第88話 親友…2
「亜紀……」
彼女は体操服姿のまま、慌ただしくロッカーの中に入れていた制服と荷物を引き出し、それを両腕で抱えると、入り口ドアの所で突っ立っていたあたしを無視して、逃げるように部室から出て行こうとした。
「亜紀、待って!」
彼女を引き留めようとしたけれど、続く言葉が出て来ない。
一瞬、呼ばれた亜紀が踏みとどまって顔を上げ、あたしと視線が合った。
つぶらな眼に今にも溢れてしまいそうな涙を一杯に溜め込んだ、そんな亜紀の顔を見た瞬間、あたしはハッと息を飲み、言葉を失くしてしまった。
―『アイツ、部活で暇さえあれば香代の事見ているんだもの』
頭の中で、姫香がさっき言った言葉が鮮明に蘇る。
姫香からあんな事を言われてしまったのだもの。あたしだって予期していなかった言葉だったし、『靡かない』だなんて言われた亜紀にとっては尚更ショックだったと思う。必死になって涙を堪えているのに、それをあたしが引き留めるのは気が引けたし、今はそっとしてあげなくちゃいけないのだと思った。
「……ごめん、亜紀……あの……」
あああ、そうじゃないわよ。なんでこんな時にあたしは謝ったりしているの?
彼女の涙を見た瞬間、勝手に口が動いた。それは今まであたしが薄々自分の本当の気持ちを知りながら自分にずっと嘘を吐いて、亜紀や姫香達を騙していたからなのかも知れない。
だけど、仲良くしてくれている彼女達から、進んで笑顔を奪う様な真似はしたくなかった。結果としていつまでもウジウジしてしまい、姫香や亜紀を混乱させてしまったけど……
『もう、終わりなんかじゃ……ないよね? だって、あたし達……あたし達友達なんだもん!』そう口に出して言えば良かったのかも知れない。でも、あたしは何も言えなかった。何か気の利いた言葉を掛けてあげたいと思ったのに、何も……
「……」
亜紀はあたしの縋る様な視線を振り切ると、そのまま部室から走って出て行ってしまった。
「香代? 亜紀は?」
遅ればせながら姫香があたしに追い付いた。
姫香は何も起こらなかったように、努めて冷静に声を掛けてくれる。だけど、それは姫香が気を利かせてわざとそんな態度を取ってくれていたのだと判った。遅れて来たのも、多分あたしと亜紀を二人っきりにする為に時間を稼いでくれていたからなのだわと思った。
「……」
肩を落として項垂れたあたしは、姫香の声に反応してゆっくりと首を横に振る。
「帰っちゃったのかぁ……まあ、聞かれちゃったのはマズかったし、本人はショックだろうから仕方無いわよね」
「そんな言い方止めてよ」
「ごめん」
あたしは亜紀を引き留める事が出来なくて、自分でもどうしようも無いくらい苛々していた。彼女はあたしに気を遣ってそう言ってくれたのに。姫香に当たるだなんてお門違いだって判ってる。
判ってるのに……
悪いのはあたしだ。
姫香が慶の事をあんな所で言い出したから、偶然亜紀に聞かれてしまった。だけどその話題だって、大元を辿れば……いい加減で曖昧な態度を取っていたあたしがいつまでも自分の気持ちをはぐらかしていたからなんだもの。
いつもは三人で一緒に居たけれど、さっきは亜紀が丁度居なくて二人っきりになれたから、それとなく姫香が忠告してくれていたのに、あたしが気付かない振りをしていたから……ううん、それはもっとずっと前からだった。だけどあたしは素直になれなくて……
どうしよう。亜紀、きっと怒っているんだろうな。
今まで慶の事を一筋に想い続けていたんだもの。それをあんな風に姫香から言い切られて……あんな事を聞かされれば、誰だって自分が引き立て役だわと思ってしまうわよ。あたしが亜紀の立場だったら、その場で怒り出すかも知れないわ。
亜紀が先に帰ってしまった後、あたしと姫香は亜紀を捜してくれていた他の子達とコートへ戻り、いつも通りのメニューを淡々とこなしてその日の練習は終った。
ああ、明日から亜紀にどんな顔をして会えば良いのか判らなくなったわ。
あたしは沈んでしまった気持ちと同じく、重い足取りで帰宅の途に就いた。途中まで姫香や一葉達と一緒だったけれど、みんな亜紀の事を心配しているみたいで、誰もが重く口を閉ざしてしまい沈んだ気持ちが益々沈んでしまった。
* *
ふと空を見上げると、明るい空に霞みが掛かった白い月がぼんやりと浮かんでいる。
お天気予報のテレビでは、日本列島に梅雨前線が近付いて来ていると言っていただけあって、流石に今日は湿度が高くて蒸し暑い。
見上げた視線を左下に落とすと、もうお隣の慶の家が眼の前に見える所まで帰って来ていた。
あたしの家は、住宅街を地区別けされる広い通りから一軒飛ばしたその奥に建っている。飛ばして通り過ぎた一軒――が慶の家で、あたしは家に辿り着く為には必然的に慶の家を廻り込まないと帰れない。
慶のお母さんが入院してからと言うもの、美咲姉さんが早く帰宅する事は無かったらしくて、うちと同じく慶の家もいつも電気が消えて暗くなっていた。
あたしにはそれが凄く不自然に思えて仕方なかった。慶の家の明かりは点いているのが当たり前。慶のお母さんが居て、それが当たり前だと思っていたから。
ところが、今日はもう明かりが灯っていた。
確か慶は先生に呼ばれて居残っていたから、あたしよりも先に帰ったりするはずは無いのだけれど……と思ったら、駐車場に大きな黒いバイクが停めてある。
そのバイクは、普段あたしが眼にする『原付バイク』とは大きさもデザインも全く違っていた。
慶のお父さんも美咲姉さんも車だし、一体誰がこんな大きなバイクに乗って来たのかしら?
見慣れないバイクを眼にして、あたしは少しだけ不安になり怖くなってしまった。
慶の家からいつもとは違う雰囲気を感じたあたしは、自宅に辿り着いた時も驚いてしまった。だって、いつもならあたしが一番最初に家に帰って来るのに、慶の家と同じく家の電気が点いているんだもの。
「ただいまー」
「お帰り」
「どうしたの? 今日」
あたしを迎えてくれたお母さんは、余所行きのスーツ姿に着替えていた。