第94話 運命の女神様…3
三時限目の授業が始まっても、慶は教室へは戻っては来なかった。
今まで真面目一本だった慶が突然授業を放棄した事で、授業が始まった直後にクラスは騒然としてしまう。
「芳賀、秋庭は戻って来た?」
「いいえ。まだです」
理科の実験中に、職員室から担任の石田先生が遣って来て、委員長の芳賀くんに声を掛けた。慶の失踪は早くも先生の耳へと届いていたらしく、先生の後ろには学年主任の先生や教頭先生も控えていて、何だか物々しい空気を感じてしまう。
亜紀の時とは違って大袈裟だなと思ったのはそこまでだった。きっと、校内のどこかに隠れているのじゃないのかしらと思っていた。慶の気持ちが落ち着けば、また教室へ戻って来れば良いのよ。と、軽くあたしは考えていたのだけど……先生方の浮かない表情を見ると、どうやらそうじゃ無かったみたい。
教頭先生の姿を見た数人の生徒が更に騒ぎ出した為、石田先生は慌てて理科の河野先生から時間を貰って、授業は急きょホームルームになった。
「はい、みんな静かに!」
石田先生は生徒が注目するように数回大きく手を叩くと、蜂の巣を叩いたみたいに騒々しかった実験室は、驚くくらいシン……と静まり返った。
「知っている人も居ると思うけど、クラスの秋庭さんが早退しました」
「え?」
想いも寄らない先生の言葉に、クラス全員は一瞬意表を衝かれて驚いた。
『早退』って……慶が? あの状況で?
何度思い返しても、慶が早退をするよう予定を立てていたらしいと言う素振りは一切無かった。二組の不良らしい男子に絡まれて、心にも無い噂話をされてしまったから慶は逃げ出したのだと思っていたのに。
あたしが不思議に思っていたら、他の生徒も同じだったみたい。特に、すぐ傍に居た田村くんや門田くんは、二人で顔を見合わせて『納得出来ない』と言わんばかりだもの。
「センセ、アキバケイは早退するなんて何も言ってなかったです」
右手を中途半端に挙げて、田村くんが反論した。隣に座っている門田くんも、同意だと大きく頷いて見せる。
「ご家族からの呼び出しがあったそうです。ですから、みんなは授業に集中するように」
田村くんの意見に、先生は少し怯んだけれども、すぐに強い口調でそう答えた。
だけど、あたしから見れば……
ううん、もう止そう。きっとみんなだって先生が、何らかの事情があって事実を捻じ曲げなきゃいけなかったのだと思ってるわ。
先生方が出て来た事で、あたしは慶が学校から逃げ出してしまったのだと知った。逃げ出した原因が嫌がらせかどうかは別として、他のクラスの男子に意地悪されたくらいで逃げ出すだなんて……と、今までのあたしなら慶に対して見下した想いを抱いてしまうかも知れない。けれども、今は全く違っている。このクラスの中であたししか慶の事情を――お母さんが……誰よりも大切な人が手術するのに。
あたしはどうすれば良い?
何をすれば良いの?
だけど、学校から居なくなってしまった慶に、あたしがしてあげられることなんて無いんだもの。
石田先生が理科の先生と少しだけ言葉を交わすと、先生は待って居た教頭先生方と一緒に引き揚げて授業が再開された。
「香代? どうしたの?」
「え?」
授業が始まって暫く経つと、あたしは実験班のメンバーで隣に座っていた輝から声を掛けられた。
「気分でも悪いの? 顔、蒼いよ?」
「う……ううん、大丈夫」
「無理しないで保健室に行けば?」
「ありがと。でも、本当に大丈夫だから」
そう言って愛想笑いを浮かべると輝に『心配させてゴメンね』と小声で謝る。
それでも、輝はまだ心配そうに小首を傾げて、あたしの様子をちらちらと窺ってくれている。
-「ダイジョウブだから」
彼女と視線が合い、あたしは思わず小声でそう言って実験机の下で軽く手を振った。自分では自覚していなかったけれど、彼女の態度から、自分がどれだけ具合が悪そうに見えているのかが判った。そして彼女の気持ちが嬉しくて……反面、あたしには人から心配して貰えるような、そんな資格なんて無いのだわと思えて、本当に申し訳ない気持ちで一杯になる。
駄目だぁ……
あたしは輝達に気付かれないように、小さく溜め息を吐いてそっと肩を落とす。
慶の事を心配してあげられる余裕なんて、今のあたしには無い筈なのに……なのに、どうしてこんなに気になってしまうの?
暫くの間あれこれと悩んでいたけれども、独りで悩んでいるよりも、事の始終を知っている姫香を頼って相談してみようと思った。
授業の終了を告げるチャイムが校内に響き渡る。
「起立―――! 礼!」
クラスのみんなが一斉に席を立つ。
慶が居ない三時限眼の理科の授業が終わった直後、ざわざわと騒がしくなった教室から出て行こうとしたあたしは、理科の山崎先生から呼び止められて、担任の石田先生が居る職員室へ行くようにと指示された。
授業中、ずっと慶の事を考えていて上の空で授業を受けていたから、てっきり注意されるものだと思って覚悟していたのに、一体何の用かしら?




