第70話 慶のお母さんの入院…1
な、なによ……変に気を利かせた心算なんでしょうけど、あたしには却って迷惑だったって事、慶はどうして判ってくれないの?
そ、そりゃあ、プレゼントは嬉しいけれど……だからと言ってこんな渡し方をして欲しくは無かったのに……
慶の事を独りで誤解していたあたしは、結局自分の執った酷い行動を理屈で正当化してしまい、素直に慶に謝る事が出来ないままだった。
* *
あたし達は二年生に進級し、学年で七クラスあったにも関わらず、やっぱりと言うか、お約束通りと言うべきなのか、それとも神様の気まぐれだったのか……あたしと慶はまたしても同じクラスになった。
そして軟式テニス部も新入生を迎えて、ひと段落したかしらと思えるようになったゴールデン・ウィーク明けの最初の週末。
穏やかな春の日差しが降り注ぐ朝だったけれども、その日はいつもの朝だとは思えなかった。
何がそうさせるのだろうかと不思議な胸騒ぎを覚えたあたしは、それがお隣である慶の家がいつもの空気と違っているのだと気付き、そっと二階の窓辺から慶の家の庭先を見下ろした。
小学生になった記念にと慶のお母さんが庭に植えた八重桜が、明るい日差しを浴びて濃いピンク色の花弁を綻ばせている。慶はその桜の木陰に美咲姉さんと並んで立ち、出掛けて行こうとする慶のお母さんとおばさんを見送っている所だった。
「行ってらっしゃい」
けれども、明るくそう言った慶にはいつもの元気が無く……それどころか少しだけ心配そうに送り出しているような声をあたしは聞いてしまった。
お母さんが慶達に何か話掛けている最中、タクシーの運転手さんと付き添いの人らしいおばさんが、一緒に大きな荷物をタクシーの後部トランクに載せている。
あたしはそこで、あたしのお母さんが話していた通り、慶のお母さんがとうとう入院してしまうのだと知った。
おばさんが検査入院じゃなくて、本当に手術が必要で入院すると言う事を慶だけには知らせていないらしい。だから、あたしは絶対に慶にその事を言っては駄目よとお母さんから釘を刺されている。当事者である慶が知らない事を、どうしてあたしが知らなくちゃいけないの? お隣同士だからって、お互いの家庭事情を知っておく必要があるのかしから? それともお母さん達は、あたしがまだ慶のお守役を買っているとでも思っているのかしら? 大人達はどうしてそんな廻りくどい事をしないといけないのかしら?
そう疑問に思ったけれども、逆にあたしが慶の立場だったらと考えた時、そのワケがなんとなく判ったような気がした。
だって、あたしが慶の立場であったら、絶対に知りたく無いもの。知ってしまえば気になって、勉強どころじゃなくなってしまうし、心配ばかりして駄目になっちゃいそう。不安に押し潰されてしまいそうなんだもの。
でも、だからと言って、あたしにそんな大切な事を伝える必要があったの?
『昔はよく慶ちゃんのお世話をしてあげていたじゃない。香代はしっかりしているから……』お母さんはそう言っていたけれど……
あたしだって、おばさんが大変な事になっていると知って平気で居られる筈なんか無いじゃない。本当は、まだ脆くて崩れ易い心しか持っていなのに……
慶のお母さんがタクシーに乗る間、慶は美咲姉さんと何やら小競り合いをしていたみたいだったけれど、お母さんがタクシーに乗ってしまった途端、慶は『母さんは自分の心配だけをしていなよ。僕達は大丈夫だから!』と、大きな声で叫んだ。
気追い込んでしまったのか、それとも車のドアが閉じられてしまったからか、突然大きな声を出した慶の後ろ姿を、あたしはハッとして見詰め直す。
成長して大きくなった慶の広い背中が、小学生だった当時の小さな背中と二重にダブって見えてしまった。
そう言えば……あれは慶が小学四年生になった春――慶は今と同じように、自分の気持ちを抑えて単身赴任になった自分のお父さんを見送っていた。慶のお母さんと美咲姉さんが家の中へ入ってしまった後、慶は独りで泣きながらいつまでも手を振っていたのを、あたしはこの窓から今と同じように見ていたのだわ。
あれから数年が経ったけれど、今でも慶が家族へ必要以上の心配を掛けさせまいとして気を遣っているのが判る。慶の『気遣い』……と言うか、優しさは昔も今も変わってはいない気がした。
むしろ、変わってしまったのは……
変な息苦しさを感じて、あたしは思わず窓辺に背を向けると、そのまま座り込んでしまった。
「や、やだ。あたしったら、なんでストーカーみたいな事しているのかしら?」
お隣を覗き見している自分に気が付いて、思わず独りで呟いてしまった。幾ら気になるからって、こんなのはいけないわと反省して恥ずかしくなってしまう。
あたしが心配しなくても、慶は独りじゃない。慶には美咲姉さんが居るんだもの。きっと美咲姉さんが……
「……あれ?」
美咲姉さんって、確か家事が大の苦手だって言っていなかったっけ?