ヴィラン
僕のこの巨大な身体から伸びる影が、街を広範囲に渡って陰らせている。点ほどに見える人々が、悲鳴を上げて僕から遠ざかっていく。
その様子をぼんやりと眺め、僕はゆっくりと息を吐き出した。口から、高温の水蒸気が漏れ出ていく。
手を持ち上げて、おもむろに薙ぐ。その瞬間、すさまじい爆風が巻き起こり、辺りの道路を剥がして車や街路樹とともに吹き飛ばす。
いつの間にか使い方を知っていた長い尻尾を鞭のようにしならせ、近くにあったビルに叩きつける。すさまじい破砕音と、瓦礫が街に降り注ぐ。
今の行動だけで、何人が死んだだろうか。
僕はそんなことをぼんやりと思った。
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正義を信じていた。
地球が美しくなるような、人々が悲しみの涙を流さないで済むような、そんな絶対の正義を。
僕が信じて働きかけていれば、人々が誰にでも無償の愛を捧げられるようになると、悪事を働いた人間も罪を償わせ寄り添えば更生するのだと、そんな性善説を信じていた。
ゴミを拾い、困っている人には手を差し伸べ、いじめが起これば割って入り、犯罪が報道されれば犯人へ手紙を書いた。
子供の頃憧れた、テレビの中のスーパーヒーローのように、形のある悪を倒すことはできないかもしれない。だけど、それでも世の中は少しでも良くなると思っていた。
だけど、そんな都合よくはいかなかった。ゴミを拾っていれば嘲笑うように目の前で吸殻を捨てられ、無償の善意はいいように使われ、いじめの矛先は僕に向き、寄り添った犯人は再犯を犯した。
僕の正義と、大衆の言う正義は、そもそも根本が違っていたのだろう。
僕は皆の平穏と、世界の平和が、
大衆は自己の幸せだけが、
それぞれの正義という言葉の意味だったのだ。その事実にぶつかっても、それでも僕は目をそらし続けた。もっとも正しいことが、やはり間違っていることだとは思いたくはなかったから。
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僕は一歩を踏み出した。鋭く、そして歪な形をした爪が道路を割り、その下の地面に食い込む。何を踏んだのか足の下で爆発が起こり、そして火炎が産声を上げた。逃げ遅れたらしい老人が、その炎に包まれている。
そのまま、数歩歩く。振り返ると、踏みにじんだ場所と引きずった尻尾の跡が面白いように街に刻まれていた。踏みつぶしたらしい人々だった物が、地面と混ざり合ってスライムのようにへばりついている。地中から掘り起こされて破損した給水管と排水管から、勢いよく水が溢れ出していた。
至る所から煙が立ち上り、ひっくり返った車から絶えずクラクションが鳴り響いている。僕はその耳障りなクラクションを消すために、車に向かって尻尾を振り下ろした。爆発にも似た炸裂音と、すさまじい地面の揺れが、街をさらに崩壊させた。
視線を足元に移すと、僕の右足の近くを二人の子供が手をつないで走っていた。
僕は目を細め、彼らは兄弟だろうかと考えながら、足を僅かにずらして、子供をすり潰した。
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今でも時折夢をみる。最悪だった高校時代の夢。
高校生の頃、オダというクラスメイトがいた。
気弱で、勉強も運動も苦手な彼は、いじめをする人間にとっては格好の獲物だったのだろう。その高校に入学してすぐに、いじめられるようになった。内容といえば、みんなの前で揶揄われたり、軽く小突かれたりする程度だったが、しかしそれがすぐに深刻化するのは目に見えていたから、僕はすぐに彼を庇った。
当然、いじめていた彼らは僕に怒号を飛ばし、殴りかかってきた。怯んだが、それでも僕は弱きを守るという正義のために立ち向かった。結果、僕は身体中に痣や擦り傷ができるほどに痛めつけられたが、いじめられていたオダは無事に済み、そして次の日からぱたりと彼に対するいじめはなくなった。
いじめはなくなった。が、しかし次は僕がいじめのターゲットになった。それはオダが受けていたものよりも遥かに過激で、遥かに陰湿なものだった。
当然、僕はそれにも挫けずに彼らに立ち向かった。教科書を破かれようと、執拗に殴られようと、母が作った弁当を踏みにじられようと、それでも立ち向かい、そしていじめは悪なのだと説き続けてさえいれば、いつかはこれも治まり、彼らも改心するだろうと信じていたからだ。
だけど、現実はそうはならなかった。
いじめを行っていたその数人のグループは、ついには沈黙を貫いていたクラスメイトにも僕をいじめるように促し始めたのだ。それも、自分たちが強要させた形にならないよう、遠回しに、しかし拒絶は許さぬ形で、クラスメイト達を仲間に引き込み始めた。それは、彼らがもともとターゲットにしていたオダも例外ではなく、彼にカッターで僕の腕を切るように仕向けたのだ。
トイレの個室の中で押さえつけられた僕の許へ、オダはカッターを握りしめてゆっくりと近づいてきた。目の前で立ち止まった彼と、僕は一瞬だけ目が合った。あの目の色を、僕は忘れることはないだろう。
自分じゃなくて良かったという安堵、僕に対する憐憫と同情――そして、確かな加害者が宿す好奇と嘲笑の目。
カッターで切られた腕の痛みなど、覚えていない。それを遥かに凌駕する痛みがあったから。
あの瞬間、僕は生まれて初めての絶望を知った。
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尻尾を地面に叩きつけ、そのまま自分の身体を軸に半円形上に引きずった。まるでスクラッチを削ったように、街がすさまじい土煙とともに抉り取られた。
歩道橋を踏みつけ、公園を壊し、小学校を薙ぎ倒す。
そうやって破壊だけをして僕は街の上を歩き続けた。そうしていると、やがて辺りには背の高いビルの数が増えてきた。どうやら栄えている場所にやって来たらしい。この巨大な身体だからか、思っているよりも早く着いたようだ。
僕はそんなビル群の前で足を止め、そして腹の奥底に力を込めた。
熱が生まれる。すさまじい熱。ゆっくりと脈動するように、その熱は確かに高温へと育っていく。
腹の奥底から、それはまるで活火山の活動のように徐々に胸へ、そして喉へと上昇していく。
僅かに口を開いた。喉の奥から、ちらちらと青白い火花が姿を見せた。それらは風に流されてどこかへと消えていく。
身体が、内側から焦げていっているのがわかる。液状化した内臓が、すさまじい高温によって流動している。
口を、限界まで開いた。
その刹那――視界の中が、純然たる白で塗りつぶされた。
それが、いっそ熱だとは感じないほどの圧倒的な灼熱と、音すらも飲み込む絶対的な衝撃が、たった一瞬だけ街を包み込んだのだ。
小さな『太陽』の顕現。
視界が、徐々に景色を取り戻していく。そこにもう街はない。天まで届きそうなほどのキノコ雲。そして、漆黒の雨。
自ら作り出した熱によって溶かされていた体内が、すでに修復を始めている感覚が確かにある。
僕は暫く、そこに立ち尽くした。
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ほとんど意地で高校を卒業した後、僕は大学で司法の勉強を始めた。頭は良い方じゃなかったけれど、しかし、あの高校の時の絶望をどうにか覆したくて、どうしても人々の善性を信じたくて、僕はがむしゃらに法律と向き合った。
もちろん何度も挫折しかけた。優秀な者たちが悠々と僕の隣を通り過ぎていくのを尻目に、朝も夜も、脇目も振らずに法律を頭に叩き込んだ。そして、やっとのことで僕は司法試験を突破し、その後の司法修習をやり遂げ、修了試験をもクリアした。そうして晴れて、裁判官としての人生が始まった。
様々な人間を見た。卑屈な者、寡黙な者、臆病な者、冷酷な者、人間性が欠落した者。
様々な犯罪を見た。強盗、強姦、盗撮、暴行、詐欺、拉致、放火、不法侵入、殺人。
犯罪者の譫言を聴き、被害者の嘆きを聴き、そして罪に罰を与える毎日。明るい話題など耳にすることなどほとんどなく、湿った薄暗さばかりが辺りに漂うような日常。
僕はその生活を数年間続け、そして二度目の絶望をした。
この世に、僕の信じた正義なんてなかった。性善説なんて幻で、人々の本質は性悪説だと、嫌でも知らされた。
人々は、まるで呼吸をするように人々を傷つけ、それに気づかないふりをして生活をし、不意に誰かに傷つけられたら自分は善人だと、被害者なのだと喚き散らす。
もう、僕は人間に愛想を尽かせていた。人間そのものが悪なのだから、僕一人がどれだけ正義を掲げたところで、どうにもならなかった。
今いる人類に正しさを説くことは不可能だと悟った。どこまでも無駄な事だと、そう気づいてしまった。
だから僕は、今いる人々じゃなく、これから生まれてくるであろう人々を救おうと思った。これ以上、人々が悪を重ねないように。人々がこれ以上傷つかないように。
どうすればいいか? そう何度も何度も自問自答を繰り返して、たった一つの結末に行きついた。
全人類の殲滅。
人類という種が存在する限り、悪は無くならず、誰かが傷つき続けるのなら、もうそうするほか道はなかった。
僕がその結末に行きついたとき、その瞬間に、それは起こった。
どういう原理かなんてわからない。何が起こったのかすらもわからない。
ただ一つ、純然たる事実として、僕の身体は化け物へ変化し始めた。
そうして、ただ破壊をするためだけの存在へと、僕は成った。
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僕は破壊だけをして、街から街へと渡り歩いた。可能な限りの徹底的な破壊と、そして殲滅。
爪で裂き、牙で砕き、尻尾で薙ぎ、足で潰し、熱線で灼いた。
一つずつ、街が消えていく。視界の隅から隅まで、余すことなく炎と煙が包んでいる。熱線が炸裂する度に、空は翳り、そして淀んだ色の雨が降る。
世界が燃えると同時に濡れていく。その矛盾の中、独りの僕はただ暴れ続けた。
そうして新しい街に足を踏み入れた時、不意に何処からか、巨大な羽虫が群れを成して羽ばたいているような、そんな耳障りな音が聞こえてきた。それは徐々に大きくなり、遂には大気が揺れていると感じるほどの、いっそ轟きへと成長した。
僕という存在を――僕の破壊を止めに来た、軍の戦闘機の群れだった。
その羽虫たちが僕のことを遠巻きにしたかと思うと、一切のズレもなく全ての航空機関砲が一斉に咆哮を上げた。一秒も要さずに到達する、毎分六千発という銃弾の豪雨が四方八方から僕の身体に襲い掛かった。
どれほどの時間が経過しただろう。やがて弾幕は止み、そして僕は依然としてそこに立っていた。身体を見下ろす。黒曜石のように黒くごつごつした皮膚は、僅かに傷がついているだけだった。
僕は、体内を燃やした。
そして、熱線。
横薙ぎに放たれた灼熱のエネルギーが戦闘機を捕らえ、それが爆発を起こし、無事だった戦闘機をも巻き込んで指数関数的に殲滅されていく。
僕は口から黒煙を立ち昇らせながら、ゆっくりと辺りを見渡した。まだ無事だった背の高いビルを見つけ、そちらへと近づいく。僅かに身を屈め、ビルのガラスを覗き込んだ。そこに映る、自らの顔を見つめた。
子供のころにテレビで見た、街を破壊する怪獣を彷彿とさせる醜い顔。開かれた口腔内から除く、歪な牙。そして、熟れた果実のような深紅の瞳。そこから溢れ出し、頬に流れているのは涙だった。
正解は、どれだったのだろう。どこに、あったのだろう。
そんな問いを自らに投げかける。破壊を続けながら、何度も何度も自問自答したこと。答えは見つからず、僕はもうここまで歩いてきた。歩いてきてしまった。
もう、進み続けるしか、僕に道は残されていない。
全てを救うために。
歪んでしまった正義を、それでも実行するために、僕は世界を壊さなければならない。
くすんだ空を見上げる。その遥か上空からすさまじい速さでこちらに向かってきている複数のミサイルを認めた。
僕は再び、身体の奥底に力を込めた。