第99話 運命の女神様…8
慶の帰りを待ちながら、あたしは机に向かって宿題に取り組んでみたけれど、田村くんとの遣り取りが気になってしまい中々集中出来なかった。
人を好きになる感情と恋愛感情とは、どうして区別されているの? 告白しなくても『付き合っている事になる』だなんて……そんな事ってあるのかしら?
姫香と田村くんは、いつの間にかクラスや部内で公認のカップルになっている。二人がどんな魔法を掛けたのか不思議だわ。廻りから認められれば良いのかな? でも、告白無しでどうやって付き合っていると思われているの?
なんだか難しい方程式を解いているような気分だわ。ううん、難しくても方程式の答えは必ず出て来るもの。『恋愛』と言う響きに憧れてはいるけれども、その答えの導けない問題はとてつもなく難しいように思える。
……止そう。
あたしはシャーペンを持ち直して、ぼんやりとしてしまった自分の気持ちを引き締める。
独りであれこれと考えてみても、次から次へと湧き上がって来る疑問が何一つ解決出来る術が見当たらないんだもの。
机の眼の前に置いているデジタル時計に視線を移したら、時刻はもう四時半を過ぎていた。
この時間なら、部活が始まっている。今頃は準備体操を終えた後くらいか、声を掛けながら校庭をランニングしている頃だ。
田村くんは部活の時間に間に合ったかしら?
慶はもう病院に行ったのかな?
おばさんの手術はどうなったのかしら?
亜紀の様子はどうかしら?
盲腸って痛いのかなぁ?
「は? 駄目々。集中しなくっちゃ」
気を許してしまうと、すぐに気掛かりな事が頭に次々と浮かんで来る。ここに姫香や亜紀が居てくれれば、悩み事の解決の糸口になるヒントをくれたり、解決出来なくても共感してくれたりするだけで、胸の痞えや不安な気持ちが軽くなるのに。独りだと悩み事を多く抱え込んでしまって辛くなっちゃうわ。
数学の問題をほんの数問解いた所で、携帯から呼び出された。誰からだろうと思って相手の番号を見てみると、美咲姉さんからだ。
「もしもし?」
「あ、香代ちゃん?」
「美咲姉さん?」
「うん。今日は慶が迷惑を掛けちゃったらしくて……ごめんね」
「ううん、良いんです。迷惑なんてそんな……」
確かに心配はしているのだけれども、あたしは何もしていないもの。慶のカバンだって、田村くんが持って来てくれたし。
ただ、亜紀の事も重なっちゃって自分的にちょっと辛くなっちゃったりしたけれども。
その電話から聞こえて来た声は、いつものハキハキした美咲姉さんの声じゃなかった。風邪をひいて喉を痛めたのか、それとも疲れているのかは判らなかったけれども、声が掠れている。
「香代ちゃんは知っていると思うんだけど、実は今日がウチのお母さんの手術日だったの。本当は慶も病院に行きたがっていたんだけど、お父さんが学校を休むのを許してくれなかったらしくってね。ホント、香代ちゃん達には悪いと思っているわ」
「美咲姉さん、今どこなの? 慶が見付かったって、学校で先生から聞いたけど……」
「今? 病院に居るわよ。慶はまだこっちへは来ていないけどね。さっき手術が……あ、はい……」
話の途中、電話の向こうで誰かが美咲姉さんを呼んだみたいだった。呼び出しを受けた美咲姉さんは、返事をしてちょっと『間』を空けると、急に慌てて話し掛けて来た。
「ゴメン、また連絡するね」
「美咲姉さ……待って!」
通話を一方的に切られてしまい、あたしの不安は大きくなった。
慶がまだ病院に行っていないって……どう言う事? 学校へは慶を保護したって連絡があったって先生が言っていたのに、慶は美咲姉さん達と一緒にそこへ行っている筈じゃなかったの? 慶が学校から出て行ってから随分時間が経っているのに、どうして慶が病院に居ないのよ?
優しくて大好きな慶のお母さんの手術と聞いて、あたしは居ても経っても居られなかった。出来る事なら、あたしもおばさんの近くに居させて欲しい。
美咲姉さんの方から掛けて来てくれたのに、あたしとの会話を中断しなくっちゃいけない大切な用事が……何かがあったのだと思った。
もう、どうしてこんな時に慶が居ないの? 自分のお母さんの手術なのに、一体何処へ行っているのよ?
中途半端な電話をされてしまい、あたしは一層落ち着きを失ってしまった。
眼の前で開いている真っ白なノートへ、ぽとぽとと雫が落ちる。
「やだ……なんで涙が……」
堪らないほどの不安な想いは、とうとうあたしの心の限界を超えてしまったみたい。顔を顰めているわけでもないのに、眼の前がぼやけて、鼻の奥が熱くなる。
あたしは咄嗟に両手で顔を覆った。
独りって……こんなに辛いものだったのかしら?
暫くすると、近所の犬が一斉に吠えて、遠くから聞き慣れないバイクの大きなエンジン音が近付いて来た。
何故だか判らないけれども、そのバイクが昨夜お隣に停めてあった黒くて大きなバイクなのだと直感したあたしは、涙目を片手で乱暴に拭うと、部屋のガラス越しからお隣の方を見下ろした。
あたしの思った通り、そのバイクはお隣の門の前で一旦停まり、誰かを降ろした様子だった。そして一際大きくエンジン音をさせると、元来た道へと引き返して行った。
慶が帰って来たのだわ!
そう思ったあたしは、急いで自分の部屋を飛び出して、玄関先に置いてあった慶のカバンを引っ手繰るように持つと、サンダルを履くのももどかしくて転びそうになりながら、玄関のドアを開けた。
遠ざかって行くバイクの音に負けないように、慶が大きな声『ありがとう』とお礼を言って、手を振っている後ろ姿が眼に飛び込んで来る。
「慶!」
「あれ、香代? 部活は?」
あたしの声に気が付いて振り返った慶の顔は、腹立たしくなるくらい爽やかな笑顔だった。