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第三章:フリル

娘が切り刻んだ『しろいふく』。

それは貧しさの象徴であり、母娘の心を裂いた“白”の記憶だった。


『貧乏って悪いことなの』


 佳純が学校に通えていた頃に聞いたあの言葉が忘れられない。

 悪いことではなく『かわいそう』だと教えたのに。

 私は間違っていないはずだ。

 不登校になった明確な理由はわからない。

 しかし、思い当たることは一つある。

 それは、参観会の夜『しろいふく』を切り刻んでいたことだ。


 あの日の夜、あの子は約束を破った。スタスタと階段を上がり佳純の部屋を通り過ぎた時、ドアの下から明かりが漏れていた。コンコンとノックをし、そっと開けた。

「まだ、起きてるの?もう寝る時間はとっくに過ぎている……」

 チョキチョキと切り刻む音に私の声はかき消された。

「な、何してるの!」

「服をね、切ってるんだよ」

 まるで人形のような一点を見つめる瞳で、手だけを動かしている。

「やめなさい!」

 ジョキジョキと更に音を響かせ、大声を出しても佳純には声が届いていないようだった。

「切ったらダメなの?」

 首を傾げながら発した言葉にゾッとした。

「ダメに決まってるでしょ!」

「だって、いらないんだもん。パパのお仕事と同じだよ」

「どういう事?」

「いらなくなった髪の毛を切るでしょ?それと同じ。佳純は、『しろいふく』がいらないの。ママの『しろいふく』も持ってきて」

 苦虫を噛み潰したような感覚を隠しきれず、眉間に皺が寄ってしまう。

「わかった。とにかくハサミをママに渡して」

「まだ残ってる!早くママのも持ってきて!」

「いい加減にしなさい!」

 怒りを言葉に乗せた。反射的に佳純はハサミを差し出したが、グッと乱暴に刃先を私に向けた。

「佳純ちゃん、ハサミを人に渡す時は持つところを相手に向けて渡すの」

「そしたら私が怪我しちゃう」

 人の為に自分が傷ついてもいいのかと問われているようで、正解が分からず答えられなかった。

「眠くなっちゃったな。もう、寝るね。ママ、おやすみなさい」

 ……自分の行為が物語の一ページかのような雰囲気を漂わせている。まるで切り刻まれた『しろいふく』は存在しないと思わせるかのように。

 私は、バタンと音を立てトイレに駆け込み、汚物入れの黒い袋を持ち、再び部屋に戻る。そして、白い切れ端たちを放り込んだ。なぜか、白いビニール袋を選ぶことを拒否していた。怖くなり黒で隠さなければと思ったから。

 スヤスヤと目を閉じている姿は無防備だ。

 「何を恐れているの?」

 細く長い髪を撫でながら、私が守らなくてはと思った……。

 しかし、腑に落ちない言葉が反響している。

 

 『ママの服も持ってきて!』

 

 私はこの子が生まれてから『しろいふく』を着るのをやめた。なぜなら、ミルクや嘔吐物で汚れるのが嫌だったから。

 疑問を抱えたままそっとドアを閉めた。


 ……朝は当たり前にやってくる。

 昨夜は寝返りを繰り返した。体を動かさなければ貼り付けにされてしまいそうだったから。

 目を閉じると、瞳を動かさない佳純がハサミで折り紙を、チョキチョキと切っている姿が映る。無意識に折り紙であればいいのにと思ったのかもしれない。

 泥がついたような重い体を起こし、コンコンとノックした。

 「あ、ママ。おはよう。もう起きてたよ」

 「自分で起きられてエライわね」

 「うん!お腹すいちゃったの」

 そこには人形のような瞳はなく、潤んだ人間の目であることに胸をそっと撫で下ろした。

 「心配し過ぎたかな」

 佳純の髪をギュッときつく編み、ポンポンと手を添えた。


 「やばい!遅刻する!」

 佳純は、少し汚れた靴紐をキュッと結んでいた。

 「ママ!行ってきます」

 「行ってらっしゃい。気をつけてね」

 バタバタと玄関を出ていく後ろ姿はランドセルが少しだけ小さく見え、成長している事実が人間であると再認識し、細い息が漏れた。

 リビングに戻ると椅子の上に薄紫の体操着袋がポツリと置かれていた。

 「また、忘れて行ったのね。今日も届けに行く時間ないのよ」

 サッと髪留めをし家事を進める。

 私はこの時、まだ気がついていなかった。

 

 ……体操着は『しろいふく』であることに。

 ……最後のランドセル姿になるということに。

 

 ガチャリとドアが開き、視線を向けるとボサボサの寝癖頭をした優二が大欠伸をしていた。

 「佳純は?」

 「とっくに学校よ。それにしてもすごい寝癖ね」

 「毎日人の髪ばかり見てると気が滅入るんだよ。自分の髪くらい気にしない時間が欲しい。……なんてな」

 白い歯を見せ、少年のような笑顔をした。この様子からすると、優二は昨夜の出来事に気づいていないらしい。心配かける必要もないと判断し、話さなかった。

 トーストをオーブンに入れピッとボタンを押すと、それと同時にガサガサとビニール袋の音が重なった。一瞬、黒い袋を連想し思わず『キャッ』と小さく悲鳴をあげてしまった。

 「びっくりしすぎだろ」

 口角を上げ意地悪な顔をしている。

 「どうしたの」

 「あのさ、筒井さんだっけ?チラシ入れお願いしただろ。数が足りないんだよ」

 「え?しっかり数えた?」

 「五回数えた。でもやっぱり、三十個くらい足りないんだよな」

 ボサボサ頭をさらにボサボサにしながら真剣な眼差しで答えた。

 

 『だから、貧乏って嫌なのよ』


 「おい、そんな蛇みたいな目するなよ。大したことじゃないだろ。きっと入れ忘れたのさ」

 「そうね、聞いてみるわ」

 ……ダメだ。

 白い汚れた服が重なり、筒井家に残された白いティッシュも汚されているような気がしてしまう。

 「ねぇ、そんなに高いものじゃないし、三十個くらい差し上げましょうよ。筒井さん、色々と大変そうだし」

 「まぁ、いいけどさ『差し上げる』なんて上から目線だな」

 口をへの字に曲げ引きつった顔を見せた。きっと男にはわからない感情なのだろう。

 「あなた、優しいわね、ありがとう」

 とりあえずこの話は終わらせた。

 しかし、『差し上げる』と、本人にどうしても言いたい。


 家事をしていても、買い物をしていても汚れたティッシュが頭から離れなかった。スーパーには大量のビニール袋が置かれている。意識的に視線を逸らす自分を疑った。

 「……ただの袋よ。でも絶対に触りたくない」

 四方八方から聞こえるガサガサした音に耳を塞ぎたくなる。

 食材を適当に選び『レジ袋は絶対にいらないです』と声を震わせてしまった。

 視界に少しでも『白』が入らぬよう、競輪選手並みに自転車を漕ぎ、水中から出る勢いで玄関を開けた。ゼエゼエと荒い息を整え椅子に腰掛ける。バラバラに転がる食材の一つを見つめゾッとした。

 「……だ、大根」

 絶対に頭がイカれている。『白』に囚われすぎだ。水分が多く含まれる大根は、私の心のようにずっしりと重い。

 

 プルルルと、けたたましくなる音で我に返り、大根を床に投げ、受話器を手に取った。

 「はい、安藤です」

「こんにちは。お忙しいところ申し訳ございません。佳純さんの担任の工藤です。少しお時間よろしいでしょうか」

 「あ、はい。お世話になっています。佳純に何か?」

 人形のような瞳をした佳純が浮かんだ。

 「あ、いえ、そんな深刻なお話ではないのですが、体操着の再購入をお願いしたくてですね。最近の子は成長が早いようで……」

 話の意図が見えず、すぐ反応できずにいた。

 「ごめんなさい。どういうことですか?体操着なら自宅にあります」

 「あれ?佳純さんからお聞きになっていないですか?ここ最近体操着が小さくて着られないと言って、見学してるんです」

 私の知らない佳純が顔を出した気がした。

 「あ、ごめんなさい。そうなんです。最近よく食べるようになりまして、体操着も小さくなったねって話してたんです」

 嘘を吐いた。無関心な親だと思われたくなかったから。

 「今日にでも買いに行ってきます」

 そう言って、ガチャリと一方的に受話器を置き、薄紫の袋を凝視した。

 ゴクリと唾を飲み込んだ。

 なぜ、気づかなかったのだろう。


 ……体操着は『白』だった。


 薄紫にの袋に隠れた『しろいふく』から、また目が離せなくなってしまう。

 突然、カチャとドアの音が静かに響いた。

 次はドンドンと大きな足音が階段を鳴らしている。

 「佳純なの?」

 手すりにつかまり忍び足で二階へ向かった。

 廊下にはランドセルが転がり、奥の方からチョキチョキという音が聞こえ、あの夜を思い出させる。

 そこには小さなハサミでフリルを刻む佳純がいた。

 「か、佳純ちゃん!」

 ゆっくりと振り向いた瞳は光を失っていた。

 

 「ママ、わたしね『びんぼう』になっちゃったよ」


 床じゅうには泥水のように茶色く濡れたフリルが散らばっていた。

 茶色に染まる前の色は……。

 

 『白い』フリルだったのだ。


 この日からあの子は部屋から出てこようとしない。

 白い汚れた服が、貧乏の象徴だと植え付けたあいつを許さない。

 そしてなにより、娘の心を貧乏にした奴だから。


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