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第72話 慶のお母さんの入院…3


「慶ちゃん、今日はやけに遅かったのね。今さっき帰って来たみたいだわ。香代、なにか知っている?」

時計の針は、既に十時を過ぎている。


 戸締りをしていたお母さんが、リビングに戻って来るなりあたしに聞いて来た。


「さあ……別に部活はいつもの時間に終わって解散したけど」


「確か、昨日は病院に行くと聞いていたの。でも、まさか今日も行ったのかしら?」


「そうじゃないの?」


 それまで雑誌を読んでくつろいでいたあたしは、お母さんの問い掛けが少しだけ面倒になって、いい加減な生返事をする。


 慶がどこへ行って遅くなったのかは、別に聞かなくても想像出来る。そりゃあこんなに遅くなって心配するのも判るけど、本人がもう無事に帰って来ているのだし、別に騒ぐほどの事は無いと思うのだけれど?


「偉いわね。慶ちゃん」


「『偉い』? 慶が?」


「そうよ。お母さんの病院へ通って……美咲ちゃんが遅く帰っているみたいだから、あの調子だと家の事も慶ちゃんが遣っているのじゃないかしら?」


「……ふうん」


 そう言われれば……


 あたしはお母さんの言葉に共感して雑誌から視線を外し、リビングの入り口に立って居るお母さんを見上げながら、慶が自分のお母さんが居る病院へと辿り着くまでの道のりを想像した。


 慶のお母さんが入院しているのは、隣の市にある県立の大学病院だそう。家からは車で行けば一時間くらいだけれど、公共の乗り物を利用すれば、バスや電車なら一旦市内中心部にあるターミナルへ行ってから、郊外行きの便へと乗り換える。大きく迂回うかいする事になるから、時間的には車と殆ど変わらない。


 運転免許を持って居て、なお且つ車を持っている美咲姉さんが一緒なら、あたしのお母さんだってここまで心配なんかしなかったと思う。でも、最近美咲姉さんの姿を見掛けてはいない。大学が忙しいのか、デートで忙しいのかよく判らないけれども、あたしが眠りにつく頃になると、お隣から美咲姉さんの乗る軽四自動車が、車庫入れをしているエンジン音が聞こえて来る。時には夜中の二時、三時頃、ご近所に申し訳なさそうに帰って来たりする。


 そして、次の朝には慶が美咲姉さんを叩き起こして……


「あ……」


 そこまで記憶を辿ると、あたしはどうして慶が毎朝美咲姉さんの事を酷い遣り方で叩き起こしたりするのかが、判ったような気がした。


 美咲姉さんが帰って来るまでの間、慶は自宅でずっと独りきり。部活で疲れて帰って来ても、家には誰も居ないから、御飯はお弁当を買って来るか、自分で作らないといけないし、洗濯だって遣っておかなくちゃいけない。


 もう中学生なんだから、料理や洗濯と言った家事は一通り習っているし、頭では判っているけれども、それをいきなり独りで遣るとなると……


 もし、あたしが慶の立場だったら、あたしには……無理だし、長続きなんかしないだろうなと思った。慶みたいに姉弟が居れば、お互いに協力して家事を分担出来る事も考えられるけれども、美咲姉さんがあの調子じゃ頼る事も出来ないわよね。


 そして慶は、家事を独りで四日間も続けている。美咲姉さんに対しての多少の不平や不満は出ちゃうかも知れないわよね。だからと言って、あんな酷い起こし方をしても良いって事にはならないと思うのだけど……



 あたしが慶の生活を真剣に心配し始めた六日目の夕方、自宅の駐車場には、珍しくお父さんの車が停まっていた。いつもなら八時や九時頃に帰って来るのに、今日はあたしよりも先に帰って来るだなんて。


「ただいま~」


 どうしたのかなと思いながら玄関のドアを開けた途端、男の人の豪快な笑い声に迎え入れられて驚いてしまい、思わずビクンと肩を跳ね上げてしまった。そして、その笑い声に交じって聞き慣れたお父さんの陽気な話声がする。


 誰? この品の無さそうな笑い声は? 一体誰が来たのかしら? お父さんのくつろいだ様子から、かなり気の置けない人が来ているみたいだけど。


 不審に思いつつ玄関先に視線を落とすと、お父さんの大きな黒い革靴と、その隣にはお父さんの靴よりももっと大きい革靴が、きちんと揃えられていた。


「あら、香代お帰り」


 お母さんはたった今台所から出て来た所だった。手にしている御盆には、温かいお酒が入っているらしい『徳利とっくり』が数本載せられている。


「ただいま。誰が来ているの?」


「ああ、お隣のおじさんよ。名古屋からさっき着いたのですって」


「慶のお父さんが?」


「そうよ。懐かしいでしょう? もう何年振りになるのかしらね?」


「おーい、母さん。熱燗あつかんはまだかい?」


「はいはい。今行きますから」


 奥のリビングから、お父さんがお酒の催促をする声が聞こえた。


 お母さんはリビングの方へ顔を向けると嬉しそうに応える。そしてあたしの方へ向き直ると『香代も着替えて後から来なさい』と言った。


 久し振りに会う慶のお父さん。名古屋にずっと単身赴任で中々此方へは帰って来られず、もう三年以上も会っていなかったせいか、会うのが少し恥ずかしくて嫌だった。


 だけど、これで慶の苦労が軽くなるのだと思った。きっと慶のお父さんが、慶の今までの負担を軽くしてくれるだろうから。



 リビングに行ってみると、二人は顔を赤くしていて締りが無く、すっかり『出来上がった』状態だった。二人のどちらかが並べて置いていた空いたビール瓶を倒したらしく、散らかった瓶をお母さんが片付けている。それでも久し振りにお互いが会えたせいか、みんな嬉しそうににこにこしていた。


「おお、香代ちゃん? ええと……香代ちゃん……だよね? 覚えている? おじさんの事」


「そ、そうです。こっ……こんばんは」


 ご機嫌で話掛けて来るおじさんに、あたしは何故だか数十年後の慶の姿を妄想してしまい、思わず退いてしまった。


「いやー、大きくなったねー。おじさんが知っている香代ちゃんは、まだこのくらいの小学生だったから」


 おじさんは右手を軽く挙げて、少し膨れた自分のお腹の前にかざして見せた。


 あたしは思いっ切り愛想笑いを浮かべる。


 おじさん、少し太った? それともそのお腹はビール腹?


「香代ちゃん、お母さんに似て美人になったじゃないですか」


「いやいや、秋庭さん言ってくれますね」


「本当じゃないですか。なあ、香代ちゃん」


「は、はぁ……」


 そこまで言うと、二人とも何がおかしいのか再び陽気に笑い出した。そして、お互いのお母さんのめ合いになった。しかも普通に話せば良いものを、ご近所に聞こえるのじゃないかしらと心配してしまうくらいの大声で。


「嫌ですよ、お父さん」


 手放しで褒められたお母さんは流石に恥ずかしくなったのか、お父さんに軽く眉をひそめて見せる。


「じ、じゃあ、あたしは宿題があるから……ごゆっくり」


 あたしはおじさんにぺこりと一礼をして、そそくさと二階へ逃げた。


 慶のお父さん帰って来て良かったと思った。だけど、幾ら久し振りに会ったからって、お父さんまでお酒に呑まれちゃって……ショックだわ。あんなに酔ったお父さんを見るのは初めてだったし、正直、あたしは見たくない姿だったから。


 あたしは二人のだらしない姿を眼にしてしまい、奇妙な嫌悪感を抱いてしまった。


 そもそも、なんで慶のお父さんが帰省するなり、着替えもせずにスーツ姿で家に居るのよ? とは思ったけれど、考えてみれば慶の家にはまだ誰も帰って来ていないから、家に入れないんだわ。


 おじさん慶達に帰って来る事を知らせていなかったのかしら? それとも慶達が聞いていたのに忘れているの?


 早く慶が帰ってくれば良いのに。おじさんだって疲れているだろうし、あたしだって酔っ払いの声なんか聞きたくない。


 二階に引き籠ってしまったのに、二人の開け透けない笑い声が嫌でも耳に入って来て不快だった。こうなっちゃうと宿題もなにも手に着かないじゃないの。


 苛々していると、間もなく階下でインターフォンの音が聞こえた。そして『こんばんは』と言う慶の声がする。


 まったくもう……もっと早く迎えに来てよっ!


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