第73話 慶のお母さんの入院…4
「こんばんは」
「はぁーい」
お母さんが返事をした時だった。
リビングで会話が盛り上がり、大笑いをしていたお父さん達が、酔った弾みでテーブルに置いていたグラスか何かを倒した音が聞こえた。
慌てたお父さんがお母さんに雑巾を持って来るようにと声を張り上げる。
「香代? お母さん、今手が放せないからちょっと出てくれない?」
「ええ?」
やっと宿題に集中出来る様になった所だったのに……
机に向かっていたあたしは、嫌な顔をしてシャーペンを乱暴に置いた。
声の主が慶だって事は判っている。きっとお父さんを迎えに来たのだろうから、わざわざ出迎えなくったって、勝手に上がって貰えば良いじゃないの。
「香代?」
「はーい」
宿題の邪魔をされてテンションが低くなったあたしは、のろのろと椅子から立ち上がった。
階段を下りると、丁度玄関で立って居た慶と眼が合った。
「やあ、香代」
「……」
慶の声に何故か委縮してしまい、あたしは返事もしないで立ち尽くす。
ここ最近、あたしはお母さんから頼まれたせいもあったけれども、自分のお母さんが入院してしまった慶の事が気になってしまい、気が付けば慶を捜して見詰めていた。
慶は、あたしが慶のお母さんの入院の事を知らないのだと、今でも思っている筈。そのせいか、自分を見詰めるあたしの視線に気付く度に、慶はふと表情を和らげて軽く笑顔を浮かべてくれていた。
あたしは、慶にとっては知らせたく無いお母さんの入院の事を知っている――そんな後ろめたさがあったせいか、どんな顔をすれば良いのか判らなくて言葉に詰まり、あたしは慶と視線が合う度に、慌ててそっぽを向いていた。もちろん、慶の事を見ていると言う事実を他の子達に知られて、冷やかされたく無いって言う気持ちもあった。
でも、ここは学校じゃない。視線を合わせて困る事も無ければ、そっぽを向いて逸らせる必要も無い……と言うよりも、訪ねて来た慶に対して無視は出来ないもの。
ぎこちないあたしの様子に気付いた慶は、まるで腫れものに触るみたいにそっと話掛けて来る。
「あの……さ、うちの父さん……居る?」
「……」
「あ、上がっても……良いかな?」
あたしがこくんと頷くと、慶は『了解』とばかりに目配せを送って来た。
「お邪魔しまーす」
奥に居るお母さん達へ聞こえる様に声を張り上げた慶は、脱いだサンダルを揃えると、階段下で立ち尽くしているあたしを置いて、お父さん達が居るリビングへと急いだ。
「こんばんは。すみませんおじさん、おばさん」
「やあ、慶くん大きくなったね。何処のお兄さんかと思ったよ」
あたしの両親に謝る慶の言葉に、二人とも笑いながら『遠慮しないで』と温かく迎え入れる。
朝が早くて夜が遅いうちのお父さんにしてみれば、幾らお隣に住んでいるからと言っても、慶と会う事は滅多に無い。
「父さん! なにお邪魔してンだよ」
「慶か。久し振りだな~。どうだ? お前も一杯付き合わんか?」
「なに言ってンの? 僕、未成年なんだよ? さ、帰るよ」
「お? おお……」
「慶ちゃん、お父さん少し酔っているみたいだから、暫く酔いを醒ましてからでも構わないのよ?」
「いえ、大丈夫ですから」
そんな遣り取りが聞こえて間もなく、慶は自分のお父さんに肩を貸して玄関先まで遣って来た。
慶のお父さんは背が高くて、百八十二センチもあるがっしりした体形だけど、そのお父さんに肩を貸している慶も、もうすぐお父さんの背に追い付いてしまいそうだった。
「お隣だし、もっとゆっくりして行けば良いのに」
見送りに出て来たあたしの両親に向かって、慶はぺこりと頭を下げる。
「お邪魔しました」
「ああ、またいつでもいらっしゃい」
酔って顔が真っ赤になっているお父さんが答える。
「ごちそうさま」
ご機嫌になって酔っている慶のお父さんが、お礼を言って頭を下げた。その拍子にバランスを崩して倒れそうになったけれども、肩を貸していた慶がお父さんをしっかりと支えて事なきを得る。
「しっかりしなよ。歩ける?」
「ああ」
「靴、ちゃんと履いて?」
「あ、ああ……」
酔ってしまったお父さんに対して、しっかりとした態度で接している慶の姿を初めて見てしまい、あたしは何故だか自分の顔が熱くなって行くのを感じた。
「ありがとう香代。また明日」
「ああ、香代ちゃん。お邪魔しました~」
「えっ? あ、ああ……」
突然声を掛けられて驚いてしまったあたしは、つられて思わず片手を小さく振ってしまった。
『ありがとう香代』慶のその言葉が、あたしの熱くなった顔を一層熱くする。
みんなで慶達を見送った後、あたしはリビングの片付けを手伝おうと思って、二人の後に付いて行った。
「いや~、慶くん頼もしくなったなぁ~」
「本当ね」
久し振りに会った慶の姿に、お父さんは驚いていたみたい。だって、同じクラスで毎日一緒に居るあたしでさえ、慶の成長を感じてしまうんだもの。滅多に会えないお父さんなら尚更そう感じちゃうわよ。
「良いなぁ。あと何年かすれば、一緒に酒が飲めるんだよな」
そう言ってお父さんは、慶のお父さんを羨ましがった。
「あら、香代だってそうですよ」
「うん。でもちょっと違うんだよ」
「なにが?」
あたしは片付いたテーブルを拭きながら、お父さんの妙な拘りを感じて眉を顰めた。
テーブルを片付けながらくすくすと笑うお母さんに向かって、慶のおじさんが使用したグラスを手渡すお父さんが微笑する。
「息子と酒を酌み交わす事と、花嫁の父で居られるって事は、その家庭だけの父親の特権だからなぁー」
「はぁ? なにそれ」
「香代がもっと大きくなったら……判るかも知れないな」
それ以上は何も言わず、ソファに座り直したお父さんは嬉しそうな顔をして、自分で御猪口にお酒を注ぐ。
「……? 変な拘り」
なにその答えにもの凄く時間が掛るクイズみたいな言い方は。なんだか心に引っ掛かっているみたいで、居心地が悪くなっちゃうじゃないの。
あたしは不満を残しつつ、ご機嫌なお父さんをリビングに残して、二階の自分の部屋に戻った。
二十歳が来れば、女の人でもお酒は飲めるようになるし、もちろんあたしだってその年になればお酒だって飲める……飲める……のかな?
宿題の続きを遣ろうと、シャーペンを握ったあたしの頭の中には、全くお酒が飲めないお母さんの顔が浮かんだ。