第95話 運命の女神様…4
「失礼します」
入り口で一礼すると、教室よりも広い職員室へと踏み込んだあたしは、五、六人の先生方と話をしている石田先生を見付けた。足早に近寄ると、先生もあたしに気が付いてくれる。
「ちょっと失礼します。土橋さん、良い?」
「はい……?」
先生は他の先生方との話の輪から抜けると、職員室の横にあるカウンセリングルームへ移動するようにあたしを促した。
カウンセリングルームへは、今まで入った事がなかったけれども、職員室とは打って変わり、狭い部屋の中央に生徒用の机がぽつんと置いてある、割りと殺風景な部屋だと思った。しかも、ここへは不登校になった生徒や生活指導を受ける生徒が案内される部屋だと判っていたせいか、中へ一歩踏み出した瞬間に、室内の重息苦しい空気が纏わり付いて来る気がする。
まるでドラマで見た刑事物の取調室みたいで、あたしは良い気分にはなれなかった。
「先生の都合で来て貰ったのだけど、気分でも悪いの?」
「いえ……」
先生も輝と同じ事を言っている……気分はそんなに悪いとは思わないのだけれども、あれこれと悩み事を抱え過ぎちゃっているせいなのかしら?
心配してくれる石田先生へ、あたしは少し表情を緩めて笑顔を作った。だけど、今の先生の浮かない表情の方が、具合が悪そうに見えるのだけど……どうしたの?
「そう? じゃあ少し話をさせて貰うけど、構わないかしら?」
「はい」
「クラスの子達にはああ言ったけど、あの授業が始まる前に秋庭さんが学校から出て行ってしまったらしいの」
「……はい」
あたしは俯いて小さく頷いた。
やっぱり、慶は学校から出て行っちゃったのだわ。些細な事で絡まれてしまって……
いつものあたしなら、情けない慶の行動を批判したでしょうけれども、今は全く違っていた。
きっとあの時の慶は大きく膨らみ過ぎた風船みたいになっていたのよ。余裕が無くて、我慢出来なかったのだと思った。
そして、慶が学校から逃げ出した事を口外せずに、様子を見に来ていた先生方の言動に、何か引っ掛かりを覚えた。
「他の子に事情を聞こうかと思ったのだけど、先生、少し前に秋庭くんのお母さんから、日は未定だけれど入院する事になりそうですと連絡を貰っていたの。土橋さん、知っていた?」
「それで私を呼び出したのですか?」
「秋庭さんの事で、何か聞いていない?」
「……」
「さっき、実験室へ行ったのはね、実は校門から秋庭くんが走って出て行ったのを、偶然先生が見てしまったの。丁度休憩時間だったから、何か忘れ物でも取りに家へ帰ったのかなと思っていたら、すぐに学校へ一般の人からの通報が入ったらしいの」
押し黙ってしまったあたしの心の中を探っている様に、先生は真っ直ぐにあたしの眼を見てゆっくりと話掛ける。
「『通報』って……どんな内容なのですか?」
その言葉に良く無い響きを感じ取ったあたしは、浮かない顔で先生を見詰めた。
「短時間の間に数件の通報が入ったの。一つは学校を抜け出した生徒が居ると言う連絡が二件。これは先生が確認しているから恐らく秋庭さんの事だと思うの。先生、ちゃんと理科室まで秋庭さんの事を確認しに行ったでしょう?」
「はい」
「それと前後して、中学生らしい生徒が万引きをしたと言うお店からの通報も入っていたの」
「そんな!」
「ええ。これは不確かな情報で、どこの学校の生徒かも判らないらしいの。秋庭さんなら制服のままだから、人違いだと思うのだけど、一応ね……」
「先生疑って……」
「形式だけよ。秋庭さんじゃないって事は、先生も信じているわ。でも念の為なの。土橋さん、秋庭さんが学校から出て行った理由……何か知っていないかしら? 何か心当たりになるような事は無い?」
心当たりなら、すぐに頭に浮かんだ。
慶は普段、口に出しては言わないけれど、本当は『アキバケイ』と呼ばれるのが好きじゃない。その事はずっと前に……小学生の頃、あたしだけに聞かせてくれた内緒話で教えてくれた事がある。
* *
『本当は、自分の名前が好きじゃないんだ』
『どうして? 前に、慶の名前はお父さんが付けてくれたんだって言っていたじゃない』
前に聞いた時は、自分の名前をお父さんが付けてくれたのだと誇らしく胸を張って自慢していたのに、今は反対の事を言う慶が不思議でならなかった。
『「慶」って漢字が難しくて書けないから?』
『違うよ。ちゃんと書けるよ』
そう言った後小声で『不格好だけど……』と呟いた。
『難しい字だものね』
『違うよ。そんなのじゃないんだ』
『じゃあ、なによ?』
『だってみんなが……「アキバ系」ってみんなが呼ぶんだ』
『「アキバ系」? 慶の苗字は「あきにわ」でしょ?』
『うん……でも、みんなそう呼ぶんだ』
間違えた呼び方をされたら訂正して教えれば良いのに、慶はそれをしなかった。だから友達からは間違えられたままになってしまった。
* *
あの頃は『アキバ系』と言う言葉が一つの文化を示す言葉だなんて、慶もあたしも知らなかった。慶が名前でからかわれるようになってから、あたし達はその言葉の意味を知ったのだから。
呼ばれ方が気に入らなければ、そう言えば良いでしょうに……そう思ったけれども、慶は今更な気がしたのか、結局自分の呼び名をそのままにしてしまった。
物心付いた頃から、お父さん子だった慶。けれど慶のお父さんが単身赴任で行ってしまうと、慶は自分のお父さんの事を全く話さなくなってしまい、あたしも亜紀と姫香と出逢ってから、慶との距離を置いてしまった。
今、慶のお母さんの入院で慶のお父さんが帰って来ているけれども、長い間離れて暮らしていたのだから、もしかしたらお父さんと何かあったのかも知れない。