1.遅刻しかけて
──朝、学園街外れの静かな住宅街。
朝霧が残る石畳の道沿いに建つ一軒家。その二階の一室から、突如として爆音めいた悲鳴が上がった。
「うわああああああ!?!?!?!?!? やばい、もうこんな時間!?!?!?」
ベッドから盛大に転がり落ちたのは、教員シャツを片袖だけ通したまま寝ていた寝癖全開の女性──エミリア・ブライトだった。
長く流れるような金髪を持ち、整った顔立ちに凛とした気品をまとった若き教育者。普段は冷静沈着なパンツスーツ姿で生徒や教職員の信頼を集める才媛であり、知的でクールな外見と芯のある物腰が印象的だ。
だが今この瞬間は、寝癖で跳ね上がった髪が額にかかり、片袖だけ通したシャツ姿で床を転げ回るという、普段の姿からは想像もつかない有様だった。
目を開けた瞬間、壁時計の針を二度見し、絶叫する。
「七時四十五分……って、始業十五分前!? どうして誰も起こしてくれなかったの!? アラームどこいったの!? あああああ!!」
寝巻きのシャツを脱ぎ捨て、クローゼットを引っ張り出すと同時に、床に散らばる書類を蹴飛ばす。ネクタイ、ベスト、スカート、靴下が部屋の空中を舞った。
「朝食!? 無理! 水だけ飲んでポーションだけ持って……あれ!? 教科書どこ!? 提出物!? わたし昨日ちゃんとカバン詰めたっけ!?!?」
ドタバタという効果音を実体化したような騒音に、階下からのんびりとした声が届く。
「うるせぇぞ姉ちゃん。今日、午後からじゃねーの?」
「うるさいはこっちよ!! 違うのよ今日は特別に第一演習クラスの補講監督で──って、ちょっと、なんでアンタがそんなに落ち着いてるのよ!!」
その声の主、つまり階下のリビングにいたのはもちろん──サンゴ・ブライト。
ソファに寝転び、片手にバター塗ったトースト、もう一方の手には折りたたみ魔導新聞。
どこにでもいそうな顔立ちに黒に近いダークブラウンの髪、ラフに流れた前髪が目元を半ば隠している。
表情はどこか気だるげで、周囲の騒がしさにも一切動じる気配がない。
その佇まいには、不思議な“落ち着き”と“場慣れ”が漂っていた。
エミリアは階段を踏み抜きそうな勢いで一階へ滑り降りてくると、鞄と教科書をかき集めながら叫んだ。
「なんで私より先に起きて新聞読んでトーストなんて優雅に──!?」
「だって俺、特別講師だから基本授業は受け持てないんだろ?来週辺りから適当に学園行って言われた授業をやればいいって昨日あのハゲジジイからもらった書類に書いてあったぜ。」
サンゴは肩をすくめ、口の端でだけ笑いながら返す。
「……ちょっと待って。あんた、今日から私の助手って話、忘れてないわよね?」
「……は?」
サンゴがトーストを止め、新聞から顔を上げる。
「いや、俺、午後は昼寝の予定が」
「却下。今週は第一演習クラスで補講助手をやるって承認されてるの! 教室まで一緒に来なさい!」
「ええ〜……午前の空き時間って超貴重なんだけど」
「甘えるな! そもそも最近アンタの飯と寝床の世話は誰がやってると思ってんの!」
「俺、今“教師らしい仕事”してたんだけど。新聞読んで情報収集──」
「黙ってとっとと靴履けぇ!!」
エミリアの叫びに、サンゴは渋々新聞をたたみ、パンを口にくわえたまま玄関へ向かう。
「はいはい、行きゃいいんだろ……。あーもー、ちゃんとした靴どこだっけ」
「朝から余裕ぶってる人が一番準備遅いのほんと謎!!」
いつの間にかピシッとスーツを着こなしているエミリア。
二人分の足音がバタバタと響きながら、玄関の扉が開く。
サンゴはため息混じりに言った。
「つーか、俺まだここの生徒でも教師でもねーんだけどな……」
「今日からは“助手”です。つまり“部下”です。はい、急いで」
「そもそもなんで俺が“助手”なんだよ。普通もっと経験ある奴がやるもんじゃ──」
「だ・か・ら、あなたしか空いてなかったの。あと、学園の一部教官が“現場経験者の視点”を入れろって提案してきたのよ」
「……誰だよそんな余計なことを」
「“実戦主義は無意味”って言い続けてきた人が急に黙ってくれたから、私は助かったけど」
「皮肉なもんだな」
「皮肉で済めばいいんだけど。サンゴ、ほんとに何か起きたら──ちゃんと逃げていいからね」
「おいおい。心配してんのか?」
「心配してるに決まってるじゃない。……あんた、昔から“引き際”だけは下手だったもの」
「…………お前、ほんとズバズバ言うよな」
「教師ですので」
結局、二人はそのまま言い争いながら、学園へと並んで向かうのだった。
朝の通学路。
白く明るい日差しの中、エミリアのきちんと整えられたパンツスーツの背中と、ラフなシャツを羽織ったサンゴのだらしない歩き方が、微妙に合わない足取りで並んでいる。
けれど、不思議と周囲の目には、それがとても自然に映っていた。