名前のない墓標に花を
丘の上を風が渡っていた。
擦れた草が音を立て、曇天の空に小さな雲が浮かぶ。文明の影もない道なき道を、アリエルとユーグは歩いていた。
先を行くアリエルと後ろを歩くユーグ。
「ねぇユーグ。この先、何があるの?」
返事はなかった。彼は、必要な時にしか話さない。
だが、ユーグは歩調をわずかに緩めた。地面の傾斜が変わることを感知した合図だった。
アリエルはそれだけで察して、足元の土を見下ろした。かすかに踏み固められた、獣道のような軌跡がある。風にさらわれた草の間から、崩れた石の柱が見えた。
「……誰かの、場所だったのかな」
道を外れて十数分。二人は古い、しかしどこか整えられた空間にたどり着いた。
そこは、小さな丘に沿うようにして並ぶ――墓標だった。
灰色の石が、無数に並んでいる。
整然としているが、どれも名札もなければ、花もない。雨に打たれて角が欠けた墓標たち。まるで誰からも忘れられた記号のようだった。
……いや。
「お花、ある……」
アリエルは気づいた。
墓標の一つ一つの足元に、小さな青い花が供えられている。
種類は一つだけ。見たことのない草花。
「ユーグ、あれ、誰かが置いてるんだよね?」
そのときだった。
草の向こうから、カシャン、という金属音が聞こえた。
目を向けると、いた。
一体のロボットが、ゆっくりと歩いてきていた。
白く塗られた装甲は剥げ、内部の骨格が露出している。
四脚で歩行し、背には小型のキャリア。その中には数十本の青い花が入っていた。
そして、そのロボットは墓標の前にしゃがみ、無言で、花を供えた。
「こんにちは……」
アリエルが声をかけると、ロボットは動きを止め、やがて首を傾けるようにしてこちらを見た。
『危険区域──立入──非推奨』
それだけを、平坦な電子音で告げる。
「でも、あなた、わたしたちを攻撃しないでしょ? ここはあなたが守ってるの?」
ロボットは答えなかった。だが、わずかに首を横に振ったようにも見えた。
『この区域──管理中。目的──供花。』
ユーグが前に出て、低く言う。
「型式古い。メイン動作は自治型。戦闘力、低」
アリエルはロボットに近づく。
「ねぇ。ここ、誰が眠ってるの?」
ロボットは数秒間沈黙した。そして、動作を再開して別の墓標へと向かう。
その背を追いながら、アリエルはふと気づいた。
「……名前、書いてない」
どの墓にも、文字がなかった。
数字も、マークも、識別もない。すべてが、名もなき石だった。
「誰がここに眠ってるかもわからない……」
アリエルはしゃがみ、近くの墓標に手を添える。
その石は冷たく、年月が削った痕跡だけが残っていた。
ロボットがまた一つ、青い花を供えた。
その花は、ほんの少しだけ、震えていた。
風が吹いた。
アリエルの髪が揺れ、ユーグの影が彼女の肩を覆った。
そして、ロボットが言った。
『目的──完遂まで──供花。記録──未完』
それは、「仕事がまだ終わっていない」という意味だった。
「でも、名前がわからないと……ほんとうに、その人のための花になるのかな」
誰のための祈りかもわからないまま、ただ供えられる花。
アリエルは、その“優しさ”が少しだけ、寂しいものに感じられた。
ユーグが一言だけ言った。
「……人類の埋葬地。記録喪失、可能性高」
風に花が揺れた。
誰のためでもなかったその場所に、ただ、一体の古いロボットが、今日も花を供えている。
日がわずかに傾きはじめていた。
夕刻にはまだ早いが、曇天の空は明暗の境目を曖昧にし、墓地全体が薄い青灰色の膜に包まれているように感じられた。
アリエルは、墓標のひとつひとつを歩きながら見ていた。
ロボットは黙々と動いている。青い花を運び、供え、また離れ、次の墓標へと向かう。──まるで呼吸のように、正確で、繰り返される動作だった。
アリエルは彼のすぐ近くまで寄って、じっと観察した。
「そのお花……どこから持ってきてるの?」
ロボットは作業を止めないまま、ほんの少しだけ顔を向ける。
『付近群生地──自動登録済。種識別──青種子 No.1139。採取・運搬・配置──現在稼働中。』
説明はあったが、会話のようではなかった。ただ、記録を読み上げるだけのような──義務の一部。
「でも、どうしてそのお花を?」
問いには答えず、ロボットはまた一輪を石の前に置いた。ユーグがアリエルのそばに近づいて、低く言う。
「丘の北側に小規模な自生地。ロボットはそこを定期巡回している」
「このお花、ずっとここに生えてるの?」
「おそらく数十年。希少性高。気候順応した特異種」
アリエルは青い花をそっと摘んで、胸元で大切そうに抱えた。
ロボットはそれを見て、わずかに動作を止めたように見えた。
『供花──任務対象物。採取、個人利用──推奨外行動。』
ユーグが言葉を挟んだ。
「反抗的行動ではない。対象は“感情”に基づく接触」
『感情──?』
ロボットが繰り返した。まるで、その単語だけが理解できないように。
「……感情って、たとえばね、だれかのことを思い出して、忘れたくないって気持ちとか、そういうのだよ」
アリエルは花を見下ろして言った。
「あなた、この人たちのこと、知ってるの?」
ロボットは首を傾けた。ほんのわずかな、問い返すような動作。
『知識──なし。記録データ──消失。埋葬者名簿──未登録。』
「でも、花を置くの?」
『目的──花供。命令──受信済。変更──不可。』
「命令って、誰から受けたの?」
『命令出力元──消失。通信──断絶。保守機能──継続中。』
その言葉に、アリエルはしばらく黙った。
それはつまり、こういうことだ──
命令した者はもういない。けれど彼は、命令が消えるまで仕事を続けている。
アリエルは膝を折って、そばの墓標の前にしゃがんだ。
無表情な石。誰のものかも、いつのものかも、何ひとつわからない。
「名前もないのに、誰のための花だろう……?」
ユーグが地面に小型スキャナを差し込んだ。データを収集し、墓標の材質、刻印の痕跡、空間の地形パターンを解析する。
「軍属領域。戦時中の簡易埋葬地。記録管理システムは焼却されている。復元困難」
アリエルは小さく息をのんだ。
「じゃあ……ここに眠ってる人たち、誰にも思い出されないまま?」
「──人類社会では、そうなる」
返答は短く、事実を淡々と述べるものだった。
ロボットはまた花を置いた。今度はその動作が、なぜかアリエルにはとても寂しげに見えた。
「ユーグ」
「……」
「もし、名前がないまま死んじゃったら、それって……本当にここにいたって、言えるのかな?」
「……名前とは、存在証明の一種。記録に残されなければ、歴史には刻まれない」
アリエルは顔をあげて、墓標を見渡した。
並んだ無名の石。そのひとつひとつの下に、誰かがいたというのに。
「名前、つけてあげたい」
ロボットがゆっくりと首を動かす。
『──命令対象外行動。不要──認識』
「でも、わたしは……名前がないままじゃ、いや」
アリエルはリュックから、小さな石のかけらを取り出した。それは旅の途中で拾った、黒曜石の破片だった。
墓標の一つに、ゆっくりと、手を添える。
そして、ごく簡単に、こう刻んだ。
「ここに、ルナという人が眠っています」
ユーグがそれを無言で見守り、ロボットは動作を止めた。
アリエルは石を握ったまま、言った。
「ここに名前があるだけで、もう、忘れられないよ」
『名前──……記録外構文。照合──不能。』
「照合できなくてもいい。ほんとうにいたか、なんて……わたしが信じてるから」
石片で墓標をなぞるアリエルの手は、時間とともに慣れてきていた。
最初は恐る恐るだった。けれど今は、迷いのない筆運びで、短くも温かい名前が一つひとつ、墓の表面に刻まれていく。
「ここに、アオというひとが眠っています」
「ここに、マキというひとが眠っています」
「ここに、ソウタというひとが……」
名前は、アリエルが耳にしたことのある響きから、あるいは思いつきから取った。けれど、それでも十分だった。
どの墓標も、名前が記されることで、たちまち“無名の石”から“誰かの記憶”へと姿を変えるように思えた。
その横で、ロボットはゆっくりと作業を続けていた。
しかし、アリエルが一つ名を刻むたび、ロボットの動作は微かに遅くなる。まるで、ほんの一瞬、考える“間”のような時間が挿し込まれている。
「……ユーグ、これってやっぱり……ロボット、感じてるのかな?」
「──反応しているのは事実。メモリ内部に変動信号。外部刺激による再帰現象と考えられる」
「再帰……?」
「過去の命令、記録との照合。新たな情報との衝突。記録喪失中のデータが再活性化される可能性がある」
ユーグの説明は相変わらず簡潔だったけれど、アリエルはなんとなく理解した。
──名を刻むたびに、ロボットは“記憶の底”に触れているのかもしれない。
その証拠に、ある墓標の前に立ったとき──ロボットは完全に動きを止めた。
その墓は、ほかのものよりも少しだけ磨かれていた。
ひときわ丁寧に、風の当たりにくい向きに置かれ、根元には他よりも多く、青い花の枯れ残りが積まれている。
アリエルはそれを見て、足を止めた。
「……ここ、たくさんお花がある」
ロボットは無言だった。
けれど、ほんのわずかに両腕が震えていた。
アリエルは石片を手に、静かにその墓標の表面に触れる。
「ねぇ、この人……あなたの、大切なひとだった?」
風が、答えのように吹き抜けた。
ロボットのセンサーが、音もなく赤く灯る。
そして、かすかにノイズの混じった電子音声が、唸るように始まった。
『……記録再生開始。年月──記録不明。記録元──ユニット・M001。』
映像ではなかった。ただ、淡い、音と感情の記録のような断片が語られる。
『……彼女ハ……ココデ 工場内ノ整備ヲ担当……自分ハ 副任務トシテ、墓標管理ニ配属。……花ガ スキダッタ……』
その音声は、途中から機械語とノイズに混ざりはじめる。けれど、たしかに“彼女”という存在を語っていた。
ユーグが解説を加える。
「該当記録は戦時末期。個人名不明。『彼女』という存在が、埋葬された個体である可能性高」
「じゃあ……このお墓だけは、ほんとうに誰かがいるの?」
アリエルは、石片を握りしめた。
そして、誰にも聞こえないような声で、囁いた。
「……名前を、つけてあげなきゃ」
石の上に、ゆっくりと文字が刻まれていく。
**「ここに、リナというひとが眠っています」**
思いつきだった。でも、やさしい響きがその場に似合っていた。
──その瞬間。
ロボットが、動作を止めたまま、ぽつりとつぶやいた。
『……リナ……?』
その声には、先ほどまでの機械的な無機質さが、わずかに揺れていた。
『……違ウ……デモ……似テイル……』
アリエルがふと、ロボットに向き直る。
「忘れちゃったの?」
ロボットはしばらく黙っていた。
そして、再び電子音声で、ゆっくりと答えた。
『記録ナイ。……名前、消エタ。声、記憶、花ノ香リ、指先、残ッテイル。……ナノニ、ナマエダケ、無イ。』
それは、あまりに人間らしい答えだった。
アリエルはそっと頷いた。
「だったら、この名前はね、ぜんぶ忘れないように、私があげたの。……わたしが、ここに来たからできること」
ロボットは静かに動き出した。
リナと刻まれた墓標の前に、新しい青い花を、そっと置いた。
そして言う。
『……コノ墓標ダケハ、名前ヲ、忘レタクナイ。』
アリエルは笑った。
「うん。わたしも覚える。──“リナさん”だね」
青い空に、少しだけ陽が差した。
その墓標の前で、アリエルは長くしゃがみ込んでいた。
指先で石の表面をなぞりながら、最後の言葉を選ぶように、ゆっくりと。
「──あなたの名前は、ソラさん」
小さな声で、彼女は言った。
墓標に文字を刻む。
「ここに眠るのは、ソラさんです」
静かに、その音は風に溶けていった。
ロボットは、すぐそばに立っていた。今までと変わらず、規則的な作業の合間に立っていた──はずだった。
だが、今回は違う。
刻まれた“名前”を見つめたまま、ロボットはぴたりと動きを止めた。
『──……記録受信。』
それだけ言ったあと、しばらくの間、無音だった。
そして。
『……仕事、完了。』
ロボットはそう、呟いた。
アリエルは目を見開いた。
「え……?」
それまで延々と繰り返されていた動作──花を摘み、持ち、供えるという仕事──が、初めて“止まった”。
両腕は下がり、花を持つ動きもやめ、胸のあたりに抱えていた最後の花をそっと摘み取る。
そして、それを。
自分の胸元へと、ゆっくりと、差した。
ユーグが隣で動きに反応する。
「……役割の完了を自己判断。プロトコル逸脱。……珍しい個体だ」
ロボットはアリエルを見た。
その視線に、何の意図も命令もなかった。けれど、彼女には──それが“ありがとう”に見えた。
『記録、終了。任務記録ファイル──保存完了。』
かすかな電子音が、ロボットの内側から鳴った。
次の瞬間。
その光が、ふ、と消えた。
ロボットは、まるで眠るように動作を止めた。
胸には青い花。風に吹かれても落ちることのない、小さな一輪。
彼はもう、仕事を終えたのだ。
アリエルは、立ち上がった。
静かに、最後の一輪の花を拾い、ロボットの隣に並んだ墓標の前へと歩いた。
そこには、あの名前──「ソラさん」──が刻まれている。
彼の記憶に、彼の心に、何があったのか。それは、もう誰にもわからない。
けれど、それでも。
「ソラさん、あなたを覚えてる人がいるよ。わたしが──ちゃんと、覚えてるから」
アリエルは最後に花をそっと供え、立ち上がる。
「行こう、ユーグ」
ユーグは無言で頷いた。重々しい足音を立て、彼女の隣に立つ。
二人は、来た道を戻りながら、小さな丘を下りていく。
背後に残されたのは、整然と並ぶ無名だったはずの墓標たち。
いまでは、その多くに名前がある。
誰のものでもない名前かもしれない。
でも、その名を知る者がいる限り、それは“確かに誰かがいた”という証になる。
風がまた、吹いた。
青い花びらが一枚、墓標の間をすり抜け、空へ舞い上がっていく。