前編
「ありがとうございました-またお越しくださいませー。お次のお客様こちらのレジへどうぞー」
カウンターの向こうにたたずむ若い女性をご案内すると、彼女は後ろの年配の男性に順番を譲った。彼のたばこを捌き終えると、先ほどの女性は飲料コーナーを見ていた。混雑のピークは落ち着いて、客はもう彼女1人だけになった。
カウンターのこちら側で、隣にいた大学生の女子が俺に寄ってきて、飲料コーナーの女性を目で示す。
「あそこのお客さんすっごい美人」
言われて改めて注目する。まだ夏の熱気も抜けきらない夜らしく、ペールトーンのシアーなラベンダーカラーの長袖トップスに、ネイビーの軽やかなロングスカートを合わせたコーディネートに身を包んだあちらのお客様は、艶のあるダークブラウンのロングヘアのインパクトと相まって、微かに見える横顔からでも確かに、人目を引く目鼻立ちをしているように見えた。
「……あぁ」
天然水のボトルを一本取ってこちらに顔を向けた彼女から視線を離せないまま、俺は生返事をする。綺麗な人というのはどうしてああ、視線を集める引力があるのだろう。まるでどこかで会ったことでもあるような──彼女がカウンターに近づく。隣の女子大生が俺の代わりに接客の体制を整える。
「いらっしゃいませー」
「こんにちはっ」
天然水のお客様は、俺の方へ来てそう挨拶してきた。
「…………いらっしゃいませ」
声が妙な抑揚になる俺に、ふふふ、と彼女は含み笑いをして、真正面から目を見て微笑む。
「ちょっとお聞きしたいんですけど、今日のシフトは何時上がりですか?」
俺が彼女を見つめて呆けていると、女子大生が横から口を挟む。
「……すみませぇん、お客様、店員とのそういった個人的なやりとりはご遠慮させていただいております」
その声はただの事務的な厄介払いの対応とは別の、警戒と嫉妬か何かを取り繕うような雰囲気があった。お客様は笑顔でそちらに体を向け、ごめんなさいと一言詫びる。そしてまたすぐに俺に向き直った。
「じゃあ、一つだけ、今晩泊めてもらうことってできますか? それ次第で、今何を買うか決めるので」
「……は?」
女子大生が店員らしからぬ声を上げる。俺は思わず口走る。
「いや、『は』は俺の台詞なんだが」
「お願いっ」
お客様は、天然水のボトルのキャップを右手の薬指と小指で引っ掛けるように挟んだまま、両手を合わせる。その仕草にふと無数の記憶の残滓が重なり、お客様からますます目が離せなくなる。隣で女子大生が驚きと焦りの混じった声で困惑を示す。
「…………え、センパイ?」
余計な誤解を招かぬよう、俺は端的に話す。
「大学の同期だよ…………。ちょうどあと10分で上がれる。泊めるのはいいが…………何も出せないぞ」
俺の気安い口ぶりに目を疑うような視線を隣から感じていると、カウンターの向こうでお客様は笑顔になる。
「ありがとう、よかった…………あ、こっちでいろいろ買ってくから、お構いなく」
「着の身着のままじゃそりゃ困る」
俺が軽口を叩くと、彼女はひらひらと空いた手を振った。
「それじゃ、また後で」
そう言ってレジ横からバスケットを出して提げ、肌着類のコーナーへ向かう。
彼女が品定めをしている最中、カウンターのこちら側で女子大生が探るような視線を向けてくる。
「随分と簡単に言いなりになるじゃないですか」
「言いなりってなんだよ。唯々諾々と言え」
「ダサッ」
俺は店員にあるまじき暴言を無視した。この子は今日、シフト編成の都合でこれから30分ほどワンオペになると言っていた。大方、この前のように暇潰しに俺を居座らせようとしていたのがご破算になって、気が立っているのだろう。相手してやれなくて悪いな、とこちらからわざわざ言うほど慕われてはいないので何も言わなかった。現に向こうも、わざわざそのことには触れなかった。所詮は暇潰しで、どうせこの時間はもうあまり人は来ない。
お客様は手首の内側に何度も目をやりながら、衛生用品コーナーを物色している。
「10分ずっといるつもりなんですかね。まーヒマだし邪魔にならなきゃいいんですけど……うわ」
隣で女子大生が呟く。その視線を辿り、俺は言葉を失う。避妊具コーナーの前でいくつかパッケージを手に取り、何やら表示を見比べているようだった。
「センパイ彼女いないって言ってませんでしたっけ。だからってこれは……不潔」
「セクハラやめろ」
横から話しかけられて俺は、あいつあんなもんに興味あったのか、という独り言を呑み込む。俺とあいつはそういう仲ではなかったし、あいつは誰ともそういう仲にならない言い訳に俺を使っていた。今更俺相手にあんなもんを使う理由があるとも思えなかったので、見栄だな、と結論づける。多分いたのが俺一人なら、わざわざ買わなかっただろう。
何しろ俺は、あいつに振られているのだから、
そんなことをぼやぼやと考えるほどには暇で、あいつはずっとあそこに屈み込んでいた。
「ていうか悩み過ぎじゃないですか? いや、買ったことないんでわかんないんですけど」
俺もねぇよ、と言い返しかけて、今後いじり倒されるのも御免なので無難に応じることにした。
「シンプルとかジェル付きとか女性人気とか、色々あったしな」
「よく覚えてますね。きも」
「そっちがあの辺の商品整理さぼるからだろ」
「…………ほんとにただの同期なんですか?」
お客様に聞こえないように声のボリュームを絞ったそれは、やけに切実な声だった。
「だって、久々に会った友達が一晩泊めてって言ってきてああいうの選んでたら、驚きません? 元々ああなんですか?」
ただ茶化すのとは何か違うトーンの声を聞くともなく聞いてはいたものの、俺はその手の話題を誰かと語り合う気にはなれなかった。恋愛だの性愛だのの話に持っていきたいのだろうが、そういうものはパターンはあっても決定的な“普通”が存在しない。個人差の問題が大きすぎる以上、結局は人間性と価値観の開示にしかならない。そして、人は得てして自分の歩んできた人生を否定できない。自己正当化せずにいられないなら、それは喧嘩の元だ。
俺は過去も今も否定せずに済むよう、一般論でお茶を濁す。
「……コンビニの時間潰しで人格をどうこうってのもな」
「の割にはさっき一瞬、あんなの買う子じゃなかったのに、みたいなカオしてませんでした?」
今度は一転して俺を弄ぶような、余裕綽々の声になる。否定しても無駄らしいので、適当に流すことにした。
「…………半年もあれば人なんて変わるだろ」
「半年ぶりなんだ…………。誰に変えられちゃったんでしょうねぇ」
その口ぶりは、想像しろ、と言外に押しつけがましかった。
ふと、まったく関係のない、高校の文芸部での出来事を思い出す。ドロドロ恋愛小説を書いていた女子が、同じような台詞を書いたことがあった。
あれは、休み明けにイメチェンした恋敵を見たヒロインが、本命の男子に向かって、あの子クリスマスパーティー抜け出して誰と会ってたんだろうね、だの、強烈な体験をすると人は自分をごまかすために、普段しないことしがちって言うよね、例えばイメチェンとか、だの、嫌な想像を煽る言葉を並べていた。先越されちゃったねぇ、だの、相当楽しんだんだろうね、だの、あくまで台詞でも地の文でも何をとは言わないまま伝えきる言葉選びに感心しながら、このキャラはこんなに陰湿だっただろうかと疑問を抱いたのをよく覚えている。
俺は、楽しみに読んでいたあの小説のその台詞の数々を読んで不快感を覚え、結末が不愉快で作者にキレた。なんで知りもせずに恋敵を貶めたんだよ、結果的に合ってたら何だってんだよ、なんでそんな奴が反省もなく幸せになるんだよ、と憤り、作者は泣いた。それ以来、女所帯でそれなりに上手く楽しくやっていたつもりだった俺は、文芸部に居場所を失った。
物思いにふけっている俺の沈黙をどう受け取ったのか、隣の女子大生は意地の悪い笑みを浮かべた。
「あれだけ美人なひとがカレシいないわけないですもんね。さぞお金持ちのイケメンなんでしょうねぇ」
ニタニタと、俺の反応を窺う眼差しを感じる。俺は不機嫌の表明として口を閉じていたが、どうやら効いていると思われたらしかった。
「あーでも、センパイ相手にそういうことするってことは、カレシはいなくて一人にこだわらないタイプなんですかね」
「お前もう黙れよ」
俺は短く制した。放っておけばどこまでも悪し様に言うつもりだったのだろうか。女子大生は俺の反応に虚を突かれたような眼をした。
「……怒りました?」
「怒ってはいない。今度からお前のいない時間にシフトずらしてもらうだけだ」
「はぁ!?」
大声が店内に響く。お客様がこちらを見て呆然としている。俺は気にするなと顔の横で手を振った。
お客様の不安げな視線がこちらから離れると、隣の女子大生は改めて詰め寄ってくる。
「ちょっとからかったぐらいで大人げなくないですか」
言い過ぎたとも思っていないらしい。やはりこいつにも、言葉は通らないのだろうか。
「単純に人として失礼なんだよお前。俺の知り合いなら何言ってもいいとでも思ってんのか?」
あるいは、美人と見ればすぐ整形だの遊んでそうだのと偏見を垂れ流すことにためらいがないのか。この手の女子にこういう説教しても意味ないんだよな、と思いながら、俺は呆れを抑えて言った。この子を文芸部のあいつの同類扱いしたくなってしまうのは、俺自身の偏見だろう。
女子大生は泣かなかった。そっちが勝手に誤解しただけ、とも言わなかった。ただ、言い返そうとしたような表情を一瞬だけ見せて、口を閉ざして数歩離れた。それでいい、と俺は思った。
それにしても実際、そんな理由でシフト変更が通るだろうか。喧嘩を売られたから捨て値で買ったが、そこまで我を通すつもりはない。嫌なやつから距離を置き続けても、出来上がるのは引きこもりだけだ。なので一応、買った喧嘩を処分することにした。
「怒ってはいない。本当だ。シフトに関してどうせ権限もないし、そっちがこの件に関して二度と蒸し返さないでくれればそれでいい」
俺が絶交宣言を翻すガキみたいな譲歩をすると、女子大生は悄然として店内に体を向け、横顔のまま呟いた。
「すみませんでした。言い過ぎました」
「本当にそう思ってくれてると、許しやすくていいんだけどな」
女子大生は今度こそ言葉を詰まらせ、視線を落として口を閉じた。目元を拭い始めたのを見るとさすがに、こちらの方こそ言い過ぎただろうか、と思ってしまう。過ちを指摘するときは誰しも尊大になってしまいがちだ、と本で読んだ覚えがある。だが、俺をナメているせいで調子に乗ったなら、ここで謝るのはまた調子に乗らせるだけにも感じた。とりあえず、他のバイトの女子から評判が下がるかどうかで、その辺りを見極めさせてもらうとしよう。
店員同士の気詰まりな沈黙を見せられながら、お客様は天然水と簡単な夜食、肌着と歯磨きセット、浴用セットとジェル付き避妊具をレジまで持ってきた。俺が打っている最中、小声で聞かれた。
「仲直りした方がいいんじゃない?」
「気にすんな。年上面して説教して嫌われただけだ」
「嫌ってはない!」
横から大きな声が割って入ってきた。とっさに視線が集まり、お会計が止まる。
女子大生は、自分の口をついた言葉に驚いて焦っているように口元を抑えた。顔をうっすら赤らめているようにも見えたのは、怒りで興奮しているせいなのだろう。
「ただ……いきなりうちのいない時間にシフトずらすとかいきなり言うから…………」
女子大生の弁明を聞いたお客様は、納得したように目を細めてこちらを見た。
「キミがそこまで言うってことは、私のために怒ってくれたのかな」
鋭いのか自分を共通の敵にして和解させたいのか、突っ込み待ちのような気軽な口調で言う。だがあまり褒められたことではない。
「そうやってわざわざ言い当てるのも失礼だぞ。俺はともかくこの子は初対面だろ」
俺が注意することも掌の上なのだろう。お客様は神妙な表情で女子大生に頭を下げた。
「そうだね。初対面なのに、決めつけてしまってごめんなさい」
「う……あ……」
女子大生は動揺してうめき声をあげる。自分が初対面なのに決めつけてけなした目の前の女性は、自分と違ってあっさり非礼を詫びている。その対比はさすがに効いたらしく、お客様が頭を上げると、今度は女子大生が謝罪する番だった。
「こ、こちらこそ、大変失礼いたしました。誠に申し訳ございませんでした」
女子大生が深々と頭を下げると、お客様は寂しそうに微笑んだ。どうせここまで織り込み済みのパフォーマンスなのだろうが、意地が悪いとは思わなかった。お客様は、結局いつもこうだねとでも言いたげな苦笑を一度俺に向け、女子大生に頭を上げるように促す。そして、改めて視線をこちらに向けた。
「でも、よかった。キミがどっちも注意してくれて」
お客様は、俺に向かって人を惹きつける笑みを浮かべる。
「変わってないね、そういうとこ」
俺はしばし見惚れ、返事をできなかった。
「そういうところが好きなんだよね、昔から」
その言い添えた口ぶりから、これは見栄か本音か、と判断を保留する。嫉妬や反感で気軽に陰口を叩かれることも珍しくないこいつは、妙な立ち回りで自分の器を見せつけることがしばしばあった。俺が贔屓で怒ったわけではないとフォローまでしてくださる、実にスマートな盤面のコントロールだ。最後の一言は、俺への和解のアピールなのか、あるいは。
お会計が終わり、お客様が袋を受け取る。こいつの処世術をどう受け取ったのか、女子大生は沈んだ表情を浮かべていた。俺は責番を抜いて女子大生に一言、お疲れ、と静かに呟いて裏に戻った。
制服を脱いでハンガーにかけるまでの短い間、2人の声は聞こえなかった。俺が店員から個人になって売り場に出ると、女子大生と見つめ合っていたお客様はこちらに笑顔を向けた。その一連の動作に、変わってないな、と言いかけてやめた。彼女は出口に顔を向ける。
「それじゃあ、行こう」
「おう」
振り返らない彼女に俺は頷く。
並んで店を出るまで、女子大生は、何も言わずに俺たちを目で追っていたのが夜のガラスの反射で見えた。今日くらい一人にしてもバチは当たらないはずだ。謝らざるを得ない状況にされたと恨み言を吐かれても癪だし、反省しているなら気を静める時間が欲しいだろう。どうせもう、暇になるだけの時間だ。
残念だ、と思ったのは、あの子個人に対してではなく、そこから連想した高校時代の思い出に対してだった。
俺は、俺には書けない恋の駆け引きの物語の行く末を本当に楽しみにしていた。だからあの場面でヒロインが、思わせぶりな恋敵を印象操作で本命の男子から遠ざけたことに、そしてそれを見る目があったかのように書いて俺の感想を待っていたあの作者に、急に裏切られたように感じたのだった──こんな惨めな恋の実り方があるかよ、と。
駆け引きの決め手は自分の魅力を伝えることでも相手の心を掴むことでもなく、ライバルの悪印象を植え付けること。俺はそれが心底がっかりだったし、原因が作劇能力の未熟さか作者の倫理観か単なる嗜好かさえ知りたくなかった。それでも、一言向こうから、そういうジャンルだとかそういう結ばれ方を書きたかったと言い返されていれば、余計な口出しして悪かったと謝るつもりはあった。不倫ドラマや不良漫画のような主役の非道徳を愉しむ作風自体はいくらでもあるし、一々苦情を言うほど頑迷ではないつもりだったが、急にそちらに方針転換して開き直ったように思えたのが腹立たしかったのだ。誰とくっつこうが、過程さえ納得できるならそれでよかったのに。
結局向こうはどう誤解だったか説明しなかった以上、考えても仕方ない話ではある。いずれにせよ、誰かの落ち度でヒロインの勝利が舗装された消去法の恋を、自信満々に描いていたあの作者にとって、俺のスタンスは、全否定に等しかった。俺は自分がそれ以降文芸部で受けた扱いを不当だとは思わないが、泣けば正当化される彼女たちのルールは気に食わなかった。作品への文句を作者への人格攻撃、ひいては女への攻撃と論理をすり替え、それに誰も疑義を挟まず俺を非難するなら、それこそ女を攻撃する口実を自ら与えただけだ。
そんな俺の嘆きと憤りを、あの女子大生が知る由もないし、あえて伝える義理もない。実際、現実なんてそんなものだというのは真理なのかもしれない。俺がただの節穴でない証拠はどこにもない。全部作者の勝手で、創作に善悪や正誤を見出だすなと言われればそれまでだ。
ただ一つ確かなのは、俺が高校時代に途中まで楽しんでいたあの作品を、今はもう読み返したくもないということだった。
ただただ俺は、残念だ、と思っていた。
コンビニを出ると元お客様は、俺の借りている部屋のある方へ迷わず歩き出す。大学時代から俺の行動パターンが変わっていないことを、すっかり読まれてしまっているらしい。俺も強いて言及せず、数歩の遅れを大股で取り戻し始める。
2人の間に横たわる沈黙を先に埋めたのは、向こうだった。
「元気そうで安心したかも」
半年前と何一つ変わっていない、気安く温かい調子だった。
「そりゃあ健康そのものだが……かもって何だよ」
「生存報告はこまめに欲しかった、かも」
軽い口調に反して、視線はじっとりと重く俺に絡みついてくる。以前俺の入院中に連絡を完全遮断したことを根に持っているのだろう。
「…………そうだな」
「心配で心配で、毎晩一人で枕を濡らして、さみしかった、って言ったら、信じてくれる?」
よよよ、と呟く声に苦笑し、俺もつられて、気が緩み始める。
「気ぃ遣ったつもりだったんだけどな。そっちだって忙しいだろうし」
「…………まぁね」
含みのある声だった。隠し事はあっても裏はないその反応に、申し訳なくなる。
「俺の方は労働三昧だよ」
「夜に働くの好きだよねー」
「深夜料金はデカいからな。まぁ最近は現役の大学生に譲ることが増えて」
「世代交代だねー」
あえて間延びしたその言い方は、いかにも俺の警戒と緊張を解くための誘いだとわかっていた。あえて雑談にまで気を張る意味もなく、俺は気遣いに甘える。
「店長からも、ベテランがピークタイムにいると助かるけど、固定で働かないのかってせっつかれた」
「夜に働くとモテなくなるって前に言われてたの気にしてる?」
何の気無しの質問だったその一言は、とっさに自分で聞いたはずの彼女の柔和な笑みを曇らせる。
「あ……その、ううん。なんだろう」
露骨に視線を逸らしたこいつの横顔を目で追いかけて、俺は自己嫌悪に陥る。
「……そういうのじゃねえよ」
端的に否定し、話を逸らす。
「そっちはどうなんだよ。新作の一冊ぐらい書けた頃か」
こいつは顔も逸らし、俯き目を伏せる。また、沈黙が訪れる。俺がいなくても平気だと言われなかったことを、安堵するべきか憂慮するべきか、自分でもわからなかった。
俺たちを分かった半年間は、互いをまだそこまで引き離してはいないらしい。
彼女は俺が出会った頃には既にプロだった。情熱的な少年と無感動な美女の二人旅シリーズは映画にもなった大ヒット作だったし、別の短編やノンシリーズでもどれも一定の評価を得ていた。人を愛せない美女とそれに寄り添う何か、というモチーフを繰り返し描いていて、その透徹した目線と文体は彼女のペンネームで呼ばれていた。
俺が彼女とその作家が同一人物と知ったのは、文芸サークルで話をするようになってからずいぶん後のことだった。俺はこいつをただ、たまたま学科とサークルが一緒になっただけの、舞台好きのモテる文章家だと思っていたし、本人から作家業だと名乗られたことはなかった。俺がその手の話をしたのも確認するときの一度きりで、詳しいことは何も聞かなかった。担当編集さんに言われたように、俺も気鋭の覆面作家の繊細さという魅力を揺るがす真似はしたくなかったし、自分から言わなかったなら問い詰めたくはなかったからだった。
こいつの書く美女はどれも個性的で、明るいお人よしもいれば人嫌いの魔女もいて、人体実験を繰り返す科学者もいたし政略結婚した姫様もいた。自分の内面を思い悩む以外に共通点はないぐらいで、その全員をモノローグの文体ごと描き分け切れるこいつ自身は、普通だった。
人に溶け込み誰かの面倒を見ていたら、自分が変だと気付かれることはない。こいつはそう言っていた。そして、1人でいても人といても苦にしないこいつにとって、面倒を見るべき変な奴は、いつも俺だった。
俺はこいつに振り回されて舞台や映画、博物館に美術館、時には日帰り旅行にも行ったし、古本屋巡りや資料集めにもしばしば奔走したが、噂になることはなかった。俺たちは恋人ではなかったし、彼女はそれを隠してはいなかった。ただ気軽に互いを泊めたり泊まったりできる仲と公言し、甘い空気や強烈な引力もないまま、安心して長い時間を共に過ごしていた。俺は読書感想文だけが取り柄の学生だったので、こいつの男除けとしてはあまりに弱々しく、世話焼き気質をただ際立たせる引き立て役か便利屋として見られていた。こいつは俺のことを周りに、着眼点が面白いと評していたが、それに同意する人はいなかった。
こいつがいい意味で普通なら、俺は悪い意味で没個性だった。だから気が合うのだろうとゼミの後輩に言われたとき、こいつは笑っていた。
卒業の日にこいつに振られたことは、誰にも広まらなかった。そのことで俺を馬鹿にするやつはいなかったし、慰めるやつもいなかった。俺が学業やファッションでどれだけこいつに世話になったか、俺が日頃何を好み考えたか、触れ回ろうと思えばいくらでもできただろうに、こいつはただ黙っていた。
俺たちはかつて毎日のように顔を突き合わせ毎月のように出かけ、共にいて飽きることはなかった。締め切り前には泊まり込みで家事手伝いもして、何かなくとも毎週互いの部屋で鍋や炒め物をつついていたが、それもぱったりと止んだ。
もう、半年が経つ。まだ、半年というべきか。
人が変わるには十分すぎる出会いと解放の季節を隔ててなお、それぞれに大きな変化はないらしい、それがどの程度喜ばしいことか俺には何とも言えず、話はどこまでも逸れてゆく。
「そういや明日の朝飯帰りに買うんだった。……今から戻りたくねえな」
俺が愚痴ると、糸口を手繰り寄せるように会話は再開される。
「スーパー閉まってるもんね。私も、ごめん、今から軽く食べる分しか……」
「まぁいいさ。スパキャベ炒めとインスタントスープくらい出せる」
「私、何時頃退散したらいいかな」
「急ぎでなきゃ朝食ってからでいい。具は足りる」
「ごめんね押しかけて。気の利いた朝ご飯作れたらいいんだけど」
「そうやって張り切って買い置き使い尽くされちゃ困る」
「あったね。あの時は食べきれてよかった」
途中で微笑みを浮かべた美女は、顔を上げて空を見遣る。つられて俺も見上げると、南南西の空に夏の大三角が目に入った。東の空にはもうオリオン座が上ろうとしている。こいつは儚げに笑った。
「あれからまだ一年も経ってないんだね」
「もう半年は過ぎたけどな」
「そうだね。またそろそろ、白の秋と玄の冬になる」
青春も朱夏も過ぎたなら、収穫と眠りの季節が訪れる。俺が昔サークルで書いた短編を、まだ覚えていたらしい。俺は目を伏せた。
「俺の人生はまだ梅雨くらいだといいんだけどな」
「しゃっきりしなって」
背中を叩かれた。驚いて背を反らしてしまうが、この感触も、今は懐かしく心地良い。美女の笑顔は、花が開くようだった。
「確かに人生のゴールデンウイークはとっくだけどさ。折り返し過ぎるほど老いちゃだめでしょ?」
「…………ああ」
元気づけられてしまった自分に呆れながら、俺はこの不用意な再会をありがたいと思った。いい加減、独りで立ち直らなきゃいけないとわかっていながら。
俺が言葉を探して無言になったのを気にしてか、また話題が変わる。
「そういえば、サークルのみんなと連絡取ってる?」
「いや……会長以外とそんなに交流なかったしな。あいつらだいたいお前目当てで、活動も…………」
俺はまた余計なことを口走り、言葉を切る。自分の表情が強張っていくのがわかった。少し目を離すと男が寄ってくるこいつは、親しい女友達を作るのに難儀していた。だから俺を盾にしたのに、と四年前と半年前の記憶が同時に蘇り、自省と自責の念に襲われた。
「……女子とはあまり関わりたくなかったしな」
間の抜けた強がりでお茶を濁すと、彼女は不出来な生徒を見つめる教師のように優しい表情を見せた。
「そっかぁ。私と一緒かぁ」
わかりきっていたことを確かめるように呟いて、それからアパートまでの4分間、俺たちは無言で歩いた。
別に気まずさはもうない、というよりも、最大の難関はコンビニで言葉を交わした瞬間に超えてしまっていた。後はもう距離感の再調整で、俺の方は油断すると失言が続くと見越して、自分を抑えるためにも黙っていた。半歩遅れて歩くこいつもこいつで、特にもう一度口火を切りはしなかった。俺たちは元々、2人でいる時の無言を気まずく思ったことがないので、すぐに警戒も緊張も解けてしまい、あの頃と何も変わらないような気がした。
2人でアパートの階段を昇り始めると、下の階のドアが勢い良く開くのが聞こえた。振り向くと、大家さんが木刀とスマホを持って俺たちの様子を窺っていた。
なるほど、1人用アパートに無言で2人分の足音、しかも夜中。
俺は頭を掻き、首を下げて同伴者を手で示す。大家さんは途端に相好を崩した。
「あんたたち仲直りできたの。久しぶり、いらっしゃい」
「ご無沙汰してます、夜分失礼します」
「いいよ。ゆっくりしてきなさい」
「いや俺が住んでる部屋……まあ借りてる身だけど」
連れの控えめな一礼に満足したのか、大家さんは俺の背中をどついて笑顔で戻っていった。俺は眉をひそめたが、強いて抵抗はせずに部屋の鍵を取り出した。
大学時代、俺たちは互いの住処によく行き来していた。荷物持ちとして分厚い本や生鮮食品を抱えて、大学生女子1人に不相応な高層マンションの一室までお供したこともあれば、試験明けや締め切り明けにこいつが俺の部屋に転がり込んできて、2人して惰眠を貪ったこともあった。食材費は出すから何か作ってと帰りに呼ばれることは珍しくもなかったし、お腹が空いてつい来ちゃったと俺の部屋の前で手土産片手に言い放たれたこともあった。いつの間にかそれぞれの部屋に相手の箸やらタンブラーやらがあるのが当たり前になり、大きめに買ったはずの2人用の鍋やフライパンもすっかり物足りなくなって、さらに大きなものを使うことに慣れてしまっていた。
俺はいつも料理係で、こいつの好みの味付けをすっかり覚えてしまった。
そんなことを、コンビニおにぎりを頬張るこいつの姿を見て、思い出してしまう。
食後の一服を終えて湯呑みが空になり、こいつは大きく息をついた。
「私の湯呑み、まだ持ってたんだね」
「やるよ」
「持ってて」
距離感を測りかねて、今度は俺がため息をつく番だった。自分の家みたいにリラックスして、柔らかい表情浮かべやがって。
「…………いつもそんなメシなのか」
「実家」
どことなく優しい声だった。腹が膨れて満たされたのだろう、続く声は次第に元気になる。
「専属シェフ兼雑務くんがいないと好きなメニューも思い出せなくて」
「…………バランスよく食ってるなら何よりだ」
「食事はね」
静かで含みのある物言いだった。聞いてほしそうに俺を見てくる目を、見つめ返す。カラーコンタクトもつけまつげもない、ありのまま大きな黒目と長く反った睫毛。
いつの間にか見入ってしまったらしく、向こうが手で顔を覆った。
「まだ本調子じゃないから、そんなに見ないで」
柔らかで穏やかな声だった。俺は少し視線を外す。
「……体調崩したのか」
まぁ、半年もあれば一度くらいあるか、と思いながら尋ねると、首を横に振られた。
「…………病気でも見つかったのか」
まだ本調子じゃないという言い方は、すぐ見つかって治ったんだよな、と恐る恐る尋ねると、これも違うらしい。
「…………じゃあ」
俺の視線を受け止め、こいつは手を下ろして目を伏せ、恥ずかしそうに笑った。
「精神的にね」
俺たちは黙って、卓袱台を挟んで相対していた。向こうは不調についてもう語るつもりはないらしく、俺も強いて追及するつもりはなかった。今度は彼女が問う。
「キミの方は、ちょっとテキトーご飯寄りだね」
言われて俺も、卓袱台の上に視線が流れる。空の食器にさっきまで盛られていたのは、冷凍してあった白飯に朝の残りのハムエッグと豆腐の味噌汁、乾燥わかめのパックに出来合いのミックスサラダ、そしてプチトマト。
予定通りの献立、計画通りの食糧消費。
「男の1人暮らしでこれならまぁまぁマシな部類だろ」
「まぁ、グラノーラどーんとかオムライスどーんとかカルボナーラどーんとかよりは」
「時間と手間と金額と分量を考えると、その方が楽ではあるからな」
「栄養バランス優先でえらいと思う」
こいつは小学生を扱うような口調で俺を褒め、微笑をこちらに向けてくる。その眼には、労わりや懐かしみや哀愁が混じり合っているように思えた。
習慣で見つめ返してしまい、記憶と何か違うな、と無意識に照らし合わせてしまう。髪……? と、肌か? 記憶を美化してしまうほど時間が経っただろうか、と思った瞬間、先ほどのやりとりを思い出してまた目を逸らした。本調子じゃないと言うのに、俺は。
視界の端で、こいつが身を固くするのが見える。
「そういえばさ」
珍しく緊張した様子でこいつは、コンビニで買った商品を卓袱台に広げた。
「使い捨ての下着はあったけど、バスタオルなかったんだった」
「あるの適当に使ってくれ。ついでに置きっぱの春物の予備も回収してくれると助かる」
「ありがとう。もう秋だけどいっか。あと、歯磨き用のコップ」
「出しといたから使えよ」
「ありがとう。それと…………その」
口ごもったこいつは視線を落とした。その先にあったのは、さっきコンビニで選んでいた男性用避妊具──パッケージには『ジェル付き』と『0.02mm』の文字が強調されていた。
向こうの表情を窺うと、ちょうど目が合った。静電気のような何かを感じて目を逸らし、今目に映った緊張の表情を反芻する。俺は多分、間抜けで胡乱な顔をしていたと思う。
「どうしろってんだよ……」
俺はお前に振られただろという自戒と、ここでは見栄なんて張るなという慰労が同時にこぼれる。どちらにしても、期待なんかなかった。元々気の迷いだったのだ。
向こうは緊張をごまかすように、えへへ、と笑った。
「流れで使えよって言われたらどうしようかと思っちゃった」
「…………言わねぇよ」
吐き捨てるように口をついてしまう。別に、拗ねているわけでもないのに。
あいつは湯呑みを手に取って、両手で撫でさすり出す。沈黙はいつの間にか、安心感に変わっていく。俺はこの居心地の良さに甘え過ぎてしまっていた、と反省していると、独り言のような声が投げかけられた。
「この湯呑み、使ってなかったでしょ」
「…………だから洗って拭いて出しただろ」
「そうじゃなくてさ」
独り言はいつの間にか、対話に変わっていく。
「なんで捨ててなかったの?」
さっきの物言いもそうだったが、こいつの中では俺がとっくに捨てた前提らしかった。そりゃ、あれからメッセージに何の返信もなければ、遠回しな絶縁通告だと思ってもおかしくはない。
俺は、大学卒業のあの頃、自分がわからなくなっていた。将来も恩も命も友情も愛情も、一度そこから離れて自分を冷静に俯瞰したかった。だから、積極的に捨てるつもりなんかさらさらなかった。……ただ、こいつが自分の人生を歩み出して俺を過去にする日を、遠くで見守ろうとしていただけで。
「…………思い出になるのを待ってたんだよ」
本音が引きずり出されるのが、苦ではなかった。俺は自分から捨てるほど、覚悟はなかった。……いや、夏に入って歯ブラシだけは衛生的に気になって処分させてもらったが、その他は全部、汚れないように大きな袋に入れて、ずっと置いてある。
こいつはなぜか、微笑を浮かべた。
「じゃあまだ私は、過去の女じゃないんだ」
「……残酷だぞ」
俺は非難めいた視線を返し、結局何を言っても負け惜しみだと気付いて口を閉じる。流石に専業作家に言葉では敵わない。ついでに目を伏せた俺をどう受け取ったのか、こいつは流れに不似合いな明るい声を出した。
「また2人でどこかに行かない?」
「…………出し抜けに何を」
「私やっと出歩けるようになったからさ」
その口ぶりからは、カンヅメ明けの作家が羽を伸ばしたがっているのか、病み上がりの女が快気祝いをねだっているのか、判断がつかなかった。そして、言葉の裏を読ませたがる時のこいつの目線の癖を、思い出す。
俺に充分理解と想像の時間を与えた後、その事実を改めて染み込ませるようにこいつは呟く。
「一番先に会いたかったの」
照れてはいなかった。切実さをはっきり訴えられて、俺は黙りこくる。
…………なんだよ、今更。
俺は拗ねているわけではなかった。嫌だとも思わなかった。ただ、踏み込まれることを拒んだこいつが、今になってこうして言い出した理由が思い当たらなかった。
元の関係に戻れないことくらい、わからないはずがないだろうに。
俺はさらに考えを巡らせる。
まだ本調子じゃない。精神的に。やっと出歩けるようになった。こいつの発言をまとめると、そういうことになる。こうも言っていた。食事は実家。メニューは思い出せない。
…………まずいことを言っただろうか。
「……親御さん、何かあったのか」
「えっ!?」
深刻な問いは素っ頓狂な反応で打ち消された。彼女は慌てて口を押えて辺りを見回す。
「ごめん夜中に、大きな声出して」
「多少防音はしてるとはいえ……そっちのマンションじゃないんだし気を付けてくれよな」
「うん……。それで、実家は何ともないよ。安心安泰」
「そりゃ何よりだ」
ため息をつく俺を、こいつは上目遣いで見つめる。
「……もう聞かないの?」
「答えねぇだろ」
「聞いてもらえないからね。聞いてくれたら口を滑らせるかも」
彼女は珍しく、甘えるように笑った。俺は黙って、その笑顔に見惚れていた。
俺たちの出会いに、ドラマティックなところは何一つなかった。
同じ学科でサークルが一緒になり、ただ疎遠な知り合いとしてしばらく過ごした。向こうは顔立ちも人当たりもよく、常に人に囲まれていて、俺はいつも視界の片隅のその光景を特にどうとも感じていなかった。面識はあったはずだが、彼女の方で俺を個人として認識する機会はなかったと思う。仮にあったとすれば、たまに顔を出すサークルの集まりの時くらいだっただろう。
俺は彼女が最初に書いてきた掌編を読んで、当たり障りのない題材を読ませる丁寧な文章と魅力的な人物描写に感嘆した。言葉選びの一つ一つが読者の意識を誘導する、極めて精緻で磨き抜かれた表現力に、こんな逸材が在野にいたものかと世界の広さに脱帽したものだ。だがそれはそれとして、過去の苦い経験から、感想を本人に直接語ろうとお近づきになるのは避け、ただ独りで読み返して、技術やセンスの分析と言語化を続けていた。
ちょうど今頃の季節、サークルの飲み会で男に囲まれていた彼女をよそに、俺は会長と文体の書き分けについて議論していた。俺は「日本語の一人称視点切り替え群像劇を英語に翻訳してから、元の日本語に適切に再翻訳するために何が必要か」という論題に夢中で、会長は大真面目に話に乗ってくれていた。その会長が途中で、酒を何度も勧められて断りづらそうにしている美人の後輩に気が付き、話は中断した。
他の男がアルハラは良くないと割って入っていたので俺はただ静観していたが、会長は、酒を勧める先輩には前科があるからとわざわざ席を交換し、飲まない人に飲ませるくらいなら自分に酒をくれ、ただし今手に持っている分は他人には飲ませず一人で処理するように、と言い出した。期せずして隣に来た彼女に、俺は一言簡単に同情心を示したが、意識は彼女の代わりにジョッキも杯も干していく会長のザルっぷりに向いていた。
彼女は、みんながはしゃいでる空気は好きだけど、私がいるとああいう雰囲気にならなくて残念、と呟いた。俺は大真面目に、会長を崇め奉れ、と応え、彼女は突拍子もなく大笑いした。その後あいつは普通に女子連中と話し始め、俺はうすぼんやりと辺りを見守っていた。酒を勧めていた先輩は、後輩に飲ませるはずだった分を自分で飲んだ後、暑い暑いと繰り返して上を脱いでいき、酔いを冷ましてくると言って外に出て数十分ほど戻ってこなかった。
その間、男が何人か入れ代わり立ち代わり、場所を代わってくれと俺に言ってきたが、その視線はいずれもちらちら隣の美女を見ていた。俺は枝豆を食ってる最中だから他の誰かに言ってくれとやり過ごし続け、何人目かを突っぱねた後、彼女が俺に小声で礼を言った。当時の俺は、酒を勧めた先輩の手口と食い逃げ疑惑の方が気になっていたので、会長に対してならともかく俺の何に対する礼なのか心当たりがなかった。よくわからないままスルーした俺は、続けて何か話しかけられそうな気配に先回りして、そんなことよりつまみを減らすの手伝ってくれ、多分このままだと残るぞ、と追加注文された刺身の盛り合わせやら鶏軟骨の梅水晶やらを指差した。彼女と話していた女子連中や酔いの浅い男連中も加わって、俺たちはしばらく飲み食いを優先し、酒飲み共のバカ騒ぎを眺めながらぽつぽつ話をした。周りが益体もないことを話す中、彼女は控えめに相槌を繰り返していて、俺は黙って耳を傾けていた。
お開きとなり、俺が二次会を断って立ち去ろうとすると、引っ張りだこになっていたあいつがみんなを振り切り、俺に送ってもらうと言い出した。会計後の清算に辛うじて間に合った酒の先輩は、彼女と会長に平謝りした。その彼女が会長に深々と頭を下げて礼を伝えるのを見届けて、俺は道すがら、会長としていた話の続きを彼女とひたすら言い合って、高層マンションの前で別れた。
それが、きっかけだった。
夜中のシャワーの水音に混じって、女の鼻歌らしき音が届く。
風呂場で熱唱しても大丈夫が大家さんの自慢だったのを思い出したのか、ご機嫌なメロディが部屋に流れ続けている。目を閉じてこの音に耳を傾けていると、意識が去年のあいつのマンションに引き戻される。よく、あの一室ではこの音が聞こえていた。
俺たちは互いの家に食料を手土産にして行き、昼飯やら夕飯やらをよく食った。午後からあいつにノートを借りて復習することもあれば、ぶらぶらとその辺を散歩したり、買い物の荷物係や、一緒に見た映画や舞台の感想戦をしたこともあった。夕飯を相手の家で食べた日にはほとんど決まって、そちらの家でシャワーを借りてそのまま寝た。俺たちの部屋には常に互いの着替えや寝袋があったし、自分の使わない歯ブラシやシャンプーを置いていた。それが世間一般に何を意味するかには興味がなかったし、関係ないと思っていた。
俺があいつに異性としての感情を抱かないことが、あいつにとっては必要だった。実際、その一点だけが俺たちの心を繋ぎ留め、また戒めていた。
互いの家に泊まることがどれだけ増えても、俺たちは友人として弁えるべき最低限の礼節と恥じらいは忘れることはなかった。入れ違いで風呂やシャワーを使う時は必ず脱衣かごの中身を別にしていたし、肌を晒した姿で出てくることはなかった。同じ布団で寝ることもなかったし、相手の家では座布団やマットを敷いて寝袋に入ることを苦痛に感じたこともなかった。締め切り前やあいつが体調不良の時には、食事係の他に簡単な看病や洗濯ごみ捨てその他雑用を俺が任されることも稀にあったが、日常的には相手に友人の程度の超えた甘えを抱かないことが俺たちの暗黙のルールだった。
俺たちは男と女ではあったが、性質としては親しい姉弟のような付き合いだった。俺は高校以来女の恋の情熱の気配を感じるたびに怯えていたし、あいつは自分に近づく男どもの下心を苦々しく思っていた。だからこそ俺たちは噛み合い、必要として求め合い、安心していたのだろう。
そして確かに、楽しんでいた。
俺が、ちっぽけなプライドのせいでぶち壊してしまった、あの安寧の時間を。
自己嫌悪と自蔑が憎悪に変わりかけたその時、鼻歌が止んでいることに気が付いた。いつの間にか厚手のタオルが立てるバタバタという音だけになっている。ミニドライヤーの音が数度勢いを変えて響いた後、リズミカルな歯ブラシの音がくぐもって聞こえてくる。
自分が台無しにしてしまったものに改めて思いを馳せていると、ユニットバスの戸が開いた。
「お先でしたーっ」
語尾に8分音符の記号でも付きそうなほど陽気な声で出てきた彼女は、俺のスカイブルーのブラウスの前をいくらか開けていた。
「……おう」
すぐに視線を外す。どういうつもりなのか、俺が貸すと言ったインナーを着ていないらしく、ブラウス1枚の下に女性的な膨らみや輪郭が強調されている。下半身はパレオのように乾いたタオルを腰に巻いていたが、ロングスカートに隠されていた部分が一気に室内照明に晒され、湯上がりの滑らかな肌がやけに目についた。
とっさに、やめてくれよ、と口走りそうになって自分を抑える。
一瞬ざわついた心は、記憶に沈んで虚無に呑まれる。本能に学習が勝り、自分への憎悪が理性を立て直す。
「…………じゃあ、俺も入ってくるわ」
「……うん」
彼女の声もつられて、ずいぶん落ち着きを取り戻した。
「ねぇ。やっぱり、下に何か着た方がいい、よね」
明らかに、最後の2音は俺の顔色を窺って付け足されていた。俺は平静に、彼女の緊張をほぐすように肩をすくめた。
「風邪引かないようにだけ気をつけろよな」
「ありがと」
強張った声が和らぐのを聞き届けて、俺も風呂場に向かった。
さすがに中では異変も違和感もなく、体を洗う間に久々に湯を張って、泡を流してゆったり浸かる。キャンピングマットと着る毛布寝袋は出しておいたし、炊飯器も仕掛けておいた。タイマーのセット時刻を聞いた時あいつは、2人とも休みなら夜更かしできちゃうね、と笑っていた。生活リズムを厳守していたかつての彼女を思い出し、何がどこまで本心なんだか、と考えずにいられなくなる。そして、俺が出るまでに寝てくれていればいいと安易に願いながら、直前に見たあいつの格好を思い返してしまう。
俺は正直なところ、あいつの身体的な側面に関してはあまり知らなかった。大きな怪我や病気の経験がないとかアレルギーがないとか寝つきや寝相がいいとか、外出時は夏でも長袖と日傘必須とか、その程度がせいぜいで、なんとなくスリムな気がするという印象以外はなかった。それさえ顔と腕が細いことから推論づけた程度のもので、家でも外でも体型の出ないゆったりした服を好んでいた彼女のボディスタイルは、気にしたこともなかった。それは、彼女の俺に対する配慮だったのだろうし、おかげさまで特に意識せずに済んでいた。
背中や腰の簡単なマッサージを頼まれて、服の上からやったことは何度かあったものの、凝ってるという印象が強すぎて色気のある雰囲気にはならなかった。今思えば、あいつはマッサージの最中に気持ちよくてよだれが垂れたと口走るほど素直で無防備だったし、俺は早く拭けと呆れてあしらうほど無反応で何も考えていなかった。きっとあれは、何の他意もないようにという、あいつの細心の注意と言葉選びの賜物だったのだろう。
彼女は、表情や声の雰囲気、視線の動きや仕草や所作、言外の意図など、些細な挙措動作で場を掌握するのが恐ろしく巧みで、日常的には奥ゆかしい意思表示を好んでいた。それが逆に、物分かりの悪い相手や押しつけがましい連中への気苦労に繋がることもあったが、たいていは美貌故の気品と人当たりの良さによって誰かしらに助けられ、あるいは意識的に周囲の目を惹きつけて助けたくなるように仕向け、切り抜けていた。そういった、コミュニケーションに関する天性の才覚が、小説における緻密な文章構成や巧妙な会話の組み立てに活かされている、と気付くのにそう時間はかからなかったし、それ故に映画化作品の原作者と知っても驚くにはあたらなかった。
それが今や、あの格好だ。しかも、あんなものを買った上で。
物書きや読み巧者は、高校の文芸部でもサークルでも、人物は台詞より行動に表れる、と口々に言っていた。あの恋愛小説の作者も、会長も、そしてあいつも。
言葉には常に真意があり、行動はそれを如実に物語る。話しかけてほしいから隣に座って黙る。口喧嘩を繰り返しながら楽しそうに笑う。言葉では謝りながら声で嘲笑う。暴力反対と泣きながら暴力を振るう。無論、現実には整合性など必要ないが、それでも指標としては充分有意だろう。
俺は、意識を逸らそうとさらに記憶を蘇らせる。
彼女に関して、俺は何を知っていると言えるか。
あいつは、大学構内で話す知人友人こそ多けれど、プライベートで他の女子と集まってどうこうとはあまり言わなかった。同じ舞台好きでも、脚本構成目当てと役者や芝居目当てとでは話の勘所が合わないらしかったし、SNSやグループチャットにも反応が薄い方だった。金はあるので俺のようにバイトする必要もなく、執筆活動にのめり込んでいる時が一番生き生きとしているやつだったし、長期休暇では実習や課題がなければひたすら引きこもって通販で済ませ、たまに次回作の打ち合わせで喫茶店に行ったり、俺のアパートに遊びに来て俺を買い物なり劇場なり美術館なりに連れ出すような生活だと苦笑していた。1人で出かける行動力は持ち合わせていても、サービスされやすいのもなかなか楽じゃないんだよ、と述懐していたので、開き直れない美人は得ばかりでもなかったのだろう。
俺も彼女も元々サークルに入り浸るタイプではなかったとはいえ、片や美貌でも文章でも雑談でも大歓迎される輪の中心の人気者、片やその美人になぜか目をかけられている片隅の面白みのないやつ、という扱いは引退まで変わらず、飲み会以外ではサークルで話らしい話をしたことはついぞなかった。
彼女はサークルや講義の時は女子グループに交ざりたがっていたが、どうしても男子が寄ってきて男女混合になると嘆いたり、周りの男子が自分たちに対して露骨に他の女子グループ相手と態度が違うことを気まずそうにしていた。俺はその辺りの女子同士の水面下の事情は知らなかったが、男除けがいるという評判を得てからの方が話せる女友達が増えた、とあいつは笑っていた。それらは後々、彼女の男除けとしての俺に話しかけてくる女子の台詞の端々から、窺い知ることができた。アイドルやオタクでもないのに恋人の影がない美人の人気者はヤバそうで近づけない、と言われるとわからなくもない話だが、モテすぎるから逆にうんざりして全部シャットアウトしちゃう、という本人の言葉もまた、ある種の真理に思えた。
お互い、同じ学科よりも違う学科の方に気性が近い友人が多いらしく、俺が女っ気のない男連中と鉱物の写真写りやレトロウイルスについて話している時、向こうが柔和で優しそうな女子グループとアニマルセラピーや童謡の地域性の話をしているのを見かけるようなことが、たびたびあった。そういう場合、多くはただの近い友人程度の距離感を保ち、その場では必要以上に親密さをアピールはしなかった。だがどちらかが異性と2人で話をしているような場合は、主に向こうが俺を呼んだり話に入ってきたりして、周囲に牽制していた。あいつは恋愛感情や下心に対して男連れアピールのためによく俺を利用したが、別に俺である必然性や妥当性はないように思えた。そして、多分こうして舞い上がらないからこそ都合がいいのだろうと思いつつ、すぐ傍で妖精がひらひらと舞う様に目を奪われていた。
あいつはよく公園を歩きたがり、季節の草花や道行く人々を眺めて楽しんでいた。大学の庭のベンチでぼーっとしたいけど独りだとすぐ声をかけられるから、と俺を同伴させたり、少し離れた市街地の図書館近くの公園をのんびり散歩し、遊んでいる子供たちやベビーカーを押す木陰の主婦たち、キャッチボールをする父子や兄弟、ペット連れや年配の夫婦、若いカップルなど、その土地に生きる人たちの営為を観察し、桜や銀杏の樹を見上げ、花壇の紫陽花やパンジーの前でしゃがみ込んでいた。大人になってもこういうことを独りでしてると変な人だと思われちゃうから、と照れていたかと思えば、ませた女の子に声をかけられて恋愛相談に乗ったり、すれ違う赤子に手を振りペットに猫なで声で話しかけたりしていた。俺もそのお仲間として、恋愛相談に巻き込まれて男目線で意見を言ったり、転がってきたサッカーボールを蹴り返したり絆創膏をたかられたり腕相撲を挑まれて返り討ちにしたり、安全な人間の一員として扱われていくようになった。
彼女は他人の恋の悩みに対しては無難に応答していて、恋愛を厭う普段の姿とはまた違う趣きを漂わせていた。モテる女になりたいと意気込む中学生の女子には、姿勢と表情と心構え、と説いて解説しながら復唱させたり、恥ずかしくて話せないと口ごもる小学校低学年辺りの女子には、おはようとまたねからちょっとずつ挑戦していこう、と単純接触効果の紹介をしていた。高校生らしき女子から彼氏をベッドに連れ込む流れを聞かれた時には一瞬真顔になったが、そもそも相手がしたいと思ってるかきちんと確かめないとね、と前置きした上で、ヒントとか前振りを仕込んで相手をその気にさせてあげておいたらどうかな、と許容範囲の提示作戦を立案した。一週間後にその高校生から成功の報告を受け、表面上は祝福していたが、後で2人の時にため息をついて、簡単にさせちゃうと見くびられちゃう気がするんだけど、できないと捨てられたりしちゃうのかな、と夕日に呟いていた。そういう話よく聞くよね、と話を振られた俺は、男向けのラブコメはくっついたら完結するからその先は知らん、と正直に答え、後は男女の身体的役割分担によって規定されるエンタメのジェンダー論についてあーだこーだ分析し、その日は最終的に女がなぜ元カレの悪口を言いたがるか考察して解散した。
彼女は連れ立って歩く老夫婦を見ると、ちゃんとあのお歳まで仲良しってえらいよね、とたびたび感心していた。俺にはそれらが見た目通り相性の賜物なのか、はたまた忍耐の仮面を被った冷淡の虚飾なのか知れなかったが、えらいのは確かだ、と同意しておいた。
久々の湯舟にぼんやりとしていると、風呂か、と思考が展開する。
あいつは向こうのマンションでは長風呂だったが、こちらのアパートでは程々に済ませていた。最初にあいつの部屋に泊まった時は、朝に顔を洗おうと思ったら、髪の湯洗いで洗面所が塞がっていて手間取ったのを思い出す。入念を通り越して執拗なスキンケアやヘアケアとは反対に、メイクはほんの簡単なもので、必要なのか疑ったものだった。
化粧水だ乳液だといった類のものや化粧品・美容品は一揃いあるようだったが、俺はあまり見ないようにしていたので、向こうの家の風呂場や洗面所で見かけるものや、俺の部屋に持ち込むポーチの中身を、銘柄や名称だけ知っているくらいだった。美人は金がかかって仕方ねえなと嘆息したが、本人に言わせれば、本当はさらに食事制限や運動・ストレッチ・マッサージももっとしっかりやった方がいいとのことで、苦労はしようと思えばいくらでもできるらしかった。
俺は冬場に化粧水の世話になることがある程度だったので、あいつはそういうものの買い物に俺を付き合わせることはほとんどなく、俺と買い物をするときはもっぱら服飾方面、さらに言えば、俺にもっとお洒落になれとファッションコーディネートをしたがることの方が多かった。ブルベ同士なのでさほどアドバイスに悩みもしていないようだったし、彼女の見立てに店員さんも異論はないようだったので、俺の分は比較的早く片付くことが多かった。時間がかかるのは向こうの方で、俺の時とあからさまに目の色が違う店員さんにあれもこれもと勧められて、女同士で友人のように盛り上がって時間が過ぎていった。あいつ自身は流行より定番を好み、来年再来年のことを考えて選んでいたので、合わせにくいような流行りのものはよく断っていた。
そういえば、あいつは白いシュシュや紺のリボンを好んでよく着けていた。今日は、ただのストレートだったはずだ。だからコンビニで、気が付かなかったのだろうか。印象深い出来事こそあれど、別に、トレードマークというわけでもなかったのに。
そこにどういうメッセージがあるのか考えるのを止め、都合よく明朝の献立のことを思い出した。一応客が来るのに、葉物野菜の残りと缶詰肉を炒めてフリーズドライにお湯を注ぐだけでは手抜き過ぎるだろうかと迷い、どうせなら避難用の保存食も使っちまうかと思い立つ。手間をかければいいというものでもないし無い物はどうしようもないので、あいつも表面上気にはしないだろうが、せっかく半年ぶりに来たのに歓迎されていないと思わせてしまうのは、さすがに申し訳ない。
俺はあいつを、追い払いたいわけではないのだから。
つらつらと考えながら無意識に歯を磨き、夏用の寝間着で部屋に出る。なるべく体を直視しないように顔を上げると、あいつの姿はなかった。
玄関に履物があるのを確かめ、クローゼットの取っ手に手をかける。
同時に、ベッドの方からくぐもった声が聞こえる。
「ここ、ここ」
「…………小学生かよ」
ひとの布団に頭まで潜っていた。俺が近づくと、夏用の薄手の掛け布団から顔だけが出てくる。こちらを向いてはいなかった。
「風邪引かないように気をつけてみました」
「ヤドカリか亀かよ」
「あのやりとりの後で、改めて顔見るの恥ずかしくなって」
「…………別にいいけどよ」
お望み通り俺は目を逸らしながら答えた。空色の掛け布団の下から突き出た脚がやけに綺麗だった。こいつは声だけで、それも裏声で言う。
「お布団の妖精です、あっためておきました」
「テンションおかしいだろ……」
脱稿直後みたいなノリしやがって、と思いながら、布団を見下ろす。顔を向けないほど恥ずかしがる癖して、裏声ではしゃぐほど高揚している。しかも心なしか、髪の間から見え隠れしている耳が赤い。
「イラッシャーイ」
「え、同じ布団で寝る気かよ」
相手の布団で仮眠は今までに何回かあったが、同衾はなかった。彼女は布団の中に首元をまた潜らせながら言う。
「たまにはいいじゃん」
「たまにはって」
最初で最後にするつもりはない、とでも言うような口ぶりだ。俺は呆れを込めたため息で時間を稼ぎながら、恋人でもねぇくせに、という考えを振り払う。
「本当に本調子じゃねえんだな」
人の温もりが恋しくなる季節には、早すぎる。秋はこれからだ。
返ってきたのは、緊張感のある声音だった。
「…………だったら、弱ってる人に優しくすべきだと思わない?」
まるで、俺が拒絶することを恐れでもするかのように。
逆だろ。
「専属シェフ兼雑務くんとしてか」
俺は静かに問いかける。今までの関係を、やり直すつもりかと。
答えは、震える声だった。
「…………私が言わなきゃダメだよね」
「言いたくなきゃ黙ってろよ。後でセクハラで社会的に破滅させられなきゃいい」
冗談めかして、抵抗はあっても隔意はないと示す。
ただ、向こうにはそう聞こえなかったらしい。
「…………私そんなに信用ない?」
それは怒りと呼ぶには穏やかで、動揺と呼ぶには興奮した声だった。憤りとも嘆きともつかない声が、絞り出されるのが聞こえる。
「そんなことするためにこんな……」
ほとんど涙声に感じた。
俺は意を決して掛け布団を引き剥がし、隠れている彼女の素顔を暴く。自分の薄着を抱きしめるように丸くなっているこいつは、とっさにこちらを見た。
潤んだ瞳は、光を溜め込むように輝いている。
目が合ったのを確かめて俺は告げる。
「遊びに来たのか弄びに来たのかはっきりしろよ」
彼女の目が見開いた。俺は布団を床に置き、彼女を見下ろす。
「しつこい男は嫌いだって、さんざん愚痴ってたのはそっちだろ」
大学時代、こいつはよくモテていた。
遠くから視界に入るのを気に留めていなかった頃は、美人だもんな、としか考えていなかった。だが距離が近づき、毎日のように話す機会が増えてくると、穏やかな知性が安心感を与えるのだと気が付いた。そして、俺が彼女の男除けとして女子に認識されるようになり、そのつもりで話しかけてくる他の女子と比べると、一々相手のスタンスに口出しせず、素直で悪口を言わない奴だと改めて思い返す。彼女は自身の言動をよく理解し振る舞っていた。
機嫌のいい女という最大の美質が、いつしか俺の中で彼女を特別なものにしていた。
男が機嫌を取るまでもなく笑っている美人は、虫が寄ってくる花に似ている。悪い噂のあるサークルだのミスコンのスカウトだの大手企業の採用担当だの見に行った舞台の俳優だの、枚挙にいとまがないしネタに事欠かないほどだが、こいつは作家としても個人としても、恋愛や性愛から距離を置くスタンスを取っていた。少なくとも俺の知る限りは、親しくなろうとする男どもは誰だろうとかわし続け、相手によっては女子さえ遠ざけていた。俺はあくまで恋愛感情のない男友達として、モテる女の贅沢な悩みを聞き流すともなく話に付き合い、特に彼氏面するわけではないがよくお互いの家に泊まる謎の関係として周囲にアピールされた。
俺自身は特に苦にもせず誇りもせず、一友人として覆面作家の小旅行や観劇に同行していたものの、周りからは時に頑張れと適当に応援され、時に安全だもんなと雑に憐れまれ、良かれ悪しかれ俺の内心を決めつけてかかられることが少なくなかった。こいつの男除けである手前、ごちゃごちゃ言われても強く否定できない立場にいたが、仮に俺が最初からそういう理由でこいつと接していたなら、きっと見返りを求めずにいられなくなるか思い上がって、半年ももたなかったように思う。
俺は、彼女の傍でそういう役回りとして扱われることに対して、美人は大変だな、という感想しか持たなかった。俺がこいつとよく話すようになると、俺に近づいてくる男女が増えた。俺と連絡先を交換する男子も急激に増えたが、案の定彼女とお近づきになりたいという趣旨が7割で、残りはどうやってあの天衣無縫の美人に気に入られたのかという追及だった。大半は表面上穏当だったが、俺という仮想敵が明確に現れたことによって抜け駆けに気が急いていたように見え、彼女の苦労を増やしているだけなのではとも思った。落ち着いたら落ち着いたで今度は、フリーより彼氏持ちの方が落としやすいだの、愚痴聞き役に徹して喧嘩して心が離れた瞬間を食えばいいだの、ドロドロ恋愛小説で得た知見そのままにチャンスを待ち構えている男どもを実際にこの目で見ると、なんだかんだで高校の文芸部で過ごしたあの時間は糧になっていると思わずにいられなかった。彼女はそれすら見越してか、俺がいかに愚痴をよく聞き流してくれるか、噂好きの女友達に惚気じみたアピールをして、色恋沙汰に巻き込まれるつもりはないと暗に保身の先手を打っていた。
彼らは自分がいかに親切で俺より魅力的な優れた雄かをこいつの前でアピールしたが、彼女はそもそもそういうのが嫌で俺とつるむようになっていたので、むしろ逆効果のようだった。体の関係を持つまでは女に、持ってからは男に選ぶ権利がある、という番い決めの原則は彼女も心得ているようだったし、だからこそ手を出してこない俺を重宝していたように見えた。十人が十人俺よりそいつを選ぶだろうと思われる料理自慢で医学部の長身美形な先輩に対して、距離感を選ばせてくれる人といたい、とこいつが答えた出来事が、彼女の男女観を明確に物語っていた。俺の新しい友人という建前で接触しようとする男子に対しても、彼女が気分一つで、今の生活が楽しいとか住所は内緒とか、かわしてごまかすことが多かった。断られないようになのか本気なのか、人脈作りという名目でこいつが連絡先を受け取る姿もしばしば見かけたが、俺や身近な女子がそいつから連絡先を教わっていないと知ると、その人脈の集まりにお呼ばれしても丁重に断っていた。曰く、不自然に仲良くなろうとしてくるひとたちは、その場では引くふりしてても長期的にはブレーキかけてくれないから困っちゃうね、とのことだった。
俺に対する女子の反応はもう少しばらけていて、つるむにはいいけど恋愛対象としては見られてなさそう、と小馬鹿にする奴もいれば、彼女が気に入るくらいだからきっと見所があるのだろう、と買い被る奴もいた。彼女がこれ以上他の男子にモテると私の恋が成就しないから、と俺たちをくっつけたがる奴もいれば、わたしの友達なんだから取らないで、と涙目で俺を追い払う奴もいたし、あんな外面だけいい子に騙されていいように使われてかわいそう、と俺をこいつから寝取ろうと企む奴もいた。はっきり言って押しつけがましいのは勘弁してほしかったし、人として失礼なのも御免だった。
不能呼ばわりやゲイ疑惑を持ち出す馬鹿共にはさすがに黙っていられず、俺を見下すために特定の属性を引き合いに出すのはやめろ、いずれ本物から怒りを買うぞ、と注意したこともあった。そこで素直に謝れるやつもいれば、そんなんだから童貞なんだよ、とレッテル張りを重ねるやつもいた。俺はその手の安易な人格攻撃に煽られるほど文芸部で幸せな時間を過ごしてこなかったので、聞こえなかったから大きな声で言ってくれよ、と催促した。俺の挑発も、周りの目を利用したある種の印象操作ではあったが、向こうが自分から再度再三にわたって愚かしさを晒したがっているなら、こちらでそれ以上止める義理もなかった。
幸いなことに、俺といることでこいつが評判を落とすようなことは特になかった。当時から近くのコンビニバイトとして俺を知っている学生はそれなりに多く、それを踏まえると、少なくとも俺の勤務態度は悪くなかったのだろうと思う。
こいつとよく話している心理・教育・看護辺りの女子グループからは、躾の行き届いた弟みたいでかわいいね、と微笑みかけられたが、こいつ自身は適当に調子よく、育成向け男子だよーあげないよー、と俺を所有物扱いした。かと思えば、同じ学科の女子から、お洒落になったし結構お似合いかもね、と言われると、まだ誰かのものになる心の準備はできてないかな、とシリアスぶってスルーしたりした。こいつをライバル視するミスコン優勝女子から、ずっとお預けなんてかわいそうじゃない? と俺の前で色気アピールをされた時はやけにムキになって、体で手に入る人は体で取られちゃうでしょ、と不満げに指摘していた。俺のあずかり知らぬところではそいつらの一部とこいつとで、性体験の有無と性的魅力と人格の優劣を巡って言い争いが勃発していたらしいが、こいつは俺といる時には一切その話に触れなかった。雑談の途中、そういうことがしたいと思うことがあるか、と話の流れで聞かれることはあったが、好きでもない奴とそういうことをしたら多分一生しなくなると思う、と俺が答えると、こいつは笑みを隠せない様子でそっかそっかと頷いていた。
こいつは俺が女子から何を言われたかよく聞きたがったが、恋愛トラブル絡みの話題が多すぎてそのうち聞かなくなった。代わりに、そういうことがあった日に不機嫌になりがちな俺の帰りを引き留めたり、長く話をしたがった。こいつのゆったりとした雰囲気や笑顔に心の棘と毒を抜かれながら俺は、どっちが盾なんだかわからないなと苦笑して、こいつの厚意に甘えていた。
度を越えた美しさはそれだけで人を惹きつけ、振り回し、狂わせる。巨大な引力のもたらすものを見続けた俺はある日ふと、多分この宇宙の星系や銀河群もそうやってできていったんだ、と思ったのをよく覚えている。
俺自身は、最初に話したときに議論が盛り上がって意気投合し、ある時ただ性別が違うだけの知己を得たと思うに至った。彼女の容姿が優れていようと文才がずば抜けていようと、人間であることには変わりなく、どうでもいい話題を起点に大真面目な話をできるのが楽しかったし、ノートの貸し借りや試験対策の情報を提供してくれるのはありがたかったし、他人のために料理を作るのは発見が数多くあった。彼女の印象操作に巻き込まれることに関しても、内心舌を巻いて学びを得ることこそあれ、本気で叱ったり怒りを向ける機会はなかった。それは、彼女自身は誰かを馬鹿にしていないからだった。
俺は、他人が無責任に憶測で人を貶めたり身勝手に傷つけることが嫌いだっただけで、本人が自ら情報をコントロールする分には、別にどうでもよかった。自分がどう見えるかの印象操作なんて多かれ少なかれ、誰しもやっていることだ。ただ、それは単に美貌に目が曇っているだけの、栄光浴由来の贔屓目ではないか、と自己懐疑に陥ったことがある。だがいくらなんでもさすがに、こいつが誰かをせせら笑ったりあることないこと吹聴したりするようなら、俺は怒ってシャットアウトしていただろうと思う。そういう点では、彼女の自由を俺が侵さなかったのと同様、彼女も俺のルールを犯さなかった。
俺たちは傍目にも恋愛関係や偽装恋愛ですらない、ただの男女の友人だった。部屋の中でリラックスした姿を晒し合ったり、たまの外食やスイーツショップで料理やデザートを一口交換ぐらいはしたが、控えめに見ても甘い空気は微塵もなかったし、話題もムードとは程遠い、背伸びした大学生同士のそれだった。お互い孤独を苦にしない性質もあってか、人恋しさに襲われることはなく、触れ合う機会もさほどなかった。俺がこいつに触れるのは、原稿明けの肩叩きや背中・腰、掌などのマッサージを頼まれた時くらいのものだったし、彼女が俺に触れるのは、背筋を伸ばせと背中を叩く時か、男から逃げる時が主だった。
こいつと話すようになってすぐの時期は、しょっちゅう横槍が入っていた。そのせいもあってか、穏やかに受け流すことの上手いこいつは、露骨なアプローチや下心の気配を感じると、決まって俺に手を振ったり傍に寄ってきて、嬉しそうな様子で話しかけてきた。時には周りに見せつけるためにわざとこちらの腕を取ることさえあった。俺が何事かと剥がそうとするのを承知で、外ではやめとくねと周りに聞かせながら詫びて、離れてみせたりもした。俺はそれら全てを対外的パフォーマンスだとわかっていたし、勘違いしようとも思わなかった。だが周囲にとっては外から見えるものが全てであり、淡い好意や気まぐれな下心を弾くには充分だったらしい。こいつ本人は、俺が嫌がりも嬉しがりもせず当然のように対応するからこそ効いた、と言っていたので、俺の分析的視点は多少なりともいい方に働いていたようだった。
一度だけ、よほど腹に据えかねたのか、彼女が男の目の前で俺と指を絡めて、翌日の朝食の相談をしてきたこともあった。彼女は朝の対価に夜はどうこうと意味深にささやいて色っぽく笑い、男が自発的に去るよう仕向けた。何をされてそこまでしようと思ったかはあえて聞かなかったが、男を徹底的に意識から外して俺との関係の深さを示唆する言葉を並べたことと、こいつのマンションの近くで何度かその男を目撃していたことから、危ない橋を渡ったらしいことは理解した。顔と態度のいい女にはそういうこともあるのだろうと思い、俺は彼女の役に立てたことを嬉しく思いながら、事態が悪化せずに済んで安堵した。
そんな彼女が数少ない愚痴を吐く機会は、ほとんど決まって、男にアプローチされた時だった。
そういうことがある時、彼女は部屋でため息をつき、俺に軽く礼を言って詫びた後、潔くなれない男の人は嫌、と愚痴るのが常だった。隠してるつもりでも下心はわかるし回りくどいのは嫌、しつこい男の人は嫌い、と定型文のように口走っては、酒の代わりに炭酸ジュースをがぶ飲みした。
何度愚痴られたかわからないその言葉の数々は、俺の記憶に深くこびりついて消えなかった。
「しつこい男は嫌いだって、さんざん愚痴ってたのはそっちだろ」
彼女の潜っていた布団を剥いだ俺は、その思い出を念頭に一言でまとめた。俺はお前に愚痴らせるような真似はしたくない、だから振られて潔く去ったのだと。
彼女は理解できていないのか、別の解釈を組み上げている最中なのか、俺のベッドの上で自分を抱き締めるように丸くなりながら、薄着を寒がるように腕をさすった。俺は慌てて、剥がして床に置いた掛け布団を抱える。
「悪い、寒いよなそりゃ、急に」
彼女の上に空色の布団を広げて被せると、今度は布団に潜らずに弱々しくこちらに目を向けてくる。
「あったかい」
「夏用だけどな」
彼女の足先に布団を広げながら応えると、彼女は目を伏せた。
「さっきまでの私たちみたい」
その呟きが何を意味するのか、分からないほど付き合いは短くも浅くもない。
「俺は夏用布団も兼任してたのか」
「知らなかったの?」
彼女は通じたのが嬉しかったのか、ふふふ、と笑みをこぼした。
「あったかいなー。気持ちいいなー」
「……………………そうか」
俺は毒気を抜かれ、そう返すのが精一杯だった。彼女は布団に頬を擦り付け、枕に顔を埋める。
「このにおい安心する」
「…………そうなのか」
「好き」
「……持って帰っていいぞ」
「洗ったら消えちゃうからやだ」
「そば殻は洗わねえだろ」
「カバーは洗うじゃん」
「なんで使用中の枕カバーごと持ってく前提なんだよ……」
「だってぇ、ふふ」
他愛ないやりとりで、もはや溝は埋まりきり、壁は崩れ去っていた。こいつは緩み切った表情で、言うなればにへ~っと、無邪気に笑った。
「一緒に寝よ?」
「……………………いや、いいけどよ」
もはやどういうつもりか問いただすのも面倒になり、唯々諾々とまで言わないが頷く。俺の返答に目を細める彼女は、そのまま目を閉じて今という一瞬を味わっているように見えた。
それが答えか。
俺はベッドを改めて見下ろし、現実的に考える。
「2人とも仰向けになったら俺落ちるよな」
俺の大真面目な声に、ふにゃふにゃと力の抜けた声が返事をする。
「なぁに? 私にぎゅってしてほしいの?」
「するのか?」
「したら安心し過ぎて溶けちゃうかも」
初めて聞くとろけた声と甘えた調子のおかげで、脱力と困惑が襲い掛かる。
「もうほぼ溶けてるだろ」
「…………こういうのキライ?」
ほとんど幼児退行でも起こしたような、素直な問いだった。俺はため息をつく。
「俺の記憶から原型を留めてなくて人違いを疑ってるだけだ」
「ピロートークっていうんだっけ、こういうの」
「枕ぶん投げるぞ」
「枕持って帰るよ」
「……なんで急に態度変わったんだよ」
夏用布団のたった一言で、ここまで急激に。アルコールに縁のない彼女はにっこりと笑みを浮かべた。
「真面目に言うの恥ずかしいから」
「そうか」
俺は素っ気なく応じ、電灯のスイッチまで数歩移動する。
「とりあえず明るい方消すぞ」
「あ、うん。お願いします」
急にかしこまったこいつを呆れ混じりに見下ろしながら消灯し、こいつがいつも泊まりに来る時のように、常夜灯に切り替える。
暗闇に目が慣れず、ふと妙な緊張感を覚えた。
俺は自分をごまかすように布団を少しめくる。
「入るぞ」
「来て」
承諾を得てベッドに乗り込むと、人肌特有の温もりに迎えられた。こいつの際どい部分に触れないようにと寝返りを打つ間もなく。すぐに両腕と両脚が俺に絡みつく。
「…………なんで俺拘束されてんだよ」
正面から抱き着かれる形になり、互いの耳と口元がすぐそばまで近づいた。
「逃げられないように」
魅惑的な囁きと吐息が耳をくすぐり、俺は身をよじる。
「別に逃げやしねーよ」
俺の声も彼女の耳元で囁く形になる。こいつは一瞬反射的に背筋を震わせたが、それを開き直るかのように何事もなく話を再開した。
「顔見られるのも恥ずかしい」
「じゃあ背中向きにしてくれ」
「……………………そういう気分には、ならない?」
緊張感漂う声音と共に、胸も腹も押し付けられる。両脚で正面から腰を密着させられた状態で、耳元では震える呼吸が温かい湿り気と共に伝わってくる。どういう、と聞き返すのは野暮だった。
「なっても今日はしない」
「…………そっか」
耳元のその返事は、納得なのか諦めなのか、安堵なのか落胆なのか、俺にはわからなかった。そもそも何のつもりで来たのかも結局うやむやになった今、この一言が決定的な未来の分岐点のような気がした。
そういえば、大学の学食かどこかで、マッチングアプリにハマっていた奴のやりとりが聞こえたことがあった。女性には、付き合ってもいないのに触れられたくない人もいれば、手出しせずにいると自分に興味がないと早合点して見切りをつける人もいるという。その説に則るならこいつは前者だと思っていたし、俺自身は今でもそのつもりで接しているが、本当にそうかはわからなかった。
何しろ、半年もあれば人は変わる。
でなくとも、期待外れなら冷めるものだ。ただでさえ女性は若い時間を無駄にしたくはないはずで、オスとしての本懐を果たさない男を生理的に嫌悪するきらいがある。絶好の機会をみすみす捨てるならば、悪罵も社会的抹殺も当然とばかりに。こいつがそこまで本能的に判断しているかはともかく、価値観が合わなければ一緒にいても仕方がない。
「今日しないならさよならってんなら、それはそれでいいさ」
女に恥をかかせた男の居場所がなくなるのは、多分どこへ行っても同じだ。あの高校の文芸部だけのはずがない。
言いたい放題押し付けて、人の気なんか知りもしねえ。
こいつだって、不都合ならとっとと敵性排除してきたのだ。やんわりと、しかし絶対的に。俺をも排除して、何が悪い?
俺が自嘲気味に意見を変えないと示すと、こいつの腕と脚の力が強くなった。
「それでも逃がさないから。絶対」
やけに力強い断言だった。
「絶対」
「…………繰り返すほどか」
嬉しさはあった。だがそれ以上に、会わない間に何を思いその結論に至ったのか、それを考え出すともの悲しさがあった。
俺が半年間逃げ続けている間に、こいつは心の整理と決着の覚悟を決めてここに臨んだらしい。
「だからこれが、仲直りのしるし」
俺が振られた原因は、数え上げれば片手で足りないかもしれない。
まずこいつは、恋愛を疎んじていた。自分の顔に寄ってくる下心全般を遠ざけていたし、それは大学生活中変わることはなかった。
次に、それ自体を小説の題材として繰り返し取り扱っていた。登場する彼女たちは恋人より理解者を求め、時には孤独を愛してすらいた。そういう作家が恋人を得ることは、作品にとってもファンにとっても作家自身にとっても、望まない結末を迎えるだろう。一読者として、その点はよく理解していたつもりだった。
さらに言えば、そのことについて担当編集さんからも忠告されていた。作品はクリエイターの精神状態がダイレクトに反映されやすく、特に女性作者の場合顕著である、だから慎重に見守ってくれると嬉しい、と。
こいつの親御さんと初めて会った時には、別の観点から小言を言われたこともあった。娘の交友関係に極力口出ししたくはないが、男が年若い女と家に泊めつ泊まりつを続けるなら、ただの友人に責任を取れとは言わない代わりに、せめて娘を悲しませることにならないように大事にしてほしい、と。
俺はどれも言われるまでもないと思っていたし、そういう関係を望んだことはなかった。抱き締めて口づけることも裸で求め合うことも、トラウマの壁を隔てたただの憧れで、いつかはとは望んでも相手がこいつであればとは考えなかった。恋愛感情はエゴと性欲だけで出来ている気がして恐ろしかったし、愚痴を聞くたびに、甘く愛をささやくより固い信頼関係を結ぶ方が素敵だと思っていた。だから俺は、外では世話を焼かれ内では世話を焼く、あの自然な役割分担そのままの日々に満足していた。
もし明確な転機があるとしたら、俺が入院した一連の出来事だろう。
地元の公務員試験の二次試験当日、適性検査のマークシートの真っ最中に手が痺れ始め、鉛筆を取り落とした。拾ってもらおうと手を挙げたが、ろれつが回らなくなっていた。俺は自身の変調に困惑したまま頭痛で倒れ込み、救急車に乗せられて意識を失った。
病院で目が覚めた時、脳卒中の前兆だったと言われた。生活習慣病患者に多いが、健康的な生活をする若者でも、偏頭痛で脳の血管が高血圧になることがあるらしい。大事な大学生活最後の年の、年度後半に差し掛かる二次試験ともなれば、集中と緊張が高まりすぎてもおかしくはない、とフォローされたが、正直実感はなかった。
退院したのは経過観察を兼ねて、一週間後だった。見舞いやら精密検査やらお祈りやらいろいろあったが、こいつは締切間近で執筆に専念していた。元々冗談半分とはいえ、実家に長居するかもしれないから今回は俺を頼りにはしないでほしい、と話しておいたし、後遺症も残らないのにあえて心配をかけることもないだろうと、何も伝えなかったからだ。予定より一週間長く空けていたアパートに帰って来た時、寂しそうな微笑と温かい食事を用意してくれたこいつが、不自然に白く厚塗りされた目元を隠すようにしながら、おかえり、と儚げな声を発したことがずっと心に残っている。彼女は何も言わなかったが、受けた市役所から大学に話が行って、彼女の方にも伝わったらしい。
俺は、彼女の集中が必要な時期に生活上の雑事全般を請け負うことを、すっかり自分の役割と自認していたし、教養試験も面接対策も世話になりっぱなしだった。断りを入れておいた前者はまだしも、後者が全て無駄になったことに申し訳なさと後ろめたさを感じ続け、彼女と友人でいることが苦痛になっていった。
こんなことなら進級や就職に必要ない科目にハマったり、格好つけて難関資格に挑戦したりして応募先を絞らずに、もっとエントリーしておくべきだったのだろうか? 今から改めてゼロから始めたとして、俺はこの、自分の実力で落ちることすらできなかった宙ぶらりんな現実を受け入れて、そこで働き続けられるのか? こんなはずじゃなかったのにと馬鹿みたいな後悔を抱えずに、そこで為すべきことを為せるのか? 今から新しく就職試験を受けられても、焦れば焦るほど同じことが起きるだけじゃないのか? このまま卒業して、返せない借りを抱えたままこいつと友達面していられるのか? そもそも卒業した後、こいつが俺と関わる理由があるのか?
そんな疑問と混乱が、押し迫る別れの時への焦りと重なって、その頃の記憶は断片的にしか残っていない。はっきり覚えているのは、こいつが就職相談室に俺を連れて行ってくれた時の心配そうな横顔、バイトを続けることを決めたと電話した時の両親のため息、知らない間に完成していた卒論、そして夢の中でこいつにペットとして飼われ、違う、俺は人間だと叫び続ける自分の声だった。
こいつは当時も夢でも今も、俺を心から歓迎してくれた。だがその根底にあるのは、無害なぬいぐるみへの愛情に似た無防備さだった。俺は自分を許せなくなっていたし、こいつから受ける無償の優しさが怖くなっていた。恋人なら対等でいられるのだろうか、それともいっそ何もかも終わらせてしまおうかと、脈絡のないプライドを自分に振りかざしては結論を先延ばした。
彼女は俺の就職活動について何も聞いてこなくなった。俺も自分から言い出しはしなかったし、紳士服店に見学についてきた彼女の記憶ごと、スーツをクローゼットの奥にしまい込んだ。
彼女は元々大学入学以前から小説家として収入を得ていて、実家が裕福らしいことも手伝って、将来の展望に関してずいぶん呑気だった。大学は勉強する場所であって就職予備校じゃないもんなどと大学生らしからぬ物言いをして、同期や後輩の就職活動を横目に、履修登録していない講義に潜り込んだり、美術展の図録や映画のパンフレットを収穫物として俺に見せてニヤニヤしていた。受けるわけでもない資格や試験のテキストを何冊か買って周囲の目線からカモフラージュしてはいたが、趣味兼小説のネタ探し以上の真剣味は見られなかった。それでも彼女は簡単な資格をあっさり取ってみせる程度には要領が良かったし、きっと専念すれば士業の資格も俺より余裕を持って一発合格するだろうと思われた。彼女も本来なら就職すべきだと担当編集さんに忠告されていたようだが、既に出版社をまたいで多数のシリーズを抱えていたので、書けるだけ書いてみることにする、と言っていた、らしい。俺の前で言わなかったのは配慮なのだろう。
彼女が自身の小説について語ったことはほぼなかったが、小説家としての気構えに関してはたびたび話をしていた。自作の商業性と自身の芸術的良心とがあまり乖離していないことに安堵してはいたものの、職業としてはリスキーであることをとにかく強調していた。嘘で身を立てるって博打打ちだよねとか、自分は一歩間違えば詐欺師で本質的にはアウトローだとか、普段ならまず言わない自虐的辛辣さが印象深かった。こいつはこいつで、小説家として天与の才に恵まれてしまったことに何かしらのコンプレックスを抱いていたらしいが、俺はそれに深入りせず、自虐がしたいなら他人を巻き込まないようになと忠告するに留めた。かろうじてわかるのは、俺がインターンシップや説明会の話をするとつまらなそうに唇を尖らせていたことと、執筆に没頭している最中の横顔は真剣で美しく神々しいこと、それと、俺が退院後にまた観覧や観劇に付き合うようになると子供のように嬉しそうに笑っていたことくらいだった。
卒業式の後、こいつは俺に、また来年も公務員試験を受けるのかと聞いた。俺は否定し、自立するだけで精いっぱいだと答えた。そして、恋人が欲しくはないか、とどうでもいい話題を振るときのように尋ねた。こいつは、そんなの要らないよ、と冗談のように笑い、2人だけの打ち上げの相談を始めた。俺は行かないことを伝え、俺と付き合う気はあるかと改めて尋ねた。こいつは笑って、今更必要ないでしょ、と流し、二、三やりとりをした後、俺の方から辞去した。
それ以来、コンビニで再会するまで顔を合わせていない。
最初の数日はメッセージの大半は無視したし、いやなこと聞いて悪かった、しばらく独りにしてほしいと返信して、それ以降はこいつに着信連打を食らうまで生存報告もしなかった。俺がオートロックの高層マンションに行く理由はもうなくなっていたし、彼女は理由をつけて呼びつけるほどデリカシーのない人間ではなかった。向こうは俺の部屋の合鍵は持っていたが、俺に遠慮して無理やり押しかけはしなかった。時折向こうから、作家業に専念していること、1人だと話し相手がいなくてつまらないこと、最近寝つきが悪いこと、どれだけ寝てもまだ眠いことなど、日記のように報告があった。着信連打はこちらのバイトの最中で、直接通話しそこなってしまったが、俺が死んだ夢を見て不安になったと文字に残されるとさすがに、週に1度既読だけでもつけざるを得なくなった。
空いている時間なら出られたかと自問すると自信はなかったし、こちらからかけ直す決心はなおさらつかなかった。さらに報告は続き、しばらく実家に帰るが部屋は借りたままでいること、俺が持ち込んだものは全部そのままにしてあること、遊びに来るなら2日前には連絡してほしいことなど、俺が返事をできないままただ目を通して放置していると、頻度は少しずつ落ち、最後の報告は三週間前になっていた。そのうちまた顔を見に行ってもいいかというメッセージに、俺は何も答えが浮かばなかった。その数日後に俺がようやく、誕生日おめでとうと素っ気ないメッセージを送った時、こいつからはいくつかのハートマークだけがすぐに返ってきた。
それきり連絡は途絶え、俺の心には虚しさと侘びしさが残った。最後のばかでかいハートマークを何度も見返しては、そこにどんな意味があったか考えないようにしながら。
そして、かつて恋人は不要だと俺を振った彼女は今、俺のベッドで俺を抱き締め、五体を密着させている。
これが恋人にする行いじゃないなら、果たして俺たちは何なのだろうか。
その疑問に答えるように、彼女は再び俺の耳元で囁き始めた。
「こうやって抱き締められるの、苦しい?」
「…………力加減のことなら、少し」
「そっか」
俺を雁字搦めにする手足が離れていき、腕一本だけを残して向き合う。睫毛や鼻先がほとんどこすれるような、吐息がぶつかり合う近さだった。
「腕枕ならどう?」
「…………無理しなくていいんだぞ」
「ちょっと恥ずかしいだけだから、大丈夫だよ」
「ちょっとでも恥ずかしいならやめろ」
俺が冷ややかに言い放つと、彼女は固まった。しばらく見つめ合っていると、表情が動き出す。
「……………………じゃあ、私にどうしてほしい?」
優しい母か姉のような声音で、そっと問いかけてくる。俺は目を閉じた。耳元で自分以外の腕が脈打っている、不思議な感覚を覚えた。
「そっちこそ、何か要求があって来たんだろ」
「…………最後に話したときにさ。俺と付き合う気はあるか、って聞いてきたでしょ」
「ああ」
「もう会わなくなりそうで不安だったのかと思って笑っちゃったけど、言葉通りに聞いてたなら、悪いことしたなって思って」
見透かされていた、と前半の言葉に傷つく間もなく、意識は後半に向けられる。
「そうじゃねえよ……。仮にそうだとして、だからってなんでそっちが下手に出るんだよ。別にそんなの、嫌なら仕方ないだろ」
生理的に無理とまで言わなくとも、こいつが燃えるようなロマンスにも肉体的な欲望にも頓着しない性質なのはわかっていた。わかっていてそれでも聞いてきたのだから罪は重く、他の連中より一層嫌悪が激しいだろうことは覚悟していた。俺は実際に肉体的な親密さを伴う関係を期待していたわけではなかったが、こいつの言う通り、大学卒業の節目をいい機会に交流が途切れることを恐れていた。それで自滅を選んだのだから、笑われて当然だった。
彼女は額同士を当て、熱と共に考えを伝えるかのように擦り付けてくる。その声は笑ってはいなかった。
「私がそういうの興味ないから、逆に振られたみたいになっちゃったから。会える準備ができたら、キミがいる日にコンビニであれ買って、一緒に使ってみようかなって」
すっかり忘れかけていた。確かに買ってはいたが。
俺はとっさに目を開け、こいつの上目遣いの眼差しと対峙する。
「嘘だろ? なんでそうなるんだよ」
「…………退院した日の時点ではそんな素振りなかったから。今までずっと一緒にいて、ほとんど気にしてこなかった身体性に、改めて向き合うようになって、学生生活最後の最後に初めて思ったなら、本気なんだろうなって。そこまで考えずに冗談だと思ったから、それで、人として失礼だって愛想尽かされちゃったんだったら、やだなって」
たどたどしくも理路整然とした、不思議な説明だった。
こちらがさらなる反論に出る前に、こいつは空いている手で俺の顎に手を添え、自分の方に顔を向けさせる。まるで、私から目を逸らすなと、私から目を離すなと言わんばかりに。
「私はキミのこと、好きだから」




