第86話 心の枷
「姫香、あのね……」
言えない……
それっきり、あたしの時間が停まってしまった。実際には、そんな事なんか在り得ないのだけれども……もしかしたら、小学生の頃からの友達を、この一瞬で二人も失ってしまうかもしれないと思うと、口元が強張ってしまい言い出せない。
心の中で、どんなに神様にお願いしても、あと一歩を踏み出す勇気が湧いて来ない。
「どうしたの? 香代?」
「……」
急に口を閉ざし俯いてしまったあたしを訝り、姫香があたしの顔に自分の顔を近付けて来た。姫香の澄んだ黒い瞳が、真っ直ぐにあたしの眼を見詰める。
「何か……あったの? ううん。あったんだよね? それって香代も関係してるんでしょ? それで言い出せないの?」
「う……」
「怒らないから話してくれる? もしかしたら、あたしの予想が当たっているかも知れないから」
「姫香……」
「大体、何年香代と付き合っていると思っているのよ。大丈夫。何が在っても絶対に怒らないから言ってみて?」
姫香から優しく諭されて、急に心の中で堅く縛っていた紐が緩んだ気がした。
亜紀は慶の事をずっと今でも想っている。その事を知っているあたしは、自分が慶とペアになりそうだったから、亜紀と慶が組めるようにクジを操作したけれども、田村くんから指摘されて試合を放棄してしまったのだと素直に話した。
「そう……それで亜紀が居なくなっちゃったのね」
低いトーンでそっと話すあたしの言葉に、姫香は静かに耳を傾けてくれる。だけども、姫香の表情は、困っているのか怒っているのか、あたしにはよく判らなかった。
彼女を信頼して総てを正直に話したあたしは、それでもまだ自分が喋ってしまった事を、これで本当に良かったのだろうか、言ってはいけなかったのじゃないかしらと、寄せては返す波の様に揺れ動いている。そして、あの時、もっと他に遣り様が無かったのかしらとも思った。冷静になって考えれば、もう一度クジを引き直す方法だってあったかも知れないのに。
「あたし、大きなお世話を遣っちゃったのかなぁ……」
姫香に問い直したけれども、彼女からの即答は帰って来なかった。
彼女の沈黙が息苦しく感じられ、せっかく動き始めたあたしの時間が、再び止まりそうになる。
姫香の沈黙が、あたしには彼女の肯定に思えて……それが彼女から無言の非難を受けてしまった気がして辛くなる。
だけど、本当の事なんだもの。
暫く姫香は黙り込み、遠い目をして何かを考え込んでいた様子だったけれども、やがて縋る様なあたしの視線に気付いたのか、ふと表情を和らげた。
「香代……もう自分の気持ちに嘘を吐くの、止めない?」
「え? 何のこ……」
「今までだって、もう何度もあたしは言っているのよ? 少しは成長しなさいよ」
「……」
言い掛けたあたしの言葉に被る様に、姫香は少し強い口調でそう言った。
彼女が何を言いたいのかが直ぐに判り、あたしは軽く息を飲み、言葉を失う。
「あ? ゴメン。言い方が悪かったわね。自分の気持ちにもっと素直になりなよ……って言えば良いのかな」
「す……素直だよ?」
だから、亜紀と慶がペアになる様に細工したんだもの。
「それは亜紀の気持ちを香代が知っていたからでしょ? そうじゃなくって、香代の本当の気持ちなの。この先ずっと、亜紀の顔色を窺って行く心算なの?」
「窺うだなんて、そんな……」
「あたしが亜紀だったら、そんな気を遣ってくれる方が却って迷惑だわ」
「姫……香?」
「だってそうじゃない? あたしにはモロ判りだもの。好きなんでしょ? アキバケイの事」
「んな……」
身構える余裕も無い直球ストライクの姫香の言葉に、あたしは驚いて反論さえ出来ない。
「確かに、小学生の頃の『好き』と、今の『好き』は意味が少し違っているんだけど……ね。それでも香代はアキバケイが好きなんでしょ? 隠したって無駄なんだからね」
「なんで……?」
「そりゃあ友達だもの。ずっと傍に付いていれば、香代の考えている事くらい判るわよ。ついでに、あの単純鈍感なアキバケイも、亜紀じゃなくて香代を見ているってコト。香代よりもブレてないよ。アキバケイは」
「……」
「良い? もうこれ以上あたしに語らせないでよねッ! 親友想いはありがたいけど、自分の気持ちを抑えちゃって……最初はそんな心算じゃ無かったのかも知れないでしょうけど、ここ最近の香代を見てると……ああもう! 傍から見ていて苛々するのよ。香代? そんなのじゃいつまで経ってもアンタは変われないよ? 自分が幸せになれないのに、他人に幸せを押しつけようとしたりしないでよ」
勢いで一気に畳み掛けて来た姫香は、そう言った後であたしに聞こえる様に『あ~スッキリした』と付け加える。
確かに、今のあたしは自分でも変だと思う。だから、昔の頃のあたしに戻りたいと想ったりしたのかしら……?
「亜紀だって、香代がアキバケイの事を好きだと知っている筈よ? あの子、一見おっとりしてるけど、そんなに馬鹿じゃないもの」
「姫香……」
「あたしを誰だと思ってるのよ?」
姫香はそう言って自分の胸をポンと叩いた。