなんじゃないかとは」
俺の精神状態が一番危うかった時期は、間違いなくそこだった。楽しく充実していた日々の全てが重荷に変わり、思い出も信頼も裏切ってしまった自分への嫌悪と憎悪が抑えきれなくなっていたし、余裕がなさ過ぎて取り繕うことで精いっぱいだった。それすら、取り繕えていたつもりでしかなかったと聞かされ、自分の愚かしさにいっそ憐憫を抱いてしまう。
それでもこいつは、優しく続ける。
「それでさ。私を見る目が時々すごいことになっててね。お見舞い行かなかったこと根に持ってるのかなぁとか、就活フイにしちゃって追い込まれてるのかなぁとか、当時色々私なりに気にしてて。就職相談室に案内したり、気分転換に遊びに誘ったりしたけど、自分は就活しなくていいからって、って恨まれちゃうかなぁとかね。私のマネージャーとして公式に雇えないかなって考えたりもしたんだけど、君のプライドとか人生設計とか、傷つけるのも怖くて」
「退院した時点でどっちもズタボロだったろ」
「そうなんだけどさ。今まで対等だったのに、上下とか主従みたいになるのって何か、息苦しいじゃない?」
「……まぁ、な」
でなければ、あんな夢は見ない。
「キミもそういう意味では同じこと考えてたのかな。恋人なら対等でいられるって」
「お前には必要なかったけどな」
「恋人はね」
含みのある言い方で訂正したこいつは、一度目を閉じ、俺に額を合わせるかのように頭を近づける。
「でもさ。追い詰められてたキミが生きるよすがにするには、恋とか性欲は本能的に必要だったんじゃないかって、後で気付いて」
こいつは大真面目に、真剣な声でそう考察していた。俺が応じる声は反対に、力なく虚ろになる。
「そうだろうか」
「愛されること、愛することっていうのは、本質的で手っ取り早い自己肯定の手段でしょ?」
その一言で、以前こいつと議論した時のことを思い出す。高校倫理や心理学などに出てくる、欲求階層説。マズロー自身の原著では有名なピラミッド図は出てこない、という雑学から始まり、人間の本能や情熱、生の衝動に駆り立てる原動力は何か、という話をした。俺はまず資源と縄張りの確保・拡充を挙げ、こいつは三大欲求を挙げた。話は本能の源泉に向かって進み、生と死の意味は社会学も生物学も超え、量子力学にまで還元されていった。
その話の中で印象に残ったフレーズの一つが、愛情は生命としての勝利である、というものだった。
次代の担い手を得ること、あるいは弱者が生き長らえることは、その集団にとってこの上なく幸福である。なぜならその生命は祝福されているから。
そして、その過程である結婚や恋の成就、愛のある性体験や、食事の提供や保育、治療や看護などもまた、この上なく尊い。
俺たちはそういう話をたまに熱心にしていた。ともすればセクハラになりかねない話題もただ他人事として議論の俎上に載せ、いわゆる脱童貞や脱処女が急にいきがるのも自己肯定感の一つの帰結だろうと分析していた。こいつは特に羨望するでも冷笑するでもなく、好きな人から好きって言われたら大喜びできるかもしれないけど、好きじゃない人たちから好きって言われてもね、と物憂げに口にしていた。反対に、ファンレターをくれる人たちの存在や感想には素直に喜んでいるようだった。
愛情にもいろいろある。
精神的や社会的な愛もあれば、肉体的や個人的な愛もある。
私はそういうのはいいかな、と苦笑していたこいつは、いつも通りだった。
その面影と目の前の表情が二重映しになる。こいつは俺を通じて、物理法則に縛られる人の営みと運命に向き合っているかのようだった。
「だから恋にまつわるお話は消えない。原始的で生命の本能そのものだから」
「…………あぁ」
俺はそう返すのがやっとだった。俺は今誤解されながらようやく、自己分析が進みつつある。俺の考えた恋人は、こいつが思うような性欲や承認への飢えではなく、対等への執着だったと。
負い目をも構わず愛されてしまえば、一生俺はペットから抜け出せないだろう。それだけは御免だった。
こいつは俺に構わず、持論の展開を続ける。
「反対に言えば、失恋とか好きな人取られたりって、自分の生命としての価値の全否定そのものじゃない。幸せな時間が全部裏返っちゃうのはつらいし、淘汰する側とされる側って」
その話題もいつかしたことがあった。横恋慕して失恋を苦に自殺というニュースからゲーテを引っ張り出し、女性向け恋愛ものの不貞ジャンルの豊富さを延々と聞かされた後、カッコウの托卵と動物の生存競争の話に発展した。裏切られて裏切る側に回れば、それ以上傷つけられることはない。だが学習性無力感にも似た刹那主義から逃れられなくなる。
歴史を葬ることは罪悪であり、起源を偽ることは邪悪である。なぜなら葬られた側、偽られた側の歴史が途絶えるから。
あなたの血や言葉は未来に遺すに値しないという宣告は確かに、生命の敗北、呪いと呼べてしまうのだろう。その解呪は別の祝福か、復讐によってしか成しえない。
「どっかのマッドサイエンティストもそんなこと言ってたな」
「あの子の話書くために集めた資料とか本を読み返してね。やっぱり思ったの。他人の恋なんて関わらないに越したことないって」
「だろうさ」
馬に蹴られて死ぬのは誰だって御免だ。
「でもこうも思ったの。私が家族の次に大切に思ってる人が、私と付き合いたいって言ってきて、そんなことしなくてもちゃんと一緒にいるって言いたかったのに縁を切られて。それって寂しくて悲しいことだなって」
そう言ってじっと俺の目を見つめてくる。その眼差しは、相手が自分に何を求めているのか見定めようとする強さと、別れ話を切り出されて恋人を体で繋ぎ留める女のような弱さが混じり合っていた。俺はそんな目をしてほしくはなかったし、最初からそんなものに興味はなかった。
俺はただ、劣等感に押し潰されずにいたかっただけなのに。
「だからってお前が妥協する必要ないだろ。俺が自分の命を人質にしたとでも思ってんのか?」
「思ってないよ。妥協だとも思わない。ただ……」
こいつは瞼を閉じて即答した。俺は、振られたから死んでやると叫ぶような奴だと思われてはいなかったらしい。そのことに少しだけ安心し、当たり前だろと思い直しながら続きを聴く。こいつは俺の目を見据えた。
「キミが他の女の子と幸せになるくらいなら、私がそこにいたいと思っただけ」
「…………俺はそんな大層な人間じゃない」
意表を突かれて動揺し、とっさに否定する。
大学時代に何度か、美人に好かれた男は図に乗って浮気しがち、という話を女子から振られていた。それは、モテる女を射止めた男は評価が上がってモテるという経験則に基づいていて、事実、こいつとつるむようになってから女子から話しかけられる回数は格段に増えた。美人のお気に入りを一目見てやろうという女子たちも、美人をフリーにして恋敵にしたくない女子たちも、美人のお気に入りを横取りなり味見なりしてやろうという女子たちも、美人に追われる男は気が大きくなると言った。
その言葉は、しょっちゅうこいつと一緒にいる俺に対する褒め言葉のために引き合いに出される時もあれば、他の女に目移りする性欲がない男は人格否定されるべきという論調で用いられる時もあった。逆に、浮気をちらつかせる甲斐性もない男は浮気されるぞと男子に脅されたり、何なら既にされてるんじゃないかと疑心暗鬼を煽られることもあった。どれも意味合いとしては同様で、有性生物はより確実に子孫を残すために、性的誘引力と性的積極性を兼ね備えた異性と子を成したい、という本能に従っていることの自己紹介でしかなかった。
俺を侮辱することでこいつをも侮辱しようとするのも、俺とこいつを引き離すことで自分が入り込もうとするのも、自分の子にモテてほしい個体の生殖至上主義的な繁殖戦略だとわかりきっていた。俺はそういったある種の動物的価値観を押し付けたがる奴らは苦手だったし、いずれにせよ人として失礼だなと距離を置いていた。
俺たちは互いに異性としてではなく、人としてずっと接していたから。
だから今、こいつの口から一般論や個人の見解以外で、そういう第三者が関わりうる話題が出てきたことに驚きを隠せなかった。その手の話題は、対外的にはこいつに聞けとお任せしきっていた。どう見られたいかはこいつの意思一つだったし、俺は自分の日常が侵されないなら肩書きはどうでもよかった。俺自身は美人に浮かれるにはあまりにトラウマをこじらせていたし、天才小説家に媚びるには批評的になり過ぎていたから。
こいつは軽い調子を装うように唇を尖らせた。
「コンビニにいたあの子、キミのこと気に入ってたでしょ」
「あいつが? ……まさか」
「あの流れで『嫌ってはない』なんて言える子、よっぽど好きじゃないとおかしいよ」
そう言われると、確かに意外な反応ではあった。……だとすれば、こいつを貶めたのは、ただの俺への売り言葉ではなかったことになる。
「……それがそっちの仮説の傍証になるとでも?」
「私は今まで男の人を拒んできたけど、キミは女の子を拒んできたわけじゃないから」
そう言われてしまうと、返す言葉もなかった。俺は失礼な相手なら多数拒んできた実績はあるが、寛容な誠実さと興味本位の好意で近づかれた時、線引きをして弾いたのはいつもこいつだった。それはあくまで、自分の男除けが他の女に取られないようにという嫉妬風パフォーマンスだと思っていたが、実際のところは、俺の方こそ守られていたのだ。
こいつは、そこのところをよくわかってね、と念を押すようにこちらをじっと見据え、視線を外した。
「キミは私じゃなくても幸せになれる余地があるけど、私はそうじゃない」
吐露されたのは、モテるからこその孤独。それは、理解こそできるが共感はできる気がしなかった。女友達でも作れよと言おうか一瞬考えたが、多分それでは意味がないのだろう。彼女は励ますように上目遣いになる。
「私がキミのこと好きって言ってるんだから、もっと堂々と嬉しそうにしてよ」
そう言われたところで、結局実感なんてないのだ。
この体温も、吐息も、俺の存在を祝福するわけではなく、ただの現象なのだから。
自分を愛せない者は他人を愛するべきではない。
こいつはかつてそう言い放ったことがあった。自分に自信がない相手から告白されて、思わずそう叱ってしまったと言っていた。私を好きになった相手が卑屈なら、私への恋心をも自分で逃げ腰で侮辱しているのと変わらない、と。それは同時に彼女自身の、振るなら堂々と振るべきだ、ただし失礼のないように、という心構えにも繋がっているらしかった。
俺は彼女に目と鼻の先で見つめられ、吐息と体温で意識を揺さぶられながら、その一言を持ち出そうとして言い留まった。こいつの眼は、俺の返事を期待するようにじっと見つめていたが、一方で返事を半ば恐れるかのようでもあった。
自分を愛せないのは、果たして俺だけか。
しばらくお互い何も言わずにいると、互いの吐息が混じり合って熱気と湿り気が2人の顔を透明に覆っているのがやけに気にかかった。視線を遮るものは何もないが、見つめ合ってすら、思いが通じ合うとは限らない。
結局こいつの言うことは、俺がいいわけじゃない。俺でいいだけだ。俺と同じことをできるやつが他に見つからないはずもないし、きっと消去法で愛されても惨めにしかなれないだろうと自分でもわかっていた。かつて文芸部で憤慨した俺はまだ、自分の時だけ見逃せるほど恥知らずになるつもりはなかった。
それに、個人的なだけのプライドを抜きにしても、こいつには感傷に流されてほしくはなかったし、俺なんかのためにこんな和解のやり方をしてほしくはなかった。
向こうからこうして会いに来てくれただけ、感謝してもし足りないほどなのに。
ベッドに入ってからの、逃げる逃がさないという問答を思い返してふと、閃くことがあった。
俺は何を考えていたんだ。
俺の思う対等がギブ&テイクのことなら、俺はあの時返せない借りを逃げて踏み倒そうとした卑怯者なのだ。
だとしたらこの再会は、取り立て。
「…………俺は馬鹿だ」
膨れ上がった利子まで全部、耳を揃えて支払うべきだ。
俺の声の調子に何を感じ取ったのか、彼女は薄闇の中で目を見開いた。その瞳に映る俺は、恐怖とも絶望ともつかない惨めな顔をしていた。瞳の主は形のいい眉を歪めて、声を震わせながら問うた。
「なんで好きって言われて死にたそうな顔するの?」
それは、彼女にとって尤もな一言だった。3年半かけて育んだ信頼ゆえの好意を半年で心変わりされれば、プライドをひどく傷つけられるだろう。一世一代の好意の告白の答えが自蔑と希死念慮なら、侮辱も甚だしい。それがどれほど失礼なことか考えるまでもなかったし、自分がどれほど厄介か俺自身よくわかっていた。
「俺はお前に借りが多すぎるから、だろうな」
言葉にするのは、簡単だった。空疎な声は、彼女の目の前でいともやすやすと響いてしまう。
「自分で思ってたより頼り甲斐がないなら、これ以上借りは作れない」
「…………私、だって」
返ってくる声は途切れ、一呼吸置いて続く。
「私の方こそ、ずっと付き合わせてばっかりで、やっと頼られる番になったと思ったのに、あんな……」
震える声で聞こえてきたのは、思ってもみない一言だった。俺は首を動かす代わりに声を出す。
「付き合わせてって、そっちは別に、友達なんだしよかっただろ。俺が勉強どれだけ」
「友達だから甘えたくなかったの。……ノートとかは、充分過ぎるくらいご飯で返してもらってたし」
俺の言葉を遮ったそれは、結局は友達でいることに甘えてしまった、という後悔にも聞こえた。
最初に映画を見に誘われた時、こいつは、前に見たいって言ってたよね、荷物持ちのお礼であってデートとかじゃないから、勘違いしなくていいからね、と念を押していた。その言い回しは金を出す側としての気遣いにも男への忌避感にも聞こえ、そのおかげで俺は彼女に深入りすることなく、友人として親しくなることができた。こいつの線引きは、買った食材の荷物持ちついでに俺が夕飯を作るために何度か招かれたり、反対に向こうが食べに訪ねて来たりした時も似たようなものだったし、初めてこいつの部屋に泊めてもらった時も、防犯意識や翌朝の食事の二度手間を強調し、あくまで友人への気遣いであって他意はないと言外に示していた。俺はその扱いに、そこまで丁重に扱ってもらって悪いなとしか思わず、二つ返事で唯々諾々と従っていた。その過程は今思うと、下心なしに話や遊び、生活の雑用にまで付き合ってくれる男に対する負い目の積み重ねでもあったのだろう。
こいつもまた、他人の好意や恋愛感情に認知を歪まされていたから。
こいつはその美貌と愛嬌で、割引券を特別にもらったりサービスされたり知らない人におごられたり、得はした分気兼ねしてきたと言っていた。下心のないただの親切にすら疑心暗鬼になってしまうならば、一期一会の施しでもおひねりでもない、一向に下心をちらつかせない弟じみた無償の服従は、さぞ奇怪に感じたことだろう。
俺はただ、恋愛にも性愛にも振り回されない関係を築ける善良な女がこの世に存在する、その事実だけで救われていた。だから、損得抜きでこいつにはいつまでもいいやつでいてほしいと思っていたし、友人らしい距離感で支え続けていたかった。それが、逆に相手を追い詰めることもあるとは思わずに。
「…………つまり俺たちは、同じことを考えてるわけか」
俺が沈んだ口調で俯瞰すると、彼女は重々しく頷いた。
「そうだね。……だったら、ねぇ」
そこで止まった言葉は、また途切れ途切れになる。
「なら、もう、さ。貸しとか借りとか、置いといて、その」
互いの額が再び触れ合った。
「一緒にいたいだけじゃ、ダメかな?」
彼女の手が俺の頬を撫でるように動き、憂鬱な記憶を懐かしむように語り出す。
「キミと連絡取れなくなって三日経ってね。私吐いたの」
ショッキングな発言に思わずのけぞった。だが俺の顎に添えられた手に入る力が強まり、視線は逸らせないまま続く。
「二人分買っておいて食べきれなくて悪くした魚をね。でもそれは一番の原因じゃないんだ、って」
俺は、何も口を挟まなかった。こいつの語り口は懺悔で、これは彼女の告白だった。
「私、泣かなかったの。気が付く前に、吐いちゃったから」
思い出したくないことを吐き出して忘れたがるかのように、彼女は空元気を振り絞る。
「しばらく独りにって来た時ね、就職活動改めてがんばるのかなって内心応援してたんだけど、キミがどこかに就職したら、そのまま遠くに行っちゃうんじゃないかなって、さみしくなっちゃったんだよね。二週間会わないだけで、集中力が落ちてぼんやりしちゃって。一か月過ぎたら食欲もなくなっちゃった。ちょうどその頃、夢でキミが、私の好物ばっかり作ってくれたんだよね。いっぱい食べなって、にこにこしながら見守ってくれて。起きてから、全部……」
微かに声が震えるのを自制するように、言葉が止まる。俺は頷く代わりに額を押し付けてこすり合わせた。大丈夫、全て聞いていると伝えるために。また再開する。
「……音沙汰がないまま時間ばっかり過ぎて、6月は元気なくて寝てばっかりっていうか、半分近く寝たきりで、両親にも心配されちゃって。寝てても夢でキミが、朝ご飯作って行ってきますって家を出て、そのまま帰ってこなかったり、楽しく話してて、幸せに浸ってる瞬間に急に、倒れて」
彼女の呼吸は次第に浅く、早くなっていた。俺は黙って、自分の頬に伸びる彼女の手に自分の手を重ね、ゆっくり撫でる。彼女はこわばった顔にどうにか微笑を作り、少しずつ深い呼吸を取り戻していった。
「……だから、電話したでしょ? バイト中だからか、出なかったけど……用がなくてもいいし、何も言わなくてもいいから、せめて生きてるって教えて、って。……それでやっと既読に安心して、夏に入ってから実家に帰って、生活変えて少しずつリハビリしてって……キミの夢ばっかり見てた」
こいつは、他にどんな夢を見たか言おうか言うまいか迷ったように言葉を探して、思い出すうちに感情がぶり返したのか、動揺し始めた。
「私、きちんと向き合ってたつもりだった。特別扱いし過ぎて、思い至らなかった」
少しずつ声に涙が混じり始める。
わずかに息を吸う無言の後、俺を見る彼女の表情が力強くなった。
「……絶交されるとまで思わなかった!!!」
こいつは顔を伏せ、しゃくりあげながら言葉を紡ぐ。
「……あんなに毎日一緒にいたのに、ある日突然…………」
俺は黙って、彼女の脇腹と背中をゆったりとさする。こいつは一瞬身をよじらせ、くすぐったい、と呟いた。俺が手を止めると、止めないで、とわがままなリクエストが届く。間を取って脇腹に手を置いて少し待ってみると、シリアスになりきらないまま彼女は呼吸を整え、再開する。
「話は変わるんだけどね。私今スランプっていうか、5か月くらい何も書けてないの」
唐突な告白に、俺はまたのけぞる。彼女は自分の脇腹に乗った俺の手に手を重ね、少しずつ落ち着きと笑みを取り戻していく。
「なんでか当ててみて」
そういう挑戦をされるのは、おそらく7か月ぶりだった。
こういう聞き方をするからには多分、俺がいなくなったから、というだけでは不正解なのだろう。話の流れでそれはわかりきっていて、問われているのは彼女が俺に何を求めていたのかだった。
彼女は俺を専属シェフ兼雑務くんと呼び表した。つまりそれが、以前の彼女にとっての俺の意味だったのだろう。
今まで俺は小説家としての彼女に干渉することはなかったし、ないように努めていた。くだらない雑談や生活上の雑事を任せる相手がいなくなって、孤独がストレスになったとは考えられる。だが実家に帰れば親御さんが迎えてくれるだろうし、久々の娘の帰省を歓迎しないわけがない。それでも、俺の夢を見たと言った。
相手の一方的な都合で友人を失った理不尽な悪夢と、相手に非すらない不幸な悪夢。そして何より、ただ幸せなだけの、思い出に似た夢。
だとしたら論点は、小説へのスタンスの迷いだろうか。
「……………俺が、男女の友情を裏切ったからか」
自分の理想の関係を裏切られてしまえば、相手がそのままいてもいなくなっても、筆も重く鈍ってしまうだろう。
どちらかが異性として意識してしまえば、どうあがいても元通りには戻らないから。それはそのまま、彼女の作風への全否定でもあるから。
一読者からすれば、恋愛という手軽で爆発力満載の題材を封印してあそこまで書ければ作家冥利に尽きるだろうと思う。だが、作者にしてみれば常に挑戦に縛りが課せられているのと同じだ。特に、恋愛を疎んじた結果として俺に興味を持った、彼女にとっては。
しかし、そういう話ではなかったらしい。
「私が書く主人公たちは、独りじゃいつか孤立しちゃうから」
確かに、彼女たちはみな知的好奇心旺盛で美しく、それ故どこかしら浮いていて、単独行動を苦にしない性質だった。その内面を鮮やかに描き出せる作者は寂しそうに笑って、脇腹の上の俺の手を握った。
「誰かがいつも傍にいてくれないと、話にならないの」
話にならない、か。
俺は感極まりかけて、その信頼を裏切ったのがまさに俺だと思い知って一気に醒めてしまう。
こいつはそれすら悪夢と共に赦し、俺に会いに訪れた。和解のメッセージのためだけに、あんなものを買ってまで。
俺は心の底から自分が憎かったし、恥じ入ってしまった。
このシリアスな空気を壊したくて、こいつに俺を殴らせる提案を探してしまう。
「……たまには自立した女性でも書いてみたらどうだよ。理解ある彼くんに頼ってばっかりじゃ、主体性が失せるぞ」
「主体性はみんなあるよ。必要なのは、ブレーキ兼ウィンカーくん」
彼女はそれ以上何も言わず、額を擦り付ける。
……参ったなこりゃ。
俺は黙ってこいつの脇腹と背中をさすり続ける。しばらくしてこいつが呟いた。
「…………理解ある彼くんかぁ」
それは、その言葉と目の前の人物を引き比べて、値踏みでもするかのように俺の耳に響いた。自分の言葉の浅はかさを呪うには充分だった。
「俺は彼くんでもないし結局無理解だったな」
俺の懺悔は一瞬で、酷く低い無気力な声だった。多分これから死ぬ声に聞こえたのだろう、こいつが俺の胸に耳を当てようと体ごと転がってくる。
「おい、危ない」
「あぶなくないっ」
子供じみた言い合いはすぐ止み、彼女の長い髪が俺の胸の上に流れるように垂れ落ちていく。
覆いかぶさってくる生身の熱と重さを幻覚か何かのように感じていると、人の体の上に跨ったこいつは誇らしげに胸を張った。
彼女の爛々とした瞳には、自分がどんな夢を見たか勢いで洗いざらい話してやりたいという衝動と、自分の胸に留めておいていつか書く小説のために大切に取っておきたいという乙女心が葛藤している様がありありと映った。
俺は聞かず、目を逸らさず、ただ初めて見る彼女の情熱的な生気に見入っていた。
こいつはそっと胸を倒して頭を落とし、再び髪を垂らして俺の心臓に耳を押し付ける。
そのまま呼吸を5回する間、彼女は黙っていた。俺も黙って、その上から布団をかけ直す。やがて胸の上で安堵のため息がこぼれた。
「ちゃんと生きてる」
こいつは聴き入るように頭を乗せ、感慨に浸っているかのようだった。
「嬉しい」
俺は、彼女の心の底から出た温かい声を聴いてもなお、醒めて沈んだ気分から完全には抜け出せなかった。自分にそれだけの価値があるとは思えなかったし、彼女を裏切った俺を彼女自身が全肯定する現状を許容できなかった。
それとも、死んでいてくれた方が良かったのに、と言われたかったのだろうか。
そう自問すると、心の天秤は否に傾きつつあった。彼女にそんなことを言わせたくはなかったし、彼女の喜びに水を差したくもなかった。だから俺はせめて、表向きこれ以上自分を否定しないでおいた。彼女の体温はまだ、俺の自分への憎しみを溶かすほど深く届いてはいなかった。今の俺にとっては、それが救いに思えた。
俺の心臓の音に満足したのか、掛け布団をかぶったまま頭を起こしたこいつはふと口走る。
「理解ある彼くんを理解できるのは誰か?」
すっと顔を上げたその眼にはもう、怜悧で芯の強い輝きが見えていた。
「決めた。今後のテーマは、『理解ある彼くんを理解できるのは誰か?』」
繰り返されたフレーズは、宣言に変わる。
「それなら、ファンもスムーズに受け入れてくれるし、私も無理なく書ける」
彼女はずり落ちそうな掛け布団を握り、こちらを見下ろした。
「キミは、どう思う?」
「読者に聞くな。担当編集さんに聞け」
「ひとまずは、私がキミを理解できるまで、今度こそ一緒にいてくれる?」
こいつの顔つきはもう、完全に復活していた。
何がひとまずだよ。
「…………俺の底の浅さなんてわかりきってんだろ」
「決まりっ」
こいつは重心を横にずらして、滑るように俺の上からベッドへ倒れ込んだ。俺の自虐を聞いてるのか無視したのか、爽やかそうな声が隣で躍る。
「やっぱり話してみるものだよねー。すらすら解決しちゃう。5か月は何だったのって感じ」
「なんで俺がいなくなった途端……」
「たわいない雑談できる相手って、大事じゃない?」
憑き物が落ちたような彼女の晴れやかな表情から、そうか、と今更腑に落ちる。
こいつも、呪われていたのだ。俺のせいで。俺が去ったせいで。
大仕事が終わったようなテンションでこいつは、ねぇ、と俺の名前を呼んだ。
「私が今日会いに来なかったら、いつかキミの方から来てくれた?」
一通り燃え上がった後の余韻を残したような声色で聞かれ、俺は戸惑う。
「……いや……」
ほとんど事後のような、満たされたテンションのこいつに、率直に答えていいものか迷う。彼女の表情を見て、聞きたい答えではなく、俺自身の言葉が欲しいのだと受け取った。俺はしみじみと呟く。
「しばらく距離を置くつもりだった。今更恋人ごっこなんか必要ないって言われたらな。『踏み込むな』にせよ『用済みだ』にせよ、結局俺もだめだったんだなと」
薄々想定していたという表情で聞いていた目の前の美人は、後半で表情が消え失せた。
実際、俺にはそういう意味にしか受け取れなかった。こいつにとって俺は都合のいい男除けで、あくまで友人でしかないのだから勘違いするなと暗に言われてしまえばそれまでだ。ただでさえ俺は、こいつの期待も応援も裏切った。体よく見限られても、調子に乗って踏み込んだ罰として切り捨てられても、残念に思いこそすれ、せめて潔く気持ちを汲んでやるのが友情への手向けだと思っていた。
次に会う時には、こいつの隣にはもっと相応しい誰かがいるのだろうと思っていた。人生を踏み外した俺よりももっと生きるのが上手で、こいつが心を許すほど誠実で聡明な、成功者が。むしろ、あれだけ男に言い寄られるこいつが在学中にそうならなかったのが奇跡なのだと思っていた。女は残酷なまでにドライで、誰かが言ったように俺は王子様が現れるまでの繋ぎに過ぎなかったと。大学を卒業するその機会に俺をお役御免とするのは、自然な流れなのだとすら思っていた。向こうからメッセージが何度来ても、友情の証なのかお情けなのか区別がつかなかった。
結局俺はこの半年、ただ一言こいつに、言い出せなかっただけなのだ──。
俺が思索に潜るのを遮るように、こいつは呆れたように深く、長いため息をついた。心なしか、鼻声に聞こえた。
「ねぇ……。今もまだそんなこと思ってないよね?」
冷ややかに震える、しかし怒りより哀しみのこもった声だった。当然だ。
「流石にここまでされてそれは、失礼どころじゃないだろ……。……しかし、申し訳ないやら情けないやらで…………」
俺は苦々しく言い返す。伝わったといえば伝わったが、正直なところまだ半信半疑ではあった。
俺は最初から大した男ではなかったし、だからこそこいつの中の女が目覚めずに済んでいるのだと思っていた。俺が男をちらつかせればこいつは無機質に、そんな人じゃないと思ってたのに、と言って他の誰かを探すのが目に見えていた。特に、就職活動を諦めたと聞けば失望なり落胆なり、期待外れだと態度で示すだろうと覚悟していた。競争社会から逃げ出した男に、女は無慈悲で容赦ない侮蔑と嘲弄を厭わない。それなのに何事もなく打ち上げの相談をし出したのは、最初から俺に何一つ期待していなかったことの証明に他ならなかった。その反応が、彼女が女の競争の最上位に位置するからこその達観なのか、ただの友人としての面倒見の良さと気配りなのか、この半年間ずっと考えないようにしてきた。
だがこいつは、俺が自分に呪われたのではなく、自分が俺に呪われたと受け止めて解きに来た。
その認識の相違自体は、ようやく知ることができた。それでもまだ、その根本的な理解をすり合わせないことには、俺はこいつの覚悟に向き合える気がしなかった。
「よかった……」
こいつは寝返りを打って傍に来て、また俺の耳元にささやきかける。
「…………今までの私の作品全部に通じるテーマ、わかる?」
男女の非恋愛、だけではないことはわかっていた。
作者のあとがきで熱っぽく語られた、かぐや姫が何を象徴するか。
圧倒的存在故の孤独。性嫌悪、あるいは性忌避。もっとマイルドに、シンデレラ・コンプレックスへのアンチテーゼ。さらに分解するならば、王子様の不要性。上昇婚とは別の価値基準。女性主人公の主体性と自主性。積極的選択・能動的行動という点では、いつかのこいつの、距離感を選ばせてくれる人といたい、という発言と合致する。
こいつは俺の読者としての習性をよく理解し、たっぷり考えろとばかりに微笑んだ。
「それがわかったら、どうして私がここに来たのか理解してもらえると思うよ」
まるで、それがわかればもう我慢なんかする必要はないと言わんばかりに。
実際、人となりをよく知る作者直々に挑戦されるなら、これ以上に読み解きがいのある題材はそうない。
俺との交流を踏まえて、まず何が本質から遠いか外していこうと考え出すと、性嫌悪や性忌避ではない、とは思い難かった。何しろ、あれだけ愚痴られたからこそ俺はこいつから遠ざかろうとしていたのだ。とはいえ、アルハラやストーカーまがいに腹が立つのは人として当然だとも思うし、常識的な範囲でのアプローチや穏便なナンパに対してはあっさりと断っていて、嫌悪や忌避というほど強い拒絶とも思われなかった。政略結婚で幸せになる女性を描いたり、老夫婦を憧憬の眼差しで見ていたところを鑑みても、結婚や夫婦円満に対して祝福と敬愛の念があったことは間違いない。
あえて言うならこいつは、書くのが楽しいしそのためのインプットも楽しい、恋愛どころじゃない、という精神性をサークルで存分に発揮していた。暇さえあれば小説ばかり書いていた生活が、俺と2人で話したり何か観に行ったり泊まったりするようになっていったが、傍から見ていて肉体的な欲望があるようにも思えなかったし、俺の知らないところでそれを埋める誰かがいる気配もなかった。彼女の友人への俺の扱いであったり、その友人の俺への扱いを鑑みても、こいつはプロとして危うきに近寄らずを徹底しているがために、俺を安全地帯として例外扱いしてくれているだけ、というのが素直な見解だった。
あるいはシンプルに、それなのだろうか。
何故例外になったのか。特別な存在になっていく過程。
「…………誰でもいいわけじゃない、だとテーマとしては変か」
「かなりいい線来たね」
いきなり高評価で、よしよしと内心安堵する。
もう少し自然に、あくまでも小説のテーマとして言語化・出力されるなら、相性とか凸凹の対比とか、おそらくそれが一番表面的に明快なコンセプトではある。では、それを以てして描きたいものは何か。
『誰でもいいわけじゃない』がかなりいい線で、俺といることが許容できるなら、かぐや姫の孤高はおそらく本質ではない。人との関わり方のスタンスがメインなのだろう。上昇婚とは別の価値基準、というキーワードにいつかの、育成向け男子だよーあげないよー、という言葉が蘇る。育成……。
「出会いと思い出を大切に?」
「うーん…………言い換えるならまぁ、それも正解かな?」
「何だよ……寝る前に気になる質問してきやがって」
ならば、いい意味で不都合であることの楽しみ。あるいは、何だろうか。『理解ある彼くんを理解できるのは誰か?』というテーマとシームレスに接続する、おそらくはもっと本質的な下地。
俺がさらに考察を深めようとするのを、こいつはやれやれと言いたげに見守っていた。俺が視線で不満があるのか問うと、こういうひとだしなぁと諦めたような苦笑が彼女から漏れた。
「最初のでほぼ合ってる。どうしても気になるならゆっくり考えていいよ。今日で最後じゃないんだから」
最後の一言は、こいつが自分自身に言い聞かせたようにも聞こえた。そんな質問をさせた俺の自己否定感は彼女をよほど打ちのめしてしまったのか、彼女はこめかみに手を添えてため息をついた。
「……ごめん、ちょっとまだショック。言葉が出なくなってきた。もう寝ちゃおうかな」
「おう。起こしてて悪かったな。ゆっくり休んでくれ」
「…………一緒にしたいこととか、ない? もししたくなっちゃったら、朝まででも頑張って起きてるけど、どうする?」
彼女は念を押すように自分の上半身を俺の腕に押し付け、そこに女性の体があることを思い出させてくる。だが俺は、寝かさないと言えるほど自棄にはなれなかったし、本調子でないこいつに無理をしてほしくもなかった。
「美容に悪いだろ。寝よう」
「…………やっぱり見てわかっちゃう?」
「自分で言ってたんだろ……」
「そうだけど、やっぱりまだ見たら気付くかぁ、って」
こいつはまた仰向けに戻ると、肩の当たる距離でもぞもぞ動き、照れ隠しのように髪を手櫛でくしけずる。
「これでもずいぶんマシになってきたんだよー。一時期肌も髪もボロボロで、どれだけお風呂で手入れしてもひどくって。メイクしようにも乗りが悪すぎて、スクラブとかトリートメント使っても使っても果てしなくて、しばらく外にも出られなくてさ」
「寝たきりっつってたもんな……」
先ほど記憶と照らし合わせて出た感想はそういうことだったか、と納得してしまう。女はメンタルとホルモンが密接に関係していて大変だな、と思ったが、それ以上の感想はセクハラになりそうなので黙っていた。
「セルフメンタルケアの効果かな」
こいつは含みのある声音で呟いた。
具体的に何をしたか、興味はあったが聞く気にはならなかった。何か非常にデリケートなことのような気がしたし、下手に知ってこいつを見る自分の目が変わってしまうのも怖かった。
こいつは俺の顔色を窺うように少し黙って、俺の手をなぞるように撫でる。
「違うこと想像してない? ……一応言うけど、眠れない時にものすごくダークな推理小説とか、普段の名義で書けなさそうなアイディア練ってみただけだからね」
キミは何考えちゃったのかなー、とばかりに彼女は俺の手をまさぐる。その感触に、まさに違うことに意識を誘導されそうになりながら、俺はこいつの掌をくすぐり返す。
「推理小説はいいな。構成力が活きるし、ラインを超えた愛憎のドラマだのサイコサスペンスだのグロだの、割と何でも受け入れてくれる」
彼女はしばらくくすぐられるがままでいたが、俺が飽きるとまた手を重ねた。
「……こっそり体触ってもいいけど、まだ肌も髪も万全じゃないからね。がっかりしないでね」
「んなこと言われて触るわけないだろ……」
そもそもそんな気もないが、女扱いされるつもりで来たなら気持ちぐらいは尊重しておきたかった。それに、単にスキンシップに飢えているのかもしれないので無下にもしたくはない。
こいつは俺の返事に満足したのか、少しでも雰囲気を和らげようと声を明るくする。
「実を言うと、さっきあれ買ったのは、女性ホルモンどばどばでお肌つやつやっていうの試してみたくて。ちょっと興味あったけど……ほら、キミがそういうことしたくて私にああ言ったんだったら、断ったまま一緒にいるわけにもいかないかな、って」
そこまで言われてようやく、こいつが大胆な格好や接触をしてきた真意を思い出す。俺が望むと思って、わざわざそうしたのだろう。そして、こいつ自身も、そこに言い訳を求めていた。たとえ小説家としての才覚と精神性がそこに起因するとはいえ、交際も結婚も考えずにあくまで俺を友人として扱っておきながら、よその女に惹かれることは嫌がり、いつまでも自分だけの都合がいい男除けでいてほしいという願望がどれほど身勝手か、突き付けられてしまったから。
だからこそこいつは、こうすることでしか和解できないと思い詰めてしまったのだ。
せめてもっと段階ぐらい、踏みながらでもいいだろうに。
俺は、和解しないという考えが彼女の中になかったことを喜ぶよりも、なぜ自分が振られてそれきりで終われなかった場合を想像していなかったのか後悔し、ぞっとした。
「…………変に気ぃ遣わせて、本当にごめんな。今の言葉だけで充分だ」
「こっちこそ、本当に、そこまでひどい受け取られ方してると思ってなくて……てっきり、ただ単に、私とそういうことしたくなっただけかと……」
こいつはまた泣きそうな声に戻って、十秒前と同じ内容を繰り返す。本当に混乱から立ち直れていないらしく、半分放心状態に聞こえた。
「私そのつもりで、今日のために心の準備とか、いろいろ……」
こいつは布団の中で俺の腕を探し、掌を握って自分のブラウスの下に滑り込ませてきた。きめ細かい彼女の肌の感触に驚いて手を引き抜いた俺は、ちゃんと腹を隠せと外から撫でつける。
「別に、もういいんだ。気持ちは伝わった」
「ほんとに伝わってる?」
彼女は俺に顔を近づけて、今にも俺に覆いかぶさりかねない勢いで問い詰める。そのまま彼女の唇が接触しないよう、俺は上を向いた。
「伝わってないかもって言ったら過剰表現するだろ。だから、伝わってるんだよ」
誇張し過ぎた言葉は何も伝えない。現実のすぐそばにある言葉だけが、人の心を動かすのだ。
これ以上言葉以外の方法で伝えようとされても、気持ちのオーバードーズで全部うっとうしくなってしまう。だから、もういいのだ。
こいつは深く息を吐いて、ゆっくり俺の肩の上に頭を倒した。
「そっかぁ……つい浮かれて、そんなに信用ないとか当たっちゃったけど…………そっかぁ~…………」
「こっちこそ、何事もなかったみたいに接してくるから距離感に困ったが、納得した。本当に申し訳ない」
そこまでわかれば、事態の要約は簡単だ。俺は自己肯定感不足から、対等でなくなろうとしている関係をどうにかしようと思い切って、こいつに振られたと解釈し、嫌がられないために距離を置いた。こいつは、見限るつもりはないから俺が卑屈になる必要はないと示すつもりでいたが、俺に絶交されてから誤解を与えた可能性に思い至った。こいつは自己肯定感充分であるが故に、単に自分への好意と性欲に俺の動機を還元し、そのつもりで自分と向き合って会いに来た。だからこいつは俺を信用しきって、コンビニであんなものを買い、今までと同じ調子で接してきて、シャワーの後には大胆な格好で、来るなら来いと行動で示した。自己肯定感不足の俺はその様子を見て、遊びに来たのか弄びに来たのか、警戒心を顕わにした。
こいつは好意を言うまでもないものとして受け止め、そこに性欲が加わることを拒んでしまった、と後悔していた。だが俺は、好意の段階で駄目だと思っていた。だからすれ違い、その噛み合わなさに今の今まで、どちらも気が付かなかった。
近くから見れば悲劇でも、遠くから見れば喜劇という言葉がある。やはり、こうして言葉にしてしまえば、ただの喜劇だ。
それでも、重層的で誤解を招きうる短い一言で済ませるよりは、言葉を尽くして理解を深める方が俺好みではあった。俺は小説家ではなく、読書感想文だけが取り柄のただの読者なのだ。
俺は、さっき何を考えかけてこいつに遮られたか、もう思い出せなかった。なんとなく、こいつが一番恐れていたことのように思えた。そして、今この瞬間に、思い出す必要はなくなった気がした。こいつの描いてきた主題にも、思い当たる節があった。
彼女の頬を手の甲で撫で、俺の斜め上から緩やかに押し戻す。意味が伝わったのか、こいつはまた重心を移して横に転がり戻った。
「…………ほんとにそういうつもりじゃなかったなら、私もそれでいいんだよ。変に溜め込まれて、よその女の人にホイホイついて行っちゃうのが一番嫌だから」
「飴に釣られるガキかよ……」
「そっちは信じていいの?」
「俺の意見は変わらん」
こいつはやっと、以前その話をした時のように笑みを隠せない様子で、そっかそっかとばかりに頷いた。
お前の方こそ、と言おうか迷ったが、あえて問う必要はなかった。今ここまでしてくれるなら未来を案じる意味がないし、もしこいつがこの半年の間にどこぞの男に縋ったなら、今こうして俺のところへ来ているはずがないのだから。もしそんな機会があったら、俺なら絶対にこいつを逃がしはしないだろう。絶対に。
だからあえてこちらから問うつもりもなかったし、こいつが小説を投げ出さないなら大丈夫な気がした。
「うん……。じゃあ、また今度にしとこっか。サイズ適当に選んじゃったから、合わないと困るもんね」
「使うのは前提なのかよ」
「初めてで無しはさすがにちょっと怖いし……」
腰が引けた様子でどこか面白そうに笑うこいつに、言い知れぬ感覚を覚える。何かさっきよりもデリケートな一言が聞こえた気がしてならなかったが、気のせいだと思うことにした。意識させられたくなかったし、こいつの口からその手のことを聞く心の準備を一切していなかった。彼女は俺の反応を面白がっているのか、耳元で囁きかけてくる。
「無視しないでほしいなー」
耳の奥に反響する生ぬるさに不意を突かれて動揺してしまい、つい妙に偉そうな物言いになってしまう。
「そうじゃねぇよ……。とりあえず、今しなくてもいいなら、いいんだ。ちゃんと付き合ってもない相手とそういうことをするのは嫌だからな」
「うん。キミはそう言うだろうと思って、今回は意思表示に留めました。今回は」
今回は、か。
「やっぱりけじめは大事だよねー」
それは、俺の価値観の肯定とも、彼女への返事の催促とも受け取れる言い回しだった。
あの時と同じことを聞けば、今度は違う答えが返ってくる。こいつの声からはその確信があったし、いかにも小説家の好きそうなシチュエーションだと思った。
だが俺は、個人としてではなく読者として待ったをかける。
「そういうのは、現行のシリーズ一通り完結の目途が立ったらにしないか。作者の人生観が急激に変わって作品が歪むのは、一読者としては御免なんだ。俺の方からめちゃくちゃにしておいて、今更どの面下げてどの口でと思われて当然なんだが、形だけでも、な。本当に申し訳ない限りだが」
「…………はぁーい」
案の定彼女は、ふてくされたように唇を尖らせる。だがその様子は甘えるようにかわいげたっぷりで、唇の形の良さと柔らかさをアピールしているかのようでもあった。
俺が理由を言えば、こいつは素直に引いてくれる。どこか満足げな表情を見るに、多分行為は本質ではなく、こうやって言い合える関係性こそが彼女の望みだったのだろう。
人を好きになっていくペースは、人それぞれだから。こいつ自身、骨身に染みているからこそ自分でも、無理やり押したり引っ張ったりはしない。あくまで柔らかく意思表示に留め、一切俺を責めず、抵抗しない。だから尚更、俺自身が戒めなければならない、と改めて自省すると、こいつは満面の笑みを浮かべた。
「そうだよねー。記念すべき一回目は、お互い心も体も万全の状態で、後顧の憂いなく思う存分、心置きなくノリノリで楽しみたいもんねぇ。んふふ」
期待と惚気が混じり合ったような、幸せいっぱいの今と未来を一切疑っていない声音だった。
やはりこの態度も、3年半一緒にいて一度も見たことがなかった。もう既にこいつは変わり果てていて、手遅れなのだろうか、と後ろ向きな感傷に浸ってしまう。他人事なら羨ましくも微笑ましいシチュエーションではあるが、自分を振った女友達、という認識がまだ抜けない状態の相手が、半年ぶりの再会で女をむき出しにして接してくると、ギャップで困惑の方が勝る。そのギャップを彼女は自ら埋めようと正直に語ってくれたし、俺はそれを疑うことはしない。だがそれでも、ギリギリついていけない程度には置いて行かれている気がした。それ以上に何より、申し訳なかった。
結果的に俺は、自分が罪悪感から逃げるためにこいつに罪悪感を押し付けたのだ。そして、こんな風にしてしまった。俺が望んだのはこういうことだとこいつに身をもって突き付けられ、俺は思ったより傷ついているらしい。我ながら身勝手だ。だが、こいつもこいつで極端すぎる。
俺たちは、エゴと思いやりのバランスを、改めてうまく調整し直せるのだろうか。いや、するしかないのだが、如何にして。
俺がこいつから奪ってしまったものの重さに打ちひしがれそうになっていると、そんな俺の視線に何を感じ取ったのか、こいつは満面の笑みのまま落ち着いた声に戻る。
「……やっぱり今のうちにマーキングだけしてもいい?」
「お前テンションおかしいぞ。いい加減寝ろ」
俺は慌てて制した。続きが読めないままと、待っていた続きじゃないのとなら、どちらがマシなのか、俺には何とも言えなかった。
伝わっているのかいないのか、こいつは澄ました顔になって、はっきりと知性を声に乗せた。
「約束して」
何を、とは問い返すまでもなかった。俺は端的に応える。
「今更必要ないだろ」
「……………………あー、うん」
俺の半年ぶりの意趣返しに、落ち込んだのか恥ずかしくなったのか、こいつは黙り込んだ。そしてそのまま枕に頭を載せ、頬を両手で仰ぐ仕草の後、口元に手を当てて声にならない声で悶え始めた。
そういうリアクションをされたせいで俺まで恥ずかしくなってきてしまったが、この薄闇で多分ばれてはいないだろう。
「……あれだ。どうしても我慢できないとか信頼関係の担保が欲しいとかになったら、その都度話し合おうぜ」
「話し合うだけじゃ済まないかもね」
「その辺も含めて、拗らせる前にな」
そう応えはしたものの、俺は内心どこまで譲れるかわからなかった。好きだからと2人の内側でルールを踏み倒してしまえば、同じ理屈でいくらでも約束は外側へ破られる。なら、後出し自体歓迎できる行いではない。それでも、生きていれば考えや感性はいくらでも変わってしまう。
大切なのは、ルールそのものではなく、ルールが何のためにあるかなのだ。
こいつは自分で距離感を選びたがり、恋人ができる煩わしさより独りでのびのびと執筆できる小説を優先した。だから、その邪魔にならないという条件付きで俺は許されたらしい。
では俺は、こいつに何を求めているのだろうか。
振り返れば、俺が恋人という単語を持ち出したのも、完結の目途が立つまでと言い出したのも、自分がこれからぶち壊してしまうものから目を逸らしたいだけだった。それは関係性であり、小説の作風であり、そして何より、こいつに対するイメージだった。自分を憎むこともあるいは、ただの無責任な自己弁護の一つの形に過ぎなかったのかもしれない。
結局のところ、節度と折り合いを探していくことに慣れていかなければ、長続きできない。今までではなく、今とこれからのこいつに向き合わなければ、一緒にいることなどできないのだ。嫌になったからさよならなんて、どちらも望んではいないのだから。
そう決心した矢先、俺の苦悩を心配そうに見ているこいつの眼と目が合ってしまった。今夜の話のパターンを思い出し、今にも彼女から、今晩は約束無しで引き下がるから代わりにちょっとぐらい私の体を触ってから寝ろ、と要求されるような気がして、あまり気乗りしなかった。こいつからしてみれば、仲直りの姿勢を見せれば見せるほど疎まれるこの状況は心苦しいだろうし、他の男なら大喜びするはずのサービスに俺が拒絶反応を示すのは、信頼関係にも彼女のプライドにも悪影響を及ぼしてしまうだろう。それは俺も重々承知していたし、こいつは完全にそのつもりで来たとしても、という俺の迷いが顔に出ていたのか、彼女はふっと表情をやわらげた。
「わかった。今回は同じ過ちを繰り返さないためにも、手ぇ繋いで寝よ」
「……そのくらいなら助かる」
上から目線で悪いな、という心の声が聞こえたかのように、こいつは大きく息を吐く。
「嫌がられると余計束縛したくなっちゃうって、傍から見てる分にはそういうの逆効果なのになぁって思えるのにね。焦っちゃってごめんね」
「嫌がってるわけじゃ…………いや…………同じことか」
「そこは否定してほしかったな~」
「わかってるだろうから否定しなくてもいいと思ったまでだ。もっと時間をかけて丁寧にきめ細やかに束縛される分には、さすがに嫌にはならない」
「そっか。そっかそっか」
「受け身で申し訳ないとは思っている」
「私への認識をきちんと改めてもらうのが優先だから、焦らなくていいよ」
「…………ありがとな」
「そう思うなら、キミの方からも、時間をかけて丁寧にきめ細やかに束縛してくれると嬉しいかな、なんて」
「まぁ、そのうちな」
娘の成長を見守る父親のような気分で、布団の中で手を探り当てる手を迎えに行く。やめろ指を絡めるな、と無言で片手同士を争わせるが、結局俺の抵抗は虚しかった。
こいつは満足げに、さっぱりと手の力を抜く。
「おやすみなさい。また明日」
「おやすみ。明日っていうかもう、また今日だな」
幸せそうに目を閉じるこいつの安らかな笑顔は、見守るうちにやがて力が抜けて、無邪気で無防備な呼吸に変わっていった。
俺も目を閉じ、眠気が訪れるまでほんの少し物思いにふける。
こいつはさっき、特別扱いし過ぎて思い至らなかったと打ち明けた。俺はこいつの中で、特別な存在になれたのだろう。俺にとってこいつが、ただ視界に映るだけの雑踏に紛れる影から特別になっていったように。
「代替不能性か」
それは恋よりも普遍的で、上辺の付き合いでは得難い。漫然と共に過ごしても、ただ体を重ねても、手に入るものではない。
「そりゃ、『今更必要ない』わけだ」
理解しようとして無理解を思い知り、誤解はまたすれ違いを生み出すだけ。だからせめて、言葉を交わして。ただ言葉を重ねることだけで、かろうじて俺たちは互いにすり合わせていける。言葉を尽くしても伝えきれない思いや理想を、言葉にならない原始的なメッセージの中で確かめ合いながら。
温かく柔らかい手を握りながら、俺も全身の力を抜いていった。
目が覚めたのは、こいつの方が早かった。
ぼんやりと夢の中で、何かとてもいいにおいがする、と感じていた。安心するような、おいしそうな、食べてしまいたくなるような──そう思って夢の中で口が開いた瞬間、現実でも口が開いた感覚で目が覚めた。
目の前にはこいつの顔が俺を覗き込んでいる。自分の頬が寝ぼけた誰かのせいで今にも食われそうになっているのを、興味津々に観察しているように見えた。
彼女は笑みを湛え、俺の口の中に響くように囁いた。
「おはよう」
その声にも表情にも、満ち足りた者特有の安息と柔らかさが感じられた。俺は寝起きでまだぼんやりとしながら、とりあえず頭を引き、一度口を閉じて応じる。
「……おはよう」
「食べられちゃうかと思っちゃった」
……何を嬉しそうに。
「…………俺が悪かったのは大前提として、止めてくれよ。跡でも残ったらどうする」
「どうしたと思う?」
寝ている俺に頬を食われかけた体験がよほど楽しかったのか、こいつは幸せそうに問い返してくる。本調子でないなら、肌に悪いことは、きちんと怒ってくれる方が助かるのだが。
「……皮膚科でいいのかね、歯型は」
「歯型かー。そっちまで考えなかったなー」
…………そうかよ。
俺が応えるより早く、こいつはまた俺を見つめる。
「早く起きて頭と顔洗ってから起こすつもりだったのに、久々でなんかつい見ちゃった」
言い訳のつもりもなさそうに、さらっと言いやがって。
「見惚れるような顔でもねぇだろ」
たった今自分が寝ながら何をしようとしていたか棚に上げて言うと、相手は含み笑いを始めて口元を手で隠した。
「いい寝顔だったよ。寝てるなーって思って。呼吸してるなーって」
「睡眠時無呼吸症候群じゃなさそうで何よりだ」
「呼吸と魂はかつて同じ意味だったんだなーって、よくわかる気がして」
「プシュケーか」
「うん」
寝起きのトークは済んだようなので、掛け布団の上半分を剥いで体を起こし、伸びをして改めてこいつを見下ろす。
夜中に見た時より肌つやが少しいいように見える。日差しの加減なのか、精神的なものなのか。同じく体を起こした彼女は、俺の視線に気づいて二つ瞬き、ごく自然にウィンクした。
「器用だな」
「でしょー。役者さんとかアイドルには敵わないけど」
「そりゃ、表情筋が商売道具だからな」
いつか見た舞台の帰りに話していたことを思い出して応じた。
にしても改めて見るとこいつの服装、大胆過ぎるな。上は3割くらい丸見えだし、脚どうなってんだよこれ。タオルどこ行った。
俺の目線の先を追って彼女はぱっと手で遮り、軽く立てていた膝を倒した。
「朝は見ちゃだめ」
…………はい。
その言外の意図を深く考えないように、俺は視線を外す。
「……すまん」
「ほら、明るいところだと、良くも悪くも見え過ぎちゃうから」
言い訳なのかフォローなのかよくわからない言い草に、どういう反応を期待しているのか迷ってしまう。
「気にするなら今度ストレッチとかマッサージでもしてみるか」
「うん。いいと思う、大事だもんね。もう運動する機会自分で作らないといけないし、ジョギングとかトレーニングもしないと」
「だな」
とりあえず、小学校の体育の準備運動やラジオ体操辺りからでいいだろうか、とうろ覚えの記憶を辿っていると、彼女は隣で決心したように呟いた。
「……ちゃんと体力つけないとね」
「お互いにな……」
座り仕事も立ち仕事も、結局は体が資本だ。健康なくして充実した生はない。
こいつの視線からは別のニュアンスを感じたが、俺と目が合うと話を変えた。
「そういえば今日の予定って何か決まってる?」
「言った通り、ただ単に休みだよ。未定だ」
「そうなんだ」
「そっちこそ焦ってないみたいだが、いいのか」
「打ち合わせした分まではがんばって書いてから体調不良の連絡したから、ここ数か月は無職なの」
えらくないことを堂々と言った彼女は、俺の返事がないので繰り返す。
「無職なの」
「聞こえてるって」
「フリーターより立場低いよ。無職だもん」
「仏の顔も三度なら凡人の俺も四度目は思う存分怒るからな」
俺が呆れると、こいつはうふふふ、と口元を手で隠しながら笑い、それから胸の前で両手を合わせる。ちゃんと真面目な顔をしているのでその話はこれで打ち切った。
それにしても、俺のコンプレックスを刺激するまいととことん気を遣われると、逆に落ち込んでしまう。俺の方こそ、こいつに見限られないうちに、また就活しないとな、と憂鬱な気分になってくる。お互い気軽に会いに行ける範囲となると限られてくるが、まぁ見繕っておいて損はないだろう。
俺より先にベッドから出ようとしたこいつが、ひとの体の上でごろごろするという今までならあり得なかったスキンシップを経由して床に降り立ち、仕切り直すように伸びをした。
「朝ご飯どうしようか。材料言ってくれれば私作るよ。泊めてもらったお礼に」
「俺が作る気でいたんだが……」
「書けない作家は文字通り穀潰しなの」
「今までだって朝飯は俺が作ってたろ。朝の髪のお手入れしなさい」
「はーい。久々にお願いしちゃうね」
彼女は素直に引いたので、俺もベッドから降り立つ。
書いてくれよ、と俺がせっつくまでもなく、今夜にでもこいつはまた書き始められるだろう。書きたいことが見つかったなら、別名義で文体を変えながら勘を取り戻すのも悪くはないだろう。
ふとサッシに目を向け、こいつの部屋のベランダと視界がオーバーラップする。
「家庭菜園でもして、第一次産業従事者の苦労のひとかけらでも味わってみるか?」
「残念。もう実家でそれやってます」
土いじりは趣味ではなかったはずだが、と思ったが、それが夜中に言っていたメンタルケアなのだろうとすぐに想像がついた。観葉植物でもペットでも、何かを育てるのは精神の安定に効くという。季節の野菜なら成果が出るのも早く、育てた実感を得やすい。そして何より、食とは生の支えだ。
こいつは思い出したように眉を寄せた。
「虫とか動物に横取りされると悔しいね。せっかく育てたのに」
「野生は食べ頃になったら早いもの勝ちだもんな」
「私は文明人でありたいのに」
彼女は演技がかった口調で、いかにも自然から生まれ自然から切り離された傲慢で温室育ちの人類らしき物言いをした後、愁いを帯びた表情で俯いた。
「人間もそうなのかな」
そういう話かよ。
朝っぱらから何言ってんだよ、という突っ込みを呑み込んで、冷静に深呼吸する。
性交渉はしばしば食事に例えられる。それは日本語圏に限らないらしいが、何も、飯の前にする話でもないだろうに。しかも、食べられちゃうかと思っちゃった、というやりとりの後に。
「娘がかわいいと親は心配だってか」
「うん。兄弟姉妹でもそうだけど」
「人間は植物じゃねえしな。警戒できるし回避も対策もできる」
「信用しなさすぎるのも駄目だし難しいよね」
いつもならさらに話が長引くところだったが、俺がキッチンに視線を向けて返事を練っていたせいか、顔と頭洗ってくる、という言葉と共にこの話は放り投げられた。俺もついて行き、先に顔だけ洗わせてもらってから、朝食の支度に取り掛かる。
炊飯器は正常に作動していた。昨夜考えておいた、ランチョンミートの缶詰とキャベツ、フリーズドライの野菜たっぷり味噌汁2パック、卵が残り1個、ついでにフルーツ缶を適当に見繕う。果物はどれが食いたいか、戻ってきたら相談して開けよう。
お湯を沸かしながら、薄切りにした肉を表面がカリカリになる直前まで焼き色をつけ、別の皿に避けて肉の油でキャベツを炒めて水分を飛ばしていく。
朝食を作りながら洗面所で聞こえる水の音に一瞬意識を持っていかれ、停まっていた時間が再開したような感覚を覚えた。
文明的な距離感か。
なるほど。
ミニドライヤーの音が聞こえたので卵を投入し、かき混ぜながらニンジンかピーマンがあれば彩りがなぁとないものねだりをして肉を合流させる。
「あー、いいにおい!」
戻ってきた彼女は後ろ頭をハーフアップにして、白いシュシュを巻いていた。髪形に気付いているか、このシュシュを覚えているかと二重に問いたげにこちらを見るこいつに、俺はあまり気の利いたことを言う気にならなかった。
「よく見つけたなそれ」
俺はやかんとフライパンの火を止め、覚えてはいることを伝える。以前2人で買い物している最中に、こいつが自分で買っていたものだ。初めて俺の部屋に泊まりに来た日でもあるので、印象に残っている。その後しばらく使っていたが、店員さんに紺色と藤色のリボンを薦められて、どちらかなら買うと俺に選ばせ、紺を買ってから白いシュシュはすっかり見なくなっていた。てっきりマイブームが去って飽きたか趣味が変わって売ったかと思っていたが、物持ちはいいらしい。
こいつは悪戯っぽく笑った。
「キミの部屋にずっとあったんだよ。私が前にしまった場所にそのままあったの」
「勝手に……」
どこにしまっていたのやら。置き忘れでないならすぐには気付けない。普段使わない場所なら隠されても盗まれてもわからない。一歩間違えれば信頼関係を損ないかねないが、まぁ、先に自分の部屋に俺を招いたこいつが俺の部屋で何かやらかすとも思わない。
ただ、俺の部屋には、俺自身も気づいていないうちにこいつが占有している場所がずっとあった、という事実が喜劇的で、俺はため息をついた。
「引越しの時に気付かなかったらどうすんだよ」
「それは大丈夫だよ。絶対新居でも一緒だから」
「それはそれで大丈夫じゃねえだろ……」
たわいないやりとりをしながら、朝食を卓袱台に並べる。
炊き立て白米、スパキャベ卵炒め、野菜味噌汁、桃とパインのフルーツミックス。牛乳と麦茶のどちらがいいか聞き、今日は2人とも麦茶を選んだ。
いただきます、と手を合わせ、おいしいだのそりゃよかっただの、懐かしいやりとりをした後、しばらく箸を動かすことに集中する。4割ほど進んで落ち着いてくると、彼女は食卓に視線を落として言った。
「やっぱり同じもの一緒に食べるのっていいよね。昨日はキミと別々だったし」
「そりゃ、予定になかったからな」
「今後は準備よろしくね。私も用意しておくから」
「大人しく手土産持参のままにしとこうぜ。計画的な食糧消費って真面目に考えるとダルいぞ」
「えー。じゃあ当分は、はーい」
なんだよ当分はって、と聞こうか迷ったがやめておいた。話の流れで同棲の提案でもされたら返事に困るだけだったし、まさにそのつもりで俺が指摘するのを待っているらしいこいつの様子見の表情もなんとなく気に入らなかった。
俺の方こそ当分は、まだこの距離感でいいのだ。いきなり近づきすぎても、窮屈になるだけだ。
味噌汁の椀に口をつけて沈黙をごまかすにも限界が来て、心のリハビリというフレーズが思い浮かんだ。
「前みたいに、何食いたいか事前に連絡してもらえれば、こっちで買ってから行くなり足りないものを伝えるなり、できるしな」
「ミートソース作るのにトマト缶がないみたいな?」
口に物が入っているので、無言で頷く。
「そうだよね。その辺りはどっちにしてもそうだよね」
その『どっちにしても』の『どっち』はおそらく、泊まりに行き来する前までの生活か、今後の同居生活かなのだろう。
こいつはそれ以上その話題を広げるつもりもないのか、口を咀嚼するために動かし始める。先程の示唆は、話の流れで言質を取りたかったのではなく、あくまで俺に今後を意識させたかったのだろう。文脈さえあれば日常的な思考回路は、互いにトレースできてしまうから。
そうやって信頼して省略し過ぎたせいで、危うく縁を切るところだったんだけどな、と俺が冷淡に自分を戒めていると、彼女は箸で切り取っていた肉の縁のカリカリ部分だけをしばらく楽しんで飲み込み、小さく唸る。
「お礼はどうしよっかな。今度私の部屋にご招待?」
「つまり今まで通りか」
「じゃあ私の実家に着いてくる? いいよ。食べたら行く?」
こいつはカモンカモーンと陽気に手招きする。その様子を見ていると、あんまり浮かれるようじゃ何のために先延ばしにしたのかわからなくなってくるな、とつい気後れしてしまう。
いつだったか、こいつの部屋で2人してダラダラしている最中に、ご両親が抜き打ちで訪れて、親しい友人として紹介されて挨拶したことがあった。あの時は、やましいことは一切なかったのでさほど肝は冷えなかったが、さすがに今日、娘を数か月寝込ませた男としてこのタイミングで挨拶しに行くのは御免こうむりたかった。少なくとも、再会して泊めた翌日に露骨にご機嫌のこいつと共に行くのは、完全に説教と責任追及コースだ。俺の自己否定感のせいで大切な娘さんをひどく傷つけてしまった以上、そこを叱られる分には仰る通りと土下座も辞さないが、ショットガンを突き付けられる覚えもなければ正式に付き合ってもいないのに外堀を埋められそうになるのは、釈然としない。いつかは行く機会があるとしても、少なくとも今日ではないだろう。
「今まで通りじゃねぇな。やっぱり、変わったな」
自分が女であることを露骨にちらつかせるような真似、以前なら絶対にしなかった。それもこれも、俺が恋人なんて単語を持ち出して無意味に混乱させてしまったせいなのだろう。
こいつはそれについて、もはやどうとも思っていないかのように自然な口調で答える。
「特別扱いなのは変わってないよ。特別の枠組みが変わっただけで」
……やはり、変な方に腹を括らせてしまったのは確かなようだった。俺はそれが申し訳なかったし、その覚悟にいつ応える決心がつくのか、自分では推し量れる気がしなかった。少なくとも、彼女のこの浮かれ気分が小説に反映されてシリーズ続編としての雰囲気が変わるようなら、俺は再び距離感を改めなければならない。あまり彼女を苦しめたくはないが、プロが信頼を失ったら終わりである以上、俺がどうにか納得させないわけにはいかない。
自分を許すことと開き直ることの違いを考えていると、こいつは俺の背中を叩く直前のような眼をして、微かに唇を噛んだ。
「……ほら、友達のままじゃできないことってあるから」
その意味深な表情に、俺は即座に答えあぐねる。
朝飯の最中に急にしんみりしたかと思ったら何をこいつは、というこちらの思考を読んだのか、彼女は笑いをこらえて訂正する。
「別に、粘膜接触だけの話じゃないよ」
その表現はそれはそれでやめろ、と視線で咎めると、こいつは笑いを引っ込めた。俺も、何を言いたいのかはわかっていた。
「約束とかだろ」
「うん」
こいつは昨夜、俺が他の女になびくことをやけに恐れていた。俺にしてみれば杞憂ではあるが、友達のままでは引き留める権利がないと彼女が考えたとしたら、それはご尤もだ。嫉妬も独占も、友達でいる間は許されないのだから。
「そういう意味では、私の方こそ認識不足だったなって思ってね」
反省している口ぶりだったが、俺は彼女の元々の認識を知らないので、何とも言い難かった。
考えてみれば、女友達の前でわざわざあげないよーと冗談めかして言ったり、毎週どちらかの部屋にお泊まりしてるとアピールするのは、周囲への認識操作であって、俺たち二人の間で完結する関係性や互いの認識とは一切関係がない、と言えないこともなかった。付き合っていないだけでいずれ結婚するであろうカップルなのか、ただどちらかが恋愛や性愛に目覚めるまでの間共にいるだけの時限爆弾のような友情なのか、それは、原子崩壊を検知して作動する電流装置と放射性元素と一緒に箱に閉じ込められた猫の生死のように、蓋を開けてみるまではわからない。
俺は最初からデートじゃないと念を押されていたし、こいつが俺を消去法で残しているだけとわかっていた。だからこの美人が飽きるまでの暇潰しなんだと思っていたし、いろいろ散歩したり作家だと知ったりしてからはなおさら、彼女を手に入れようと思えなかった。だがこいつにとっては、俺が一緒にいるうちにその気になってもアウト、他の誰かを好きになってもアウト、というダブルバインドに陥る。
男と女が、誰とも恋に落ちず結婚もせず、いつまでも友人のまま一緒にいられるかという永遠の答えは、わかる気がしない。だがいつでも手を伸ばせば届く相手がいて、いつ誰が割り込んでくるかわからないなら、自分一人呪われたくないと思うのは、きっと本能だろう。
大人しく身を引いたところで、泣いて死んで淘汰されて、100年後には誰の記憶にも痕跡にも残らずに、生まれて来なかったことになるだけだ。誰だってそんなのは御免だろう。いくら小説でミームを広く残せても、読み継がれなければおしまいだ。
「その辺は、俺が先にぶち壊そうとしちまったんだ。そっちが気に病む筋合いはない」
俺の声は相当露骨に落ち込んだらしく、彼女ははっきり明るい声に戻って念を押してきた。
「ならキミも、これ以上この件は引きずらないこと。いい?」
俺はためらいがちに頷く。
「……善処する」
「善処してね。これ以降引きずったらすごいちゅーするからね」
こいつは半笑いで唇を尖らせた。俺は軽くむせて、タンブラーの麦茶を半分ほど呷って息を整える。
「…………すごいのはまだ困るな」
「んふふふ、そっか。まだ困っちゃうか。じゃあ切り替えてね。ずーっとむすっとしてさ~もう……」
その屈託のない笑顔に、何というか本当に、頭が上がらないと思い知らされる。こうも完全に掌の上だと、こいつが心底善良でよかったと感謝せずにいられない。
そういうところは、一切変わっていないようで安心した。
「…………とりあえず、今日はどうしようかね」
「いいよーお出かけでもゴロゴロでも。一緒だから」
彼女は幸せそうに桃を口に入れ、俺の返事を待っている。俺は揃いの箸置きを見つめ、何も決めずに口を開く。言葉は自然と出てきた。
「んじゃ、ネタ探しにその辺散歩でもするか」
「わかった。……昨日と同じ服で外出ってちょっと懐かしい感じ」
「一旦部屋寄るか?」
「大丈夫。そうだ、服買いに行く? せっかくだしキミの分も」
「それはいいが、かさばるから散歩の後の方が助かるな」
「じゃあ決まりね」
たわいないやりとりが落ち着き、まだ少し残っている料理を食べている最中ふと、寝る前にこいつが閃いた理由がわかった気がした。
結局のところ、ただ頭で考えていても感情に結論は出ないのだろう。そこはただの出発点で、自分の外にある何かの刺激を絶えず受けて、考える方向性を変え続けることでしか、どこにも辿り着けない。独りで考えを深めても、同じところを回り続けていずれ力尽きる。
俺がこいつをこうも変えてしまったように、こいつもいつか俺を変えてしまう。そんな予感にも確信にも似た気付きがあった。
俺自身がそれを受け入れられるなら、きっとこいつとの関係は悪いようにはならないだろう。
彼女はにやにやともにこにことも言い難い笑みを浮かべる。
「昨日から思ってたけどさ。ずっと私に見惚れてるでしょ、キミ」
「変わったものと変わらないものを見てた」
肯定するのが癪で、俺は迂遠な返事をする。こいつは自分の頬を撫で、くにくにと皮膚を動かして見せた。
「そうだね。ハリとかツヤが戻っても、いつかはシミとかシワとかできちゃうんだよね。気をつけないと」
「今から気をつけておくのはいいことだ」
こいつは返事の代わりに、口元を隠して含み笑いをした。今から老けた後のことを考えるのは、まぁ、髪と肌が荒れれば思うところも出てくるだろう。他意は今は気にしないことにした。
ごちそうさまでした、と手を合わせて声を揃え、お粗末さまでした、と俺が続ける。なんとなくこの、呼吸を合わせたりフェイントを仕掛けたりしていた日々が帰ってきたことを実感してしまった。
こいつは麦茶の瓶を冷蔵庫にしまった後、緩んだような甘えるような、気の抜けた声色で言い出した。
「ほんとはこうやって毎朝一緒に食べられたらなー」
毎朝一緒ということは、毎晩一緒ということでもある。俺だって今更反対はしないが、精神的にも社会的にも、そしておそらく身体的にも、猶予が欲しいところだった。
「それは様々な今後の課題をクリアした後だな」
「たとえば」
「俺がちゃんと就職して生活リズムを安定させるとか」
「就職かぁ……私は家事やってほしいんだけど」
気が早い、とはもはや言う必要もなくなっていた。同時に、こいつが俺の就職活動休止に何も言わなかった理由も腑に落ちる。
俺が見限られる言質を取ることばかり考えている間に、こいつはどこまで考えていたのだろうか。
主夫なんて考えてもみなかったし、こいつがそれでいいにしても、俺は自分の生活費ぐらいは稼いでおきたかった。
「金銭面だって、頼りにはしたいが甘えるわけにもいかないからな。最低限、2人分の食費と保険料と遊興費ぐらいは稼がないと俺の立場がない」
家事と言われたので譲歩してはみせたが、プライド云々はさておき、印税なんていつ途切れるかわからない以上あまりあてにもできない。それは彼女も織り込み済みのようで、やけに嬉しそうに食器を流しに運んでいく。
「じゃあ、今後の課題だね。できればパートとか在宅とか、残業無しのところだとありがたいけど」
「俺の無駄に取った資格が活きる仕事があればな」
俺も自分の使った食器を下げていく。就職活動したくねぇなぁ、というぼやきが伝わってしまったらしく、こいつは無言で俺の背中を優しく、ぽんぽんと叩き、反対の手で親指を立てて見せた。
「努力まで卑下しなくていいんだよ」
「……そうだな」
「ん。ネガティブに考えるとコンコルド効果だけど、ポジティブに考えると継続は力なりだからね」
「何に対する励ましなんだよ……うまいこと言おうとしてネガティブな言い換え挟んでるせいで論点わかりづらいぞ」
「えーそうかなー」
「わかるけど直感的ではないだろ……」
せっかくのいい励ましがうやむやになってしまったが、これもこいつにとっては計算のうちなのかもしれなかった。
何にせよ、いつまでも学生気分を引きずってはいられない。
スポンジを取られてしまったので、洗い物を任せて卓袱台を脇に寄せ、ベッドにもたれかかる。
ぼんやりと心を落ち着けていると、流しの方から水音と共に声が飛んでくる。
「今更だけどさ。卒業旅行のリベンジ、どこ行きたいか考えておいてね」
「行きたいところはいくつかあるけど、俺はそんなに金ないんだよ」
「ふ~ん。ちなみにどこ?」
「ルーブルと大英」
「おお~。パリとロンドンかぁ。どっちも数日がかりでじっくり見てみたいよね。パスポートの用意と予約しなきゃね」
「だからその辺も含めて、当分先だな」
「あんまり延ばすのはちょっとね……。国内ならどこ?」
「科博……は記念に行くには記憶に新しいしな……。雪の時期に銀山はどうだ」
「あ~、温泉ね。夜景がすごく綺麗なんだよね、あそこ。写真でしか見たことないから私も行ってみたい」
「まぁそれも冬だからかなり先にはなるんだが」
「そうだね……。そっちは予算とか予約待ちとか考えるといいタイミングかも」
「俺の希望はともかく、そっちは元々どこに行きたかったんだよ」
「願望だけで言うと自然遺産巡りかな。願望だけで言うと」
「おぉ……! スケールがでかいな」
「いいでしょー。……まぁお仕事優先なんだけど」
「待たれてるうちが花だからな。そりゃそうだ」
話している間に洗い終わったらしく、彼女は手を拭きながら決意表明する。
「うん。ちゃんとファンの期待には応えるよ」
「えらい」
「えらいでしょ。崇め奉っていいよ」
「なむ」
彼女の筆の速さが蘇ることを俺は心から祈った。
それから着替えやら天気予報の確認やらトイレやら姿見確認やらを済ませ、玄関で合流する。
手ぶらのこいつに忘れ物はないか問うと、ない、と返ってくる。そう言い張ってはいるが、さっきこいつが俺の枕の下に、昨夜買った小さな箱を隠したのを、ちゃんと知っている。大方、勢いで色々言って恥ずかしくなって、買ったことを意識したくないから持っててくれとか後で言い出す算段なのだろう。俺はそこまでわかった上で、気付かないふりをすることにした。どの道こいつが今書いているシリーズの完結が見えるまで、封を切る機会はないだろうから。
「それじゃあ行くか」
「行こう行こーう、れっつごー」
やけにテンションの高いこいつは紺の落ち着いたミュールを履き、俺は紺のウォーキングシューズを引っ張り出した。
そういえば今年は、こいつの誕生日をまだ2人で祝っていなかった。詫びの品も兼ねて、何か小物でも買って渡すか、と思いつく。多分それで、俺も少しは引きずらなくなるだろう。
傾向で言えば、シュシュやリボンのような、身に着けられる輪っかが好きそうな気がした。ヘアアクセは既にあって、イヤリングやネックレスは実家に腐るほどあると言っていた。手首に着けるようなものは袖で隠れる上に、材質次第ではキーを打つ邪魔になるだろう。何ならいいかわからないが、予算を相談しながら本人にサイズやデザインを選んでもらえば間違いはないだろう。
手と指に向かっていた視線に気づいたらしく、彼女は俺の名前を呼びかけ、履き終えた俺にその手を差し出してくる。
「泊めてくれてありがとね」
俺はその手を握り、立ち上がって今度はこちらから指を絡める。彼女が笑顔で目を丸くするのを見て、自分でも驚くほど素直に笑えた。
「こちらこそ、来てくれてありがとな」




