第93話 運命の女神様…2
「わ?」
始業五分前にクラスでひと塊りになって教室移動をしていた時、後から付いて来ていた男子生徒の何かに驚いた声が聞こえた瞬間、筆記用具が床へとばら撒かれる大きな音がした。同時に傍に居たらしい女子の短い悲鳴と、男子の怒鳴り声が被る。
「何すんだよ! ちゃんと前を向いてろアキバ系!」
「……」
何? 筆記用具を落としたのって……慶なの?
慶の名前を耳にしたあたしの心臓がドキリと嫌な音を立てた。驚いて振り返ると、数人居るクラスメイトの向こう側に、通路の真ん中で慶が尻餅を着いている姿がチラリと見えた。
男子生徒の小競り合いが何やら険悪になりそうな空気を読み取って、傍に居た誰もが巻き込まれないように慶達数人をぐるりと遠巻きに囲み、慶に絡んでいる数人の男子達を、口々に誰だと尋ねてざわめいた。
「オイ! 何言ってる! そっちがぶつかって来たんじゃねーかよ!」
「謝れ!」
慶といつも一緒に居る田村くんと門田くんが、ぶつかった相手の男子を睨み付け、喧嘩腰で言い返した。
「ンだとコラ! ふざけんな! 因縁付けんのかよ。上等だ」
「言い掛かりだ!」
相手の男子も二、三人の友達が居て、二人の気迫に負けまいと、もの凄い剣幕で食って掛る。
「大体、優勝したワケでも無いのに、ちょっとセン公からチヤホヤされたくらいで天狗になってンじゃねーよ。クソうぜーアキバ系の癖に!」
「!」
彼等から慶の名前を呼ばれて、お互いに知っている奴かと眼で合図を送っているけれど、慶も、慶を庇ってくれている田村くんや門田くんも、彼等には全く見覚えが無いらしく首を横に振っている。
慶はわざと他人にぶつかって喧嘩を売るような子じゃ無いし、万が一自分からぶつかってしまっても、咄嗟に自分から謝る筈だわ。それに口が悪くてガラも悪そうに見える田村くんや門田くんだって、自分から騒ぎの種を蒔くような事はしない。そもそも、テニス部員なのだから喧嘩や不祥事が学校側に通報されれば、その部は廃部になってしまうもの。
「いやーね。アイツ、二組の不良達じゃん」
「シッ! 聞かれたらマズイって」
「でもさあの男子、アキバ系ってあだ名でしょ?」
「あれ、本名じゃなかったっけ?」
「本名? 変な名前。でも見た目イケてない?」
「知らないの? 彼、今年のバレンタインに女子から一杯貰ったチョコを全部捨てちゃったんだって」
「うわ、勿体無~い。馬鹿じゃない? どんだけナルシなのよ」
丁度通り掛かった別のクラスの女子数人が、ひそひそと囁いているのを偶然耳にした。そして彼女達の遣り取りを聞いて、クスクスと小さく含み笑いをする生徒達。
『慶は人から貰ったものを意味も無く捨てたりするような人じゃないわ。貰った数の多さに困ってしまったから、職員室に持って行っただけよ。捨てたのじゃないわ。人から聞いた噂を勝手に信じて決め付けないで!』そう言いだしそうになったあたしは、ぐっと奥歯を噛み締めた。どうして急に慶を庇おうと思ったのかは判らない。けれども、本当の事を知らない彼女達が噂話で勝手に慶の事を誤解しているのを見るのが、とても不愉快で腹立たしく思えた。
彼女達の心無いひそひそ話の声は意外と大きかったらしく、慶本人の耳にも入ってしまったようだった。
俯いたまま慶はゆっくりと力無く立ち上がると、文句を言う男子へも、勝手に噂話をして盛り上がっている女子へも何の抗議もせずに、のろのろとした鈍い動作で廊下にばら撒いてしまった筆記用具や教科書を拾い始める。
「お……おい? アキバケイ?」
「……」
リアクションが全く無い慶の反応に、傍に居た田村くんや門田くん達も何かおかしいと気付いているみたい。もちろん、あたしはいつもの慶じゃないわととっくに気付いている。それは、このフロアの中でただ一人。あたしだけが、今日と言う日が慶にとってとても大切な一日だって知っているから。
慶のお母さんの手術は、そんなに大袈裟に考えなくても大丈夫だし、今の医学技術は昔と比べると格段に上がって来ているから心配する事はないわと聞いていたけれども、お母さんが入院する事自体、慶にとっては初めてなんだものね。やっぱり不安で心配なのよ。
そう思って慶を見ていたら、もう一度慶と視線が合ってしまった。
「……」
慶は何かを思い詰めているような……そんな表情をあたしに見られて恥ずかしかったのか、さり気無くゆっくりと視線をあたしから逸らせる。
「おい! ぶつかっておいてシカトするなよ!」
「喧嘩売ってンのかよ!」
「お前には言ってない! 関係ねーだろが! 邪魔すんな!」
慶とぶつかった男子は、慶に謝らせようと剥きになり顔を真っ赤にして怒り出すけれども、慶は彼とは視線を合わせようとはしなかった。
代わって田村くんが彼の挑発に乗せられて、声を荒らげる。
熱くなって今にも大乱闘になりそうな……一触即発の空気なのに、無関心を装っている慶の周囲だけ特別な温度差が感じられた。
「おい田村、もう止めようや……」
そう門田くんが言い出した途端に、慶は拾った筆記用具を再び足元に落としてしまった。誰もが慶の行動を訝り、どうしたのだろうかと慶を窺い注目する。
「……」
今度は落した筆記用具を拾おうともせずに、慶は身を翻したかと思うと、急にその場から逃げ出した。
「あ、おい、アキバ!」
門田くんが呼び戻そうと声を掛けるのに、慶はその声さえ振り切るようにして一目散に廊下を走った。
「コラー! 廊下を走るな!」
廊下を走る足音を聞き付けて、余所の教室に居た先生が顔だけ出して大声で注意する。
その場に居た誰もが、慶の突然の行動に驚いて呆気に取られて彼の背中を見送る。一番肩透かしを食らったのは、慶とぶつかって絡んで来た連中だった。納まりが着かなくなって、それぞれが捨てゼリフを吐いて引き上げて行く。
いきり立って居た田村くんはまだ遣り足らなかったみたいで、彼等に咬み付こうとしていたけれども、それを門田くんが必死になって背後から羽交い締めにして取り押さえていた。
予測出来なかった慶の今の行動から、それよりも少し前にあたしに向けた微笑みの理由がなんとなく判ったような気がした。あの時、あたしはどうしようも無いくらい不安だった。誰かに話を聞いて欲しいと思ってあれこれと悩んでいたら、偶然慶と眼が合ってしまい微笑まれてしまったけれども、たったそれだけで何かが通じ合えた気がした。
今のあたしが落ち着いて居られるのは慶が微笑んでくれたからなのだと思う。そして、あの時微笑んでくれた慶も、自分自身の不安に押し潰されそうになっていたのかも知れないわと思った。