第90話 お隣の窓
二階にあるあたしの部屋の窓を開けると、眼の前には美咲姉さんの部屋があって、その奥に慶の部屋がある。でも、確かずっと前……お隣の慶の家族が引っ越して来てまだ間もなかった頃、今の美咲姉さんの部屋が慶の部屋だった。
新しく出来たお隣さんのお友達に、お互いが嬉しくなって、いつまでも窓を開けて話し込んでいたっけ……
幼稚園の先生が、先生の集まる部屋にあるストーブで焼き芋を作って食べていた事とか、園内の小さな池に園長先生が落っこちそうになったのを見てしまったとか、ご近所で飼われている三毛猫が赤ちゃんを産んだとか……同じ組なのに、あたしが知らなかった事や、慶が知らなかった事……そんな他愛もない発見や出来事を、毎日飽きもせずにこの窓を通して話していたのだわ。
だけど、いつの間にかお隣の部屋には見慣れた青いカーテンからピンク色のカーテンに――美咲姉さんの部屋に変わっていた。いつもなら窓を開けてあたしが声を掛ければ、慶が自分の部屋から顔を出してくれていたのに。
あたしが亜紀や姫香と出逢って慶に冷たくし始めたのも、確かその頃だったと思う。
気になってお母さんに尋ねたら、慶が自分から部屋を交換して欲しいと美咲姉さんに頼んだのだそう。お母さんは、直接慶から部屋を替えて貰った理由を聞いたわけじゃないけれども、慶は男の子だから、そんなにいつまでもお隣同士で居るのが嫌と言うか、気恥しくなってしまったのじゃないかしらと言っていた。
確かに、あたしだって慶と付き合っていると誤解されて妙な噂をされたし、嫌な想いも一杯した。今思えば、そんな嫌な想いをしていたのは本当にあたし一人だったのかしら? もしかしたら、慶だって男子からあたしと同じ眼に遭わされていたのかも知れない。もし、そうだったとしたら、嫌な眼に遭うのがこの世の中にあたし一人っきりで、あたしはなんて不幸なんだろう……だなんて、独りで悲劇のヒロインを演じてしまった。
だって、慶は何にも言わなかったし……
「……」
ううん。慶は『言わなかった』のじゃない。『言えなかった』んだ。あたしよりも内気で大人しい慶が、廻りから冷やかされて嫌な想いをしたって事を直接あたしに言って傷付けるような事なんか……するような子じゃないもの。
何気なく落した視線の先には、白いシャツと学生ズボンを穿いた慶が家の門の外に立っていて、こちらを見上げていた。
辺りはもう薄暗くなっていて、そこに居るのが慶だと判るのに数分掛った。いつから慶がそこに居てあたしを見ていたのか、それさえも判らない。ただ、慶があたしを見ていた事実だけは理解出来た。
「や……やぁ、香代早かったね」
「な、なに言ってるの? 先に女子が帰ったの知ってるでしょ?」
慶の事を想っていた時に現れた本人と、予想以上に噛み合わなくて余所々しい慶の会話に居心地が悪くなってしまい、あたしは思わずその場から逃げ出そうとして、開けていた窓の縁に手を掛けた。
「あ、待って!」
「?」
急に声を上げた慶に驚いて、あたしの動きが止まる。
「あの、そっその……」
「なに? 言いたい事があるのならハッキリ言って」
「……その……」
引き留めておきながら、もじもじして煮え切らない慶を見ているうちに、あたしの苛々が大きくなる。
『もうこれ以上引き留めないで』と口にしようとした時だった。
「あのっ、こっ、この間の筍……あっ、ありがとう」
「……」
『筍』と聞いた瞬間、あたしの時間が止まった。
慶はあたしの様子を気遣ってか、妙にどもっている。それでも何とかあたしにお礼を伝えようと努力してくれているのが痛いくらいあたしには判った。
一生懸命作った心算だったのに、あの後家で食べた筍の煮物はお母さんから特に不評で調理方法を厳重に注意されてしまった……あたしにとっては失敗作。汚点だと言っても過言じゃ無いモノなのよ?
なのに、それを『ありがとう』だなんて……言ってくれるだなんて。
「まだお礼を香代に言ってなかったから……あれ、香代が作ってくれたんだよね? あの時は『おばさんが作った』ってこっちが勝手に誤解しちゃって……その……ごめん」
「な……な……なにを言い出すのよ」
「でも、嬉しかったよ。ありがとう」
やっとお礼が言えて肩の荷が降りたらしい。それまで言い難そうだった慶がにっこりと微笑んだ。そして自宅の門を開けて家の中へと消えて行く。途中、あたしと同じく庭に停めてある黒いバイクを眼にして少し驚いた様子だった。
――『ありがとう』
そう言って笑った慶の笑顔が、あたしの脳裏に蘇った幼かった頃の慶の笑顔とダブって見えた。
身体は大きくなってしまったけれども、慶の心は昔と変わっていないわと思った。素直で不器用で何かが付きそうなくらいに正直で……
慶にあたしが作ったって事がばれてしまった。って言うよりも、その日のうちに慶が勝手に誤解しちゃったって事を知っちゃったでしょうに。
失敗作をあげた事を再び思い出してしまい、その上お礼を言われてしまったあたしは、猛烈に恥ずかしくなった。両頬から火が出そうなくらいもの凄く熱い。
この恥ずかしい気持ちは、失敗作の出来事を思い出してしまったから? それとも慶からお礼を言って貰えたから? どっちなのかしら?
その日、お隣に停めてあったバイクが帰る事はなかった。次の日の朝、起きてお隣の庭を覗き込んだあたしは、一晩中停まっていた黒いバイクの事が気になって仕方が無い。
ああ、亜紀の事だってまだ全然解決出来ていないし、今日は慶のお母さんの手術が午後にあるって言うのに……考えが纏まらないわ。




