第71話 慶のお母さんの入院…2
「いつまで寝てるんだよ! 起きろよ美咲っ!」
「ったく、うるさいわねぇー。頭に響くからそんなに怒鳴らないでよぉー」
「遅刻したって知らないからな。大体なんでそう毎日毎日、夜遅くに帰って来るんだよ」
「付き合いがあるんだから仕方無いでしょ」
「『仕方無い』じゃあないよっ! じゃあ付き合いに十歩譲るとしても、朝くらい自分独りでさっさと起きろよ!」
「あああ、もう! うるさぁあ~い!」
「だったら起きろーっ!」
「……」
まさかとは思ったけれど……まーた今日も始まったわ。お隣。
慶のお母さんが入院した次の日から、慶と美咲姉さんとの遣り取りが二日連続で続いている。
あたしはお隣から聞こえて来る喧嘩腰の遣り取りにうんざりしながら、制服のブラウスに袖を通してベストを羽織った。
それにしても、慶が取った美咲姉さんへの起こし方は疑問だわ。朝っぱらからあんな風に起こされちゃ、誰だって堪らなくなっちゃう。
あたしは慶の強引な起こし方に対して、少なからず腹を立ててしまった。美咲姉さんが逆ギレするのも頷けるし、可哀想じゃない。第一、その遣り取りを嫌でも聞かされてしまうこっちの事だって考えて欲しいわ。
スリッパのぱたぱたと言う軽い音を立てながら、あたしは機嫌を損ないつつ階下のキッチンへ向かった。
キッチンの入口にある暖簾を潜ると、既にお父さんは会社に出勤した後で、お母さんも自分の会社へ出掛けるために、先にトーストを食べている。
「香代、おはよう」
「おはよ」
あたしはお母さんの向かいにある、いつもの椅子を引いて座った。
「今日も慶ちゃんが美咲ちゃんを起こしているのね」
「みたいね。でも、美咲姉さん可哀想。だって、あ~んな起こし方をするんだもの」
お母さんの言葉にあたしは素っ気なく言い返すと、お母さんはクスクスと笑った。
テーブルの端に置いていたトースターから可愛らしい音がして、中からアツアツのトーストがポン! と飛び出した。あたしは左手にお皿を持つと、そのトーストへ空いている右手を伸ばす。
「男の子らしくて良いじゃない?」
「冗談。怒鳴られて起こされるだなんて迷惑だわ」
焼きたてのトーストにバターを塗りながら、あたしはお母さんからそれ以上慶達お隣の話は止めて欲しいと思って、わざと興味無さそうな素振りをした。
だって、お母さんってば何かあるとすぐに慶達の事を話の引き合いに出して来て、『香代も姉妹が欲しかった?』だなんて言い出すんだもの。そりゃあ姉妹が居れば今とは違った生活があるだろうけれど、今更って感じだわ。あたしは今の生活で十分なんだから。
「そう? でも慶ちゃん偉いわぁ。ちゃんと朝起きて美咲ちゃんを起こしているんだから」
「だからぁ、その起こし方に問題があるって言ってるの」
ああ……昨日もだったけど、なんだか朝から苛々する。
自分の言葉に合わせるように、あたしは眼の前に置かれていたサラダの中のトマトを、フォークで無造作にぷつりと刺した。
お母さんはそんなあたしの心を読んだのか、『そう?』とだけ言って軽く笑いながら、あたしの反論を受け流した。そして、食べ終わったお皿とコーヒーカップを流しへ持って行く。
「ねぇ、香代」
「ん~なに?」
「慶ちゃんのお母さんが戻って来るまで……少しだけでいいから、慶ちゃんの事を見ててあげて?」
「なんで?」
咄嗟にそんな言葉が口を突いた。言葉の響きの冷たさに、言ってしまったあたし自身が驚いてしまう。お母さんもあたしの返事が意外だったらしくて怯んでしまったのか、少しだけ『間』があった。
「そうね……『見る』のじゃなくて、時々で構わないから『気に掛けてあげて』欲しいの」
その時、あたしはお母さんの言葉の意味が良く判らなかった。でも、先に言った自分の冷たい言葉に退いていたあたしは、迷わず『うん』と言って頷いてしまう。
だけど……慶の事を『気に掛けてあげる』……って、どうすればいいの?
お母さんから滅多に受けない頼み事を聞いてしまったような気がして、その日からあたしは無意識に慶の事を眼で追い掛けてしまうようになった。
* *
「土橋ィ。お前さっきから、アキバケイの事ばっか見てね?」
「えっ?」
「あいつになんか用か?」
三時限目の理科の授業中に、あたしは隣の席に座っていた藤田くんから囁かれて、飛び上がってしまうほど驚いてしまった。
だけど、あたしが慶の事を見ていただなんて認めれば、また昔の頃の……小学校の時と同じように、クラスのみんなから誤解されてからかわれてしまうかも知れない。
あたしはそんな幼稚な誤解をされまいとして、精一杯冷静さを保って小声で冷たく言い返した。
「別に気のせいでしょ? なんであたしが『あんなの』を見てなくちゃいけないのよ?」
「お? お、おお……」
「うへぇ~、土橋ってキッツゥ~」
あたしの強烈な拒絶を喰らった藤田くんは息を飲み、それまで黙って彼の隣であたし達の遣り取りを聞いていた森くんが、あたしの言葉を混ぜ返した。
「そこ、私語は止めなさい」
「すみません」
先生からの注意を受けて、あたしは素直に謝って頭を下げた。その間、隣に並んでいる二人の男子をじろりと睨んで遣ったら、二人は居心地が悪そうにしてそれぞれがあさっての方を向く。
ついでに視線を泳がせたら、偶然こっちを見ている慶と視線がぶつかってしまい、どきり! と心臓が大きく音を立てた気がした。あたしは胸のドキドキを廻りに聞かれてはと、思わずぷいとそっぽを向いてしまう。
あ、あたしは別にあんたの事を気になんか……していないんだから……
そう強気で想い込もうとすればするほど、あたしの気持ちは……本当の気持ちは、慶の事が気になって仕方が無かった。
お母さんが入院して家にいないのに、慶は昨日も今日も特別変わったような素振りは見受けられない。それどころか、かなり雑で乱暴だけれど、美咲姉さんのお世話だって出来ているじゃない。もし、あたしが慶だったなら、きっと落ち込んでしまって何も出来ないでしょうね。
小さかった頃は、あたしが慶の傍を離れただけで泣き出していたくらいなのに。人に頼ってばかりいた小さな男の子だったのに――
一体、いつからそんなに強くなったの? どうすればそんなに……
慶の事を気に掛ければ掛けるほど、あたしは慶が判らなくなって来た。お隣で幼馴染だと言うのに……
どうしてなのかな? 口先では慶に対して興味が無いように言っているのに、その実、慶に惹き付けられているみたいな気がする。
そんなちぐはぐな気持ちを他の子達には知られたくなくて、あたしは自分の気持ちを隠そうとして、慶に対し今まで以上に、冷たい素振りをしてしまうようになって行った。