第75話 サービス
どうしてなのかな。咄嗟に慶の事を『あんなの』だなんて言っちゃったりして。
亜紀の探る様な視線から逃れたあたしは、言い表し様の無いモヤモヤ感に襲われた。
慶の事を聞かれる度に、いつの間にかあたしは慶の事をこんなに悪く言ってしまう様になっている。酷い言葉を口にする度に、自分が汚れて行く気がして嫌になる。そうして慶の事を訊かれる度に、あたしは顔を強張らせてしまう……
なんなの? この嫌な気持ちは……
一呼吸置くと、逸らせた視線を亜紀へ戻した。今のあたしの動揺を亜紀に覚られまいと、わざと余裕があるみたいに腕組みをして、浅く首を傾げて見せる。
「居眠りしたから心配になった?」
「うん……」
「夜ふかししたり疲れてたりすれば、居眠りくらい誰だってするでしょ? 別に珍しくもなんともないじゃない」
「そ、それはそうかも知れないけれど、で、でも……でも、秋庭くんはそんな事……するような人じゃないわ」
「さあ、それはどうかしら」
昨日は久しぶりにお父さんが帰って来たんだもの。積もる話に、つい夜更かしをしちゃった……なんて、ありそうだもの。
「ご、ごめんね。香代は秋庭くんの事が……そ、そのう……き、嫌い……だったんだよね?」
「え? いや『嫌い』とまでは……」
んっ? ナンか誤解してない? べっ……別に『嫌い』とまでは行かないんだけど……
余程あたしの受け答えが好ましく思えなかったのか、亜紀は少し戸惑った顔をして、いつもの『遠慮がち』な言い方をした。
「でも、最近の秋庭くんの様子がなんだかおかしくて……お隣の香代なら何か家での事を知っているかもと思ったの」
「あたしが?」
あたしはいいやと首を横に振る。
「だって秋庭くん、昨日も練習中に田村くんと話をしていて、キャプテンから叱られていたもの」
「はあ?」
練習中に田村くんと外周を走っていたから、何か遣らかしたのかな~と思ったら、そう言うコトだったのね。
「あの練習熱心な秋庭くんが、私語でキャプテンから叱られるだなんて……それに、何だかここ最近、元気が無いみたいに見えるから……」
「そ……そう? あ、あたしには変わり無いように見えていたけどな」
亜紀の言葉にドキリとさせられてしまった。
慶のお母さんが入院して、昨日お父さんが帰って来るまで独りで大変だったみたいだもの。だけど、その事を亜紀は全く知らないハズ。なのに、どうしてそこまで読み取って心配出来るの?
あたしは亜紀が慶の事を、今でも本気で想っているのだと知った。亜紀は真剣に想っているのだわ。でないと、事情を知っているあたしでさえ気付かなかった慶の些細な変わり様を、こんなに敏感に感じ取れるはずが無いじゃない。
そう思ったら、何故だか急に胸が熱くなり、眼の前がぼやけて見えた。
やっぱりあたしは……慶の単なる『幼馴染のお隣さん』でしか……ないのかなぁ……
そんなもやもや感に囚われてしまったあたしは、それ以上慶の事で亜紀と会話を続ける事が出来なくなってしまった。
後に続く授業も全然頭の中に入って来ない。早く気分を切り替えてしっかりしなくっちゃと思うのに、焦れば焦るほど亜紀の想いが読み取れて余計に授業に集中出来ず、あたしは気分が晴れないまま授業を終えて、部室へと向かった。
* *
「香代良い? 亜紀、準備出来た?」
手際が早い姫香が、ラケットを握って立ち上がり、いつもの様に声を掛ける。
「うん」
「あ……うん」
あたしはテニスシューズを履き終え、亜紀はロッカーの扉を締めながら返事をした。
「でも、なんだか今日は静かだね」
「まだ誰もコートに来ていないのかな?」
亜紀の言葉に、姫香が答える。
普段は誰かが先に来て練習を始めているのに、この日は珍しくボールの弾む軽快な音も、コートを整備する一年生の声も聞こえては来なかった。
「あたし達が一番乗りかな?」
「かもね?」
『一番乗り』――あたしが口にしたその言葉が受けたのか、姫香がふふっと含み笑いすると、つられてあたしも亜紀もくすくす笑ってしまう。
そんなに早い時間でも無かったのに、まだ誰も来ていない午後のテニスコートに遣って来るのは久し振りで、沈みがちだったあたしの気持ちをほんの少しだけ上向きにさせてくれた。
このまま少しずつでも良いから、気持ちが晴れて行ってくれれば良いのにな……
そう思っていたのに、コートであたし達に背を向けてラケットを握っている独りの男子部員の姿を見付けてしまった。
相手側テニスコートのコーナー二か所には、サービスの練習の時に使用される赤いカラーコーンが置いてある。
「誰?」
「あ……」
姫香も亜紀も、その誰かさんに気が付いたみたい。
『慶だわ』――その言葉を口にせず、言い淀んでいると、亜紀が『秋庭くんだわ』と小声で言った。
誰よりも一番乗りでコートに現れた慶は、独りでサービスの練習をしている。
左手に軽く握ったボールを数回、手毬の様に突きながら相手コートを見詰め、これから放つサービスに集中しているらしく、グラウンドに現れたあたし達には気付いてはいないみたいだった。
ゆっくりとした慶の動作が弾んだボールを手にして、青い空へ小鳥を放つ様に投げ上げた瞬間、右手に握っていたラケットが大きく振り降ろされた。
ボールは鋭い音を立てて、相手側コートに置かれている赤いカラーコーン目掛けて、矢の様に吸い込まれる。
狙い澄ました慶のサービスは、見事サービスエリアの左側に置かれたカラーコーンを直撃した。
「……」
慶の正確且つ攻撃的なサービスを眼にして、あたしは思わず息を飲む。
男子部員の中でも『練習バカ』と言われているだけあって、慶のサービスは本当に模範的で綺麗なサービスだった。
暫く慶のサービスをじっくりと見る機会が無かったけれど、少なくとも去年の新人戦の頃よりも、狙いもボールの速度も格段に上手くなっている。
「っしゃ!」
慶が今のサービスに満足したのか、左手を握って小さく胸前でガッツポーズをした。
「ナイス・サーブ!」
亜紀のその一声で、あたしはハッと我に帰った。
こちらを振り返った慶の顔は、得意満面の笑みだった。
「遠藤さん、サンキュ!」
「あ、あのう……」
笑顔で応じた慶の返事に、亜紀は頬を赤らめる。
何か気の利いた言葉を掛けようとしているのか、それとも見詰められて頭の中が真っ白になっているのか、亜紀は慶の視線に何か言いたそうにもじもじして、一層顔を赤らめて俯いてしまった。