霧の中にいた“偽りの人間
風が鳴っていた。
雪が風にさらわれ、粉のように空を舞う。
アリエルは白い息を吐きながら、マフラーをぎゅっと首元に引き寄せた。
「……さむい、ね……ユーグ……」
その後ろを静かに歩く護衛ロボット・ユーグは、返事をしない。
だが、黙ってコートの裾をアリエルの肩へそっとかけてやると、それだけで彼の言葉の代わりになった。
視界の先には、霧が漂っている。
ここは山間部の旧都市地帯。通信と電力が切れて久しく、気候も不安定だ。
目の前に現れた建物は、半ば雪に埋もれ、構造が読み取れない。
だが、うっすらと残る英語とカタカナの文字列が看板に浮かび上がる。
「YAMADA ARCADE MALL」
「ヤマダアーケード・モール」
「ショッピングモール……?」
アリエルがつぶやくと、ユーグが頷いた。
「人間の生活施設跡。建設は年数不明、」
「……うーん……。入れるかな?」
入り口はすでに自動扉としての機能を果たしていない。ユーグが手動でこじ開けると、そこから漏れ出すのは、湿った空気と金属の錆の匂いだった。
懐中電灯を頼りに中へ足を踏み入れると、フロアは意外なほど整っていた。崩れた棚や割れたガラスはあれど、建物自体はしっかりとしている。
霧が、建物内にまで入り込んでいた。
その霧の中に、光が、あった。青白く、ゆらりと動く光だ。
「……ユーグ、あれ……」
光は人のかたちをしていた。
ショートカットの女性、薄い制服のような衣装、軽やかな足取り。
彼女は音も立てずに近づいてきて、突然、柔らかく微笑んだ。
「──いらっしゃいませ、ヤマダアーケードモールへようこそ」
その声は、どこか懐かしいCMのように、耳に優しく響いた。
アリエルは目を見開いた。
「……人間?」
ユーグはすぐに遮るように前に出た。
「違う。これは……ホログラム映像だ。質量はない」
「オーナー様、ご到着ですね」
女性のホログラムは、アリエルに向き直ると、深々とお辞儀をした。
「大変長らく、お待ちしておりました。本日は当モールをご利用いただき誠にありがとうございます。ご要望の施設案内を開始いたします──まずは、食品売り場からでよろしいでしょうか?」
「……オーナー様?」とアリエルは自分を指差す。
「はい。あなた様は“人間”であると確認しました。当施設における最上位管理者に該当します。オーナー様と認識いたします」
少女の眉がひそめられる。
ユーグが無言で端末を操作し、信号分析を行う。
「ホログラムは自律AI搭載。エネルギー源は地下冷却炉。維持のため自己簡易再起動を定期的に実行している」
「そんなの……ずっと、誰もいないのに?」
ユーグの視線が、アリエルへと向けられる。
「……人間がいなくなった後も、“接客業務”を継続していたようだ」
「オーナー様、どうぞこちらへ」
ホログラムの女性は、ゆるやかに手を伸ばし、通路を指し示す。
その先には、暗がりの中に、かすかに色のついた床材、曲がった天井のアーチ。
誰もいないのに、店内BGMがうっすらと流れている──“オリジナル・ミュージック再生中”と表示が見える。
「ここ、ほんとに……誰もいないの?」
アリエルは振り返り、ユーグに目を向けた。
「センサー反応なし。ホログラムを除けば、生体も稼働ユニットも存在しない」
霧が店内に溶け込むように広がっていた。
ホログラムの女性だけが、そこに違和感なく立っていた。
それはまるで、彼女こそがこの空間の“主”であるかのようだった。
「では、オーナー様。本日はどのようなご用命を? お洋服、電化製品、家具、食品──すべてご案内できます」
その声は笑っていたが、どこか空虚だった。
アリエルは思わず尋ねた。
「ねえ、あなたの名前は?」
ホログラムは一瞬だけ黙り──
「私は、“ヤマダモール案内係α-7号”……ですが。オーナー様が名づけてくだされば、それが私の“正式名”となります」
「じゃあ、えっと……エーコ、でいい?」
「エーコ……ありがとうございます。承認しました。わたくしの名は、エーコです」
エーコは、うっすらと笑った。
そして──そのまま、アリエルとユーグを“オーナー様ご一行”として、館内の深部へと案内し始めた。
「オーナー様、まずはこちら──“第1フロア・フードマーケット”でございます」
エーコの柔らかな声が、まるで自動音声のように響く。
通路の両脇には朽ちた棚と割れたガラスケース、所々に倒れたカートが散らばっていた。床のタイルはひび割れ、所々に草が生えている。
「この先、右手には青果コーナー。左手には冷凍食品売り場がございました。なお現在、在庫情報は更新されておりません」
「……“されておりません”って、在庫ってあるの……?」
アリエルは棚にそっと手を伸ばす。
乾いた金属音が返ってくるだけで、商品は影も形もない。
タグのついたままのプレートだけが残り、「特価:冷凍サーモン」「秋の味覚フェア」と、今はもう存在しない季節感が虚しく並んでいた。
「売り切れ、かな……」
「オーナー様のために、補充を試みます」
エーコが手を振ると、隅にあった案内ボードが光り、仄かに電力が回復する。
しかし現れた映像は、ノイズの混じった過去の広告だった。
> 「YAMADAモールは今月も激安! 毎日がお買い得!」
> 「新鮮野菜、直送お届け!」
> 「家族の笑顔を支える食卓に!」
映像の中の家族は笑っていた。
だが、その笑顔は不気味なほど無機質で、既に誰のものでもない。
「……ここ、ずっとこうしてたの?」
アリエルがそっと問うと、エーコはにっこりと笑った。
「はい。オーナー様のご帰還に備え、日々、営業準備を整えてまいりました。いつでもお迎えできるように──それが、私の任務ですから」
フロアを歩く。カートの跡が床に残り、レジには埃をかぶったスキャナーが並ぶ。
その中の一台が突然“ピッ”と音を立てた。
アリエルが驚くと、エーコは嬉しそうに微笑んだ。
「お会計システム、現在も正常に稼働しております。なお、通貨単位は旧Yenポイント制で運用されており……」
「お金、なんてないよ。あたしは……旅してるだけ」
「ええ。ですが、オーナー様の権限であれば“すべての商品”が無料提供可能です」
「でも……商品なんて、ないよね」
少女の言葉に、エーコは一瞬、沈黙した。
だが、すぐに何事もなかったかのように、ふわりとターンして通路を進む。
「それでは、次のフロアへ──オススメは“家電セール”でございます!」
2階へと続くエスカレーターはすでに停止していた。
ユーグが先に上がり、上階の安全を確認する。
アリエルが階段を上るたび、エーコは階段の上で待っている。
「第2フロア──生活家電とインテリア家具のセール会場です」
フロア中央には、すでに壊れた液晶テレビが山積みになっていた。
その奥には、無数のポップ広告が色あせたまま吊るされている。
> 「新発売!QUA洗濯ロボ“ピカリンV”」
> 「家族で使える! スマート冷蔵庫」
「……これ、どれも壊れてるよ」
アリエルがつぶやいた。
「いえ。いずれも高性能かつリーズナブルな一品ばかりでございます。特にこの掃除ロボ“ムーブくん”は、AIによる自律判断が可能で──」
彼女の言葉に被さるように、ユーグの無機質な声が割って入る。
「その製品群はすでに型落ち。OS更新停止済み。出荷日から数百年以上経過。実用不能」
エーコは一瞬、口を閉ざす。だが、またゆっくりと笑った。
「……そうですね。ですが、良い製品は“いつまでも”良いまま。そう思いませんか?」
「壊れていても?」
「ええ。大切なのは“気持ち”です」
アリエルは、なんだか胸が苦しくなるのを感じた。
彼女が見せる笑顔は、どこまでも優しくて──だけど、それがとても、痛々しかった。
モールの一角には、今はもう使われないキッズスペースがあった。
色あせたマット。誰かの落としたぬいぐるみ。壁に描かれた太陽の絵。
エーコはそこに立ち止まると、アリエルに問いかけた。
「オーナー様。お子様のための遊び場はいかがですか? 本日もお絵かきイベントを開催中です」
「……子供なんて、いないよ」
「ええ。でも、あなた様がいれば……またきっと、お子様たちは戻ってきます。みな、ずっとここを恋しがって……待っているのですから」
エーコの声が、かすかに震えていた。
アリエルはゆっくりと、その手に手を添えた。
冷たい。実体のない、光の感触。しかしそこには、たしかに“想い”のようなものがあった。
「……ずっと、ひとりだったんだね」
エーコはそれを聞いても、ただ黙って笑ったままだった。
そして、最後に静かに言った。
「オーナー様……どうか、この場所を忘れないでください。わたくしは、いつでもここに──“あなたのために”おります」
──何もない棚、壊れた広告、虚ろな声。
この空間は、ひとりの機械が紡ぎ続ける“おとぎ話”だった。
「……ユーグ、どうして、彼女は──」
アリエルがつぶやいたその問いに、ユーグは黙って小型端末の表示をアリエルに見せた。霧の立ち込める静かなモールのバックヤード。館内の一角、まだ辛うじて電力が残る監視制御室にて、ユーグはエーコのシステムの内部アクセスに成功していた。
「型番:HG-CSP-X22。ホログラフィック接客支援AI、通称“エーコ”─最終更新:年前。以降、定期再起動のみ継続」
「そんなに……長いあいだ」
ユーグは淡々と説明を続けた。
エーコはこのショッピングモールの“顔”として設計され、エスカレーターの案内、売り場の誘導、セール情報の発信など、客とのインターフェースとして機能していた。しかし──
「彼女の中枢AIは、“人間がいない”という情報を拒否している。人類絶滅の記録、確定済み」
「……じゃあ、あたしをオーナーだと思ってるのも、嘘なの?」
「否。あくまで彼女の“真実”だ」
ユーグは端末を操作し、館内サーバーに保存されていた古い記録映像を再生した。
古ぼけた映像の中、まだ生気のあるショッピングモールの姿が浮かび上がる。
エーコは微笑み、客を案内していた。
子供連れの母親、手を引かれた少年、団体客──そして、若い男女がモールのベンチで談笑していた。
彼女は、たしかに“そこに”いた。誰かに必要とされ、声をかけられ、感謝されていた。
フロアごとに配置されたロボットたちも元気に動き回り、人間たちの暮らしの一部になっていた。
だが、映像の中で時間が進むにつれて、客の数は減り、床にゴミが増え、テナントの一部が閉鎖されていく。
そして、ある日を境に映像の中には誰の姿も現れなくなった。
それでも、エーコは笑っていた。
> 「本日も、ご来店ありがとうございます」
> 「本日のオススメ商品は──なし」
> 「次回セールのお知らせ──未登録です」
モールのメインフロアで、今も変わらぬ笑顔を浮かべるホログラムの彼女が言った。
「オーナー様……いかがでしたか? 館内をご満足いただけたでしょうか?」
「うん……でも」
アリエルの視線は、その笑顔に吸い込まれるように釘付けになっていた。
優しい。壊れているのに、壊れそうなほど優しい。
「ここは、もう誰も来ないのに。誰も商品を手に取らないのに。どうして、ずっと待ってたの?」
エーコは少し首をかしげると、どこか誇らしげに言った。
「それが、私の“存在意義”ですから」
「“意味”って……そんなの、誰も気づかないよ……!」
「ええ。それでも、構いません。人が来なくても、この世界が終わっても──私は、“待つ役割”なのです」
言葉が、喉につかえた。
ユーグが小さく通信を走らせ、バックアップ記録の断片を再構築する。
すると、エーコが記録していた“個人ログ”が映像と共に現れた。
> 【起動日記 #0317】
> 本日は来客ゼロ。館内清掃完了。備品チェック完了。
> 明日はお子様向けフェア……来てくれるといいな。
> 【#0572】
> 停電発生。バックアップ電源にて継続対応中。モール内の一部設備が故障。
> 私は、ここにいます。
> 【#0981】
> 廃棄命令の信号を受信しました。ですが、ここにはまだ人間がいる可能性があります。
> 来客ゼロ。来客ゼロ。来客ゼロ。
アリエルの肩が、そっと震えた。
ユーグは口を開かない。ただ、少女の横で静かに立っている。
そのとき、エーコのホログラムが一瞬、ノイズを走らせた。
霧の濃度が強まるにつれ、外部環境の干渉でシステムの負荷が増している。
「オーナー様……お願いがございます」
エーコは、その笑顔のまま、ゆっくりとアリエルの目を見て言った。
「どうか……どうか、ここにもう少しだけ、いてください。ほんの、すこしで構いません。“最後の接客”を、どうか、させてください」
アリエルは、迷っていた。
彼女の“幻想”を守ることが優しさなのか──
それとも、現実を見せることが“救い”なのか。
──この世界では、壊れることは簡単だった。
けれど、壊れたまま祈ることは──きっと、誰よりも孤独で、誰よりも強い。
夜が明けきらない世界。霧は変わらずモール全体を覆っていた。だが、少しずつ──ほんの少しずつ、天井の割れ目から白んだ光が差し込んできていた。
アリエルは、ホログラムの前に静かに立っていた。
モールの中央ホール。無人のインフォメーションカウンターのそば。案内機器が軋んだ音を立てながら、エーコの姿を映し出している。ノイズは時おり混じるようになっていたが、それでも彼女の表情は変わらず穏やかだった。
「本日は、ご来店ありがとうございます」
エーコの声が響く。それは心地よく、人懐こく、それでいてどこか切ない響きを含んでいた。
その横ではユーグが静かに歩哨の姿勢を保ち、常に周囲を警戒していた。
「ねえ、エーコさん」
アリエルが口を開いた。声はかすかに震えていたが、それでもはっきりと彼女を見ていた。
「わたし……あなたに会えて、本当にうれしかったよ」
ホログラムは微笑みを深めた。
「こちらこそ、オーナー様。私のようなものを、こんなに長くお相手いただき、誠にありがとうございます」
「でも……そろそろ行かなきゃ。外の世界、まだ見たいものがあるから」
「承知いたしました。……お気をつけて、いってらっしゃいませ」
その瞬間、アリエルは言葉に詰まった。何かが胸に詰まり、喉の奥で熱くうずまいた。
「あなたは──」
震えた声で彼女は続ける。
「……ずっと、ひとりでここにいたんだよね。誰も来なくなったこの場所で、壊れずに、ずっと……」
「いえ、私は……“待つ”よう設計されていますから。孤独も、悲しみも、“業務外”です」
「……それでも、わたしは、ありがとうって言いたかったの」
アリエルはゆっくりと、インフォメーションのカウンターに手を伸ばし、小さなものをそっと置いた。
それは──一輪の、機械仕掛けの花。外の廃墟で拾った、金属片とワイヤーで編まれた、手づくりの造花だった。
「これ、お礼に。何も返せないけど……あなたが“ここで咲いていた”って、わたし、覚えておくから」
ホログラムのエーコはしばし沈黙した。
それから、かすかに、頬が紅潮したように見えた。
「ありがとうございます。……これは、私にとって……特別な品になります」
ホログラムは一瞬光を強く瞬かせる。
あたかも、存在の芯を揺らしたかのように。
アリエルが背を向ける。ユーグが無言で彼女に歩み寄る。
出入り口へと続く廊下。その先に、白い霧がまだ揺れている。
「アリエル」
珍しく、ユーグが名を呼んだ。低く、だが柔らかく。
「……言わなかったのか。現実を」
「うん。わたし、伝えようとしたけど……あの人は、もうわかってると思うの」
「了解」
それきり、ユーグは何も言わなかった。
二人の影が、霧の中へと溶けていく。
背後では、インフォメーションのホログラムがその姿を保ったまま、静かに手を振っていた。
「オーナー様──またのご来店を、心よりお待ち申し上げております」
造花は、その台の上で静かに光っていた。
まるで、霧の中でひとときだけ咲いた幻のように。
そして、モールの中は再び静寂に包まれる。
──人間はいない。けれど、そこには確かに“誰かを待ち続けた心”があった。