第96話 運命の女神様…5
あたしは今日の午後から行われるお母さんの手術があると言う事を伝えた後、教室移動の時に慶を中心にして起こった生徒同士の小競り合いで名前を皮肉られた事を話した。
急に慶の様子がおかしくなったのはその頃だ。
「そう。秋庭さんのお母さん、今日が手術の日だったの」
「昨日、私の母が言っていました。なんでも急に決まったらしいそうです」
「まあ、そうだったの。それは秋庭さん心配でしょう」
慶の不安と焦りを察したのか、先生はそれ以上聞かなかった。
自分の大切なお母さんが手術をすると言う日に、慶は病院ではなく学校へ来ていた。あたしは事前にお母さんから慶のお母さんが手術する日だと聞いていたけれども、今朝の慶の様子は普段と何にも変わっていなかった……と言うか、慶が何を考えているのかあたしには読めなかった。平気そうで居られたのは、午後から早退するからだと思っていた。
でも、実際に慶は早退する準備はしていなかったし、あのまま二組の男子に絡まれたりしなければ、今日一日を平穏に過ごせてしまいそうな雰囲気だった……この矛盾は何なの?
慶のお父さんが帰って来ても、慶は以前と何ら変わらなかった。昔は話をすればお父さんとの自慢話だったのに……もしかしたらお父さんと上手く行っていなかったの?
「失礼しました」
廊下へ出ると、生活指導の先生や体育の先生数人が携帯電話を片手に集まっていた。
人を威圧しているような先生方の厳しい表情から、これから慶を連れ戻しに外出するのだろうなと思った。
「石川先生、お電話です」
「あ、はい」
あたしの後に続いてカウンセリングルームから出て来た石川先生が呼び止められた。先生が再び職員室へと引き返すと、間も無く廊下に集まっていた先生方も職員室へと呼び戻される。
あたしは教室へ戻るように言われていたにも関わらず、この物々しい空気が気になってしまい動くに動けなくなってしまった。立ち竦んだまま訝っていると、石川先生がドアから顔を出した。
「土橋さん、もう心配しなくて良いわよ」
「え?」
「今ね、秋庭さんのお姉さんから連絡があったの。秋庭さん、見付かってご家族の方に保護されたそうよ」
「そ、そうですか」
ほっと胸を撫で下ろすと、あたしは職員室の中にある大きな壁掛け時計へと視線を向ける。
慶が居なくなってから、もう一時間以上が経過していた。
亜紀の事も、慶の事も……どっちも気になって仕方が無い。だけど、今のあたしが優先して遣らなくてはいけない事を考えれば、慶には悪いけれどもあたしは亜紀を選ぶべきなのだと思う。だからこの日、あたしは自分の体調が優れないのを理由に放課後の部活を休んで、気になっていた亜紀のお見舞いへ行って、一言でも良いから謝ろうと思って予定を立てていた。
なのに、予定って思う様には行かないものなのね。
放課後、帰宅しようと準備していたあたしは、石川先生に再び呼ばれて慶のカバンを持って帰って欲しいと頼まれてしまった。カバンを持って帰るだけなら、亜紀のお見舞いへ行くのに十分時間があったかもと思ったのに……
自分のカバンと慶のカバン。教科書とノートが入っている二人分だとかなり重くなる。クラスの女子の中で、あたしはどちらかと言うと普段ラケットを振っている分、力持ちなのだけど、自宅まで一キロ弱の距離を、どうやって二人分持って帰れば良いのかしらと悩んでいたら、クラスの男子から声を掛けられた。
「土橋、アキバケイのカバン、俺が自宅まで持って行って遣るよ」
「いいの? ……って、田村くんが?」
ラッキーと思いつつ声の主を捜して振り向くと、教室の後ろの出口に田村くんが立っていた。
最初、クラスの男子の誰が言ったのか判らなかったけれども、とにかく重労働を買ってくれた男子の出現をありがたく思ったのだけど、田村くんイコール姫香の式が頭に焼き付いているあたしは、素直に喜ぶ事が出来なかった。
だって、二人で帰っているのを誰かに見られて誤解されたくは無かったし、第一、姫香に対して悪いと思った。誤解されないよう他の帰宅組の女子と一緒に帰れば良いかなとも思ったけれど、仲の良い子はみんなそれぞれ部活をしているし、帰宅組で普段仲良くしてくれる女子は帰る方向が逆だった。それに、一緒に帰ってくれる女子を見付けたとしても、田村くんの性格から予想すると、今度は彼が一緒に帰ってくれないような気がするし……
あたしが返事に迷っているのに気付いた田村くんは、少し表情を曇らせる。
「ああ、俺じゃワルイ? 何か問題でもあんの?」
機嫌、損ねさせちゃった。『悪い』とか、そんな心算じゃないんだけど……
「部活はどうするの?」
「カバン持って行くだけだろ? すぐに戻れば間に合うって」
「でも……あ!」
今日は部活を休むからと、もう姫香へ言っておいたのだけれど、もう一度彼女へ一言伝えてから帰った方が良いかしらと迷っていると、田村くんからやや強引に慶のカバンを持たれてしまった。
「具合、良くないんだろ? 早く帰った方が良い」
「え……う、うん……」
「ほれ、帰るんだろ? ってーか、早く行かないと俺が時間に間に合わなくなって、藤野にゲンコツかまされる」
そう言って、田村くんは情けなさそうに肩を竦めて苦笑いを浮かべた。
――優しいのね……
自分が遅刻すれば顧問の先生から叱られるって判っているのに、それでも慶のカバンを届けてくれるだなんて。
けれども、その優しさはあたしへ向けられたものじゃなくて、学校を抜け出して居なくなってしまった慶への気遣いなのだわと思った。




