音を探すラジオ塔
「……あれ、見て、ユーグ。塔、みたい」
荒野を越えてしばらく進んだその先。
地平線の彼方に、錆びた鉄骨が突き刺さるようにそびえ立っていた。高台の上に孤独に立つそれは、かつて何かを発信していた――ラジオ塔だった。
アリエルは背負っていたリュックを下ろし、息を整える。
彼女の隣を歩くロボット――ユーグは、周囲を見回しながら応える。
「構造物、推定高度40メートル。アンテナ塔。目的:情報通信」
「まだ動いてるのかな? 電波とか……ラジオとか?」
「機能停止の可能性が高い。しかし──」
ユーグの目が、一瞬だけ塔の根元を見据える。
「……微弱な信号を感知。人間時代の周波数規格に一致」
「えっ、それって……!」
アリエルの瞳が輝く。
この終末の世界では、もはや“人の声”を聞くことはない。
記録の中の文字、風化した写真、サビついたスピーカーの残骸が、かつての人類を伝える手がかりだった。
けれど――声が、電波が、今もどこかで生きているかもしれない?
アリエルは躊躇なく、塔へと駆け出した。
* * *
塔の麓には、傾いた小屋があった。
扉は壊れ、窓も割れていたが、内部には意外なほど多くの機械が残されていた。
「これ……古い受信機? 送信器?」
積み上がったコンソール。モニター。切れたコード。
しかし中央の装置だけは、かすかに緑色のランプを灯していた。
「電源、生きてる……!?」
「塔本体は自動送信型。内部電源の残存、及び太陽光補助電池による維持運転の可能性。非常に稀な例」
ユーグは古いターミナルに接続し、素早く分析を始めた。
アリエルは慎重に端末の前へ座り、ダイヤルをゆっくり回す。
「……ザーー……ガ……ザー……ッ……」
「……き……こ……え……る……?」
一瞬、ノイズの隙間から“音”が聞こえた。
誰かの――微かな、子どものような声だった。
「今の、誰か……!」
「再現困難。だが録音ログの断片と一致。再生可」
ユーグが操作すると、ターミナルのスピーカーからノイズ混じりの音が流れた。
──「……きっと、誰か、聞いてるって……」
──「これがさいごの、ラジオ、になるかもしれないけど……」
──「わたし、ママに、伝えたいことがあるの……」
アリエルは、その音に耳を澄ませた。
それは今にも消えてしまいそうな、かすれた電波の波。
しかしたしかに、そこに「言葉」があった。
「ねえユーグ、この声……どうして、今も流れてるの?」
「自動送信システムによる周期再生。音声記録が上書きされず、定期的に発信されている。過去の信号が、今なお再生されている」
「……だけど、それって──今も“届いてる”ってことだよね?」
「現在、受信機を持つ者は極めて少数」
「それでもいい」
アリエルは、ふっと笑った。
この世界には、もう人間はいない。
声を届ける相手も、返事をくれる者もいない。
でも。
「声」がまだここにあるという事実は、まるで過去がいまも世界に残っているようで。
彼女はそっと、自分の胸に手を当てる。
「……この塔の中、もっと調べてみたいな。全部、聴きたい」
「了解。安全確認を継続。上層部は老朽化のため注意」
「ありがとう、ユーグ」
塔の扉を開けると、錆びた階段が軋む音を立てた。
でもそこには、まだ誰かの“声”が残っていた。
空はゆっくりと茜色に染まり、塔の先端に風が吹く。
アリエルとユーグは、その声の源をたどるように、ラジオ塔の内部へと歩き出す。
塔の中は、まるで忘れられた機械の墓場だった。
さびついた階段を上り、朽ちた配線を避けながら、アリエルとユーグは慎重に上層へと進んでいく。
壁に貼られた古びた掲示物、紙の端がカールした周波数表、そして、使用者不明のコートがフックに掛かったまま揺れている。
「ここ……誰かが、ずっと使ってたんだね」
アリエルはコートに指先を触れ、そっとなぞるように撫でた。
その布はすでに硬く乾き、命の温度は残っていない。だが、不思議なことに、彼女には“暮らしの匂い”が感じられた。
その奥に、ラジオ塔の中枢室があった。
そこには大型のラックが幾つも並び、記録ディスクやチップがびっしりと収められていた。
ユーグが端末を調べると、幸いなことにいくつかはまだ読める状態であると判明した。
「記録媒体:磁気型カセットおよびチップ式音声記録装置。人間時代の通信ログと思われる」
「再生してみよう、お願い」
ノイズ混じりの信号が、薄暗い室内に響いた。
──「こちら、避難区画3、応答願います……繰り返します、医療支援を──」
──「停電で冷却機能が……もう、子どもたちが……っ」
──「……最後の希望として、この周波数を保存します……」
──「誰か、聞いてますか……?」
声の主は様々だった。
男性、女性、老人、兵士、医師、教師……。
いずれの声も切迫し、震え、時に静かに、時に叫ぶように。
「……こんなに、たくさん……」
アリエルは声の海に、飲まれるように耳を傾けた。
その中で、ひとつの声が――記憶のように、彼女の心に触れた。
──「ママ、聞こえる? わたし、ラジオからしゃべってるよ」
それは、少女の声だった。
無垢で、幼く、だが不思議と落ち着きのある響き。
──「おうち、もうないけど、でもね、わたしはここにいるの」
──「ママが言ってたよ。“声は届く”って。だから、がんばって話してみてるんだ」
アリエルはそっと、胸に手を当てた。
ラジオ越しの声は、時間を超えて彼女の胸に触れてくる。
それは、ただ記録された音声でしかない。けれど、そこにあるのはたしかな“想い”だった。
「……この子の、声。最後の……メッセージだったのかな」
「録音時刻、他ログより後。最終送信データとの一致。」
「最後まで、呼びかけてたんだね……誰かに」
ユーグは黙って頷く。
彼は余計な言葉を口にしない。だがその静かな沈黙は、アリエルにとって充分だった。
塔の窓から、夕暮れの風が吹き込む。
遠くの地平線が、濃い紫に染まりかけていた。
その中で、塔のアンテナだけが空に向かって、まるで今も“声”を放っているように見えた。
「ねぇ、ユーグ。もし、この声が、いまも誰かに届いたとしたら──」
「可能性:極低。しかし、否定できない」
「うん……でも、わたしには、ちゃんと届いたよ」
アリエルは録音機の前に座り直した。
再生ボタンを押せば、また彼女の声が聴こえる。
ただそれだけのことが、こんなにも胸を揺らすなんて。
──「わたし、まけないよ。だって、声があるもん」
──「きこえるかな、ママ。わたし、ちゃんといるよ」
──「ママ、だいすき……ずっと、だいすき……」
その言葉が、空に染み込んでいくようだった。
記録は、ここにあった。
誰にも届かないはずのメッセージは、いま確かにアリエルに届いた。
「この声、わたし……ちゃんと、持って帰りたいな」
「記録の複製、可能。送信ログの解析により、詳細なデータ修復も試みる」
「ありがと、ユーグ」
アリエルの声は、どこか切なげで、それでも嬉しそうだった。
まるで失われた日々に触れたように、彼女はその場に座り込んだまま、何度も録音を再生し続けた。
「──信号の欠損部分、復元率およそ84%。再構築開始」
ユーグの金属の指先が、旧式ターミナルの端子をいじる。
数十年が経った部品は、その大半が劣化していたが、ユーグの手際は正確だった。
ラジオ塔の中枢にある記録装置──それは、壊れかけた機械の塊に過ぎなかった。
けれど彼の目には、再構築可能な“断片”として映っていた。
人間なら手を出さないであろう回路の迷路に、無音の中でユーグは淡々と手を動かす。
アリエルはそのすぐ傍で、丸くなって彼の作業を見ていた。
「ユーグって、すごいね。こんな古いの、直せるんだ……」
返答はなかった。
けれどユーグは、ごく僅かに首を動かし、肯定の意を示す。
アリエルは、目を細めてスピーカーに耳を澄ます。
小さな音の断片が、組み上がっていく。
それはまるで、壊れた風景を少しずつ塗りなおすような、かすかな修復作業だった。
「……この声の子、どんな子だったんだろう」
ぽつりと、アリエルがつぶやく。
「名前も、年も、わからないのに。不思議と……近くにいるみたいな気がして」
「音声パターンの特徴から推定。女児、推定年齢七歳前後。南東区の訛り有。発信記録は終末直前のもの」
「終末、って……人が、いなくなる直前?」
「そう」
それ以上は言わなかった。
ユーグは、アリエルが知っている事実の線を越えようとしない。
それが彼なりの“優しさ”であることを、アリエルも知っていた。
やがて──再生の準備が整った。
「信号、復元完了。記録音声、再生する」
スピーカーから、ひとつの“物語”が、流れ出した。
──「……きょうは、おそらもとっても静かです」
──「みんな、避難して……だれもいません」
──「でも、ママが言ってました。さいごに、“声”をのこしてって」
──「だから、いま、わたしはしゃべってます」
その声は、幼かった。
でも、驚くほど丁寧で、まるで誰かに読み聞かせるように話していた。
──「ママ、もし聞こえたら……おうちに、かえってきてね」
──「おおきな塔があるの。そこから、わたしの声が、でてるから」
──「わたし、こわくないよ。まってるよ。ずっと、まってるから」
その音声は、記録としては完全に残っていた。
終末の混乱の中、彼女だけが塔に残され、誰に教えられたのかラジオを使ってメッセージを送り続けていた。
「……この子、ひとりで、ここにいたんだ」
アリエルは、塔の小さなベンチに座りこみ、目を伏せた。
時が止まったようなこの塔で。
ひとり、誰かに届くことを信じて、話しかけていた。
それはあまりにも切なくて、あまりにも健気だった。
「……ずっと待ってたのに、誰にも届かなかったんだね」
「届いた」
ユーグが、ぽつりと呟いた。
「君が、聞いた」
アリエルは、驚いたように彼を見た。
──そうだ。たとえ誰にも届かなくても。
でも今、たしかにアリエルには届いた。
そして、彼女がこうして聞いたことで、もうその声は“忘れられたもの”ではない。
ユーグは、古いディスクからデータを抜き出し、タブレットに転送する。
最初の、そして最後の放送。それはこの塔に刻まれた、たった一人の“音”。
「ねえ、ユーグ。この子のこと……誰かに、伝えたいな」
「手段:限定的。しかし──再送信、可能」
「……できるの?」
「一度だけ。残存エネルギーによる短波通信。範囲は限定。内容:任意設定可」
アリエルは、端末の前に立った。
指先をマイクに触れ、深呼吸する。
「──あのね。これは、わたしから誰かへの手紙」
塔の内部に、少女の声が広がる。
「ある子の声を、聞いたの。とてもやさしくて、とてもつよかった」
「……その子の声が、いま、わたしのここにいる理由です」
アリエルの瞳は、空を見上げていた。
「もし、聞こえていたら──わたしは、この塔にいたよって、誰かに伝えてほしい」
「そして、あなたの声が、ちゃんと届いたって」
静かに、送信スイッチが押される。
塔のアンテナが、ひときわ強く電気を走らせた。
短い時間、空の遥か先へ向けて、“音”が飛んでいく。
たった一度だけ、もう誰もいないかもしれない空へ。
塔の頂上で、アンテナが静かに揺れていた。
電波の発信が終わったあとも、鉄の骨組みはわずかにきしみながら風を受けていた。
まるで見えない誰かと語らうように。
「送信完了。全エネルギー、消費済み」
ユーグが淡々と報告する。
塔の制御盤には、静かに「OFF」のランプが灯り、これで完全に機能を停止したことが分かった。
アリエルは、手のひらでマイクに触れながら、小さく笑った。
「……ほんのちょっとだけ、泣きそうだった」
「記録音声に、感情反応。正常」
「うん、ありがとう。……ユーグ」
塔の下に戻ると、赤く沈みかけた夕日が地平線に沿って世界を照らしていた。
影が長く伸び、朽ちた鉄骨の隙間から、光がひとすじ、塔の内部を貫いていた。
荷物をまとめながら、アリエルは足元に転がった古びた椅子を見つける。
その上に、ちいさなクマのぬいぐるみが置かれていた。
片耳がちぎれ、ボタンの目はひとつなくなっていたが、アリエルはそれを手に取ると、そっと抱きしめた。
「……この子も、ずっと待ってたんだね」
部屋の片隅、埃をかぶった床に、小さな布の痕があった。
誰かが長くそこに座っていたような、そんなわずかな跡だった。
「KR、残存個体──なし」
ユーグが報告する。
「この塔には、もう可動ロボットはいない。完全沈黙」
アリエルはうなずく。
けれど彼女の視線は、まだ残された何かを見つめているようだった。
ふと、コンソールの隙間から見えた銀色のケースに目が留まった。
「……あれ?」
手を伸ばすと、中から小型の記録デバイスが出てくる。
そのケースには、古びた文字でこう刻まれていた。
**『ラジオ日誌:ユイ』**
「ユーグ、これ……」
「該当名、音声ログの記録者と一致。推定:少女“ユイ”」
アリエルはケースを胸に抱えた。
「この子の名前、ユイっていうんだ」
ようやく、名前を得た少女。
ラジオを通じて語りかけていた、あの優しい声の主。
名前がわかるだけで、こんなにも心が温かくなるなんて。
「……ユイちゃん。あなたの声は、ちゃんと残ってたよ。ちゃんと誰かに届いたよ」
塔の外に出ると、風がアリエルの髪を優しくなでた。
陽はほとんど沈みかけていて、塔の鉄骨が夕闇に黒く沈んでゆく。
「行こう、ユーグ。……次の場所へ」
「了解。周囲地図、次の地点:旧信号所跡。距離およそ22km」
「また、誰かの“音”があるといいな」
「確率:未知数」
「……でも、あるかもしれない。きっと」
アリエルは笑って歩き出す。
その手には、小さなクマのぬいぐるみ。
そして胸元には、ユイの名が刻まれた日誌の記録デバイス。
この世界は、音のない静寂に包まれている。
だが、それでも──
誰かが残した声が、そこかしこに“生きている”。
足音が、塔から離れてゆく。
アリエルとユーグは、廃れた道をゆっくりと歩いていく。
その背中に、風が吹く。
さびついた塔のてっぺんで、最後にひとつだけ、
──コトン、とボルトが外れて地面に転がった。
──廃ラジオ塔には、もう誰もいない。
けれど今、ひとつの名を持った小さな声が、そこに残された。