第68話 あまのじゃく…5
慶の『お返し』ホワイトデーの日は散々だった。
小さい頃から融通が利かなくて、不器用で、空気が読めなくて……って、なんて相変わらずなの? 義理チョコのお返しなら、家が隣同士なんだから直接渡せば済む事じゃないの。それをどうして学校でなんか……しかも他の女子が居たのに渡そうとなんかするのよ?
許せないわっ!
帰宅後、あたしは勝手にチョコをあげてしまったお母さんに八つ当たりをしてしまった。
「お母さんもお母さんだわ! 幾ら慶にチョコが無いからと言ったって、本人が勝手に持て余して手放したチョコじゃないの。同情し過ぎ。甘過ぎだわ!」
「お母さんは『頂戴』と言ったのよ? 貰ったチョコを別に慶ちゃんにあげても良いでしょう?」
「そう言う理屈じゃないの!」
「なにを怒っているのよ?」
あたしは慶が律儀に『お返し』を他の女の子の前でしようとした事。迷惑だと思ったあたしは逃げ出した事を、興奮しながらお母さんに打ち明けた。
「慶のせいでこんなに恥ずかしい想いをしなくちゃいけないだなんて、小学校の修学旅行以来だわっ! 大体、あの時だってお母さんが慶に頼んだりせずに直接持って来てくれれば良かったのに」
「そうね。でも、あの時は凄く急いでいて……お母さんだって遅刻しそうだったの」
「だったらパートなんて止めれば良いじゃ……」
「香代っ!」
あたしが喋れたのはそこまでだった。
いきなりお母さんの右手が素早く伸びたかと思った瞬間、あたしの左頬が音を立てた。お母さんから叩かれた頬は鋭い痛みを伴って、たちまち熱を帯びて熱くなる。
「痛っ!」
驚いて眼を見張るあたしを見て、お母さんは一瞬ハッとしたみたいだったけれども、すぐに口元をきゅっと引き締めて、強い眼力で以って見返して来た。
「少し我儘過ぎやしない?」
「……」
お母さんはそれだけ言うと、あたし一人を置いてリビングから出て行った。
「……」
なんでだろう? 胸が痛いよ。どうして? 視界が揺らいで見えるの?
お母さんは今、地元銀行のパート勤務。本当は、あたしが生まれる前までは、そこの会社の正社員で、かなり上の役職に就いていたらしい。あたしを身ごもって四カ月だった時に、流産をしそうになって急に入院をしてしまい、会社に迷惑は掛けられないと、一旦は辞表を出したそうだ。けれども、会社からのお母さんへの評価が高く、無事出産して育児にひと段落着けば、また復帰して欲しいとの連絡を貰っていた。
子供を育てながらの会社勤務は、今時ならそんなに珍しい事では無いらしいけれども、あたしが小さかった頃は、なかなか会社側からの理解を得られない場合が多かったのに、お母さんの努めている銀行はそうでは無かった。
『そんな会社だからこそ、パートでも頑張って働いているの』それがお母さんの口癖であり、あたしから見れば一種の『誇り』みたいなものだった。
『人にはそれぞれ事情があって、他の人には判らない。理解出来ないかも知れないけれど、譲れない部分があるの』そうも言っていたっけ……
だけど、どうしてお母さんと関わって来るのが『慶』なの?
お隣さんだから? 小さい頃から知っているから?
* *
次の日の朝、あたしは学校へは行きたくなかった。だって慶との『あんな所』を一葉や先輩方に見られてしまったんだもの。
きっと姫香や亜紀の耳にも届いている筈よ。そして『香代がズルをして抜け駆けした』だなんて、言いふらされているんだわ。
『誰とも今日は話したくない』だなんて思いながら重い足取りで教室へ入ると、あたしの斜め後ろの席で、先に登校していた慶が門田くん達数人で朝から和気あいあいと盛り上がっている。
好い気なものね。まったくもう……慶のお陰で昨日はお母さんに叱られちゃったんだから。
あたしは話に夢中になっている慶の背中に向けて、キツイ視線を送ってやった。
「あ、香代おはよう」
「おっおはよう」
あたしを見付けて声を掛けて来た亜紀に小さく驚き、そしていつ慶の事を言い出されやしないかと怯えて小さく縮こまってしまう。
ああ、もうそれ以上は何も言わないで……だなんて思っていたのに、着席したあたしを追い掛けて早速亜紀が遣って来た。
「はい、これ」
「え?」
亜紀が嬉しそうにあたしの机の上に出して来た物は、見覚えのある包み紙。しかもこれって昨日慶があたしに向かって差し出した包み紙じゃないの!
どうしてこれが此処にあるのよ?
あたしの身体の何処からか、すううっと血の気が音を立てて引いて行った。
「あ、あ、亜紀?」
「なに?」
「これ……ど、どしたの?」
だっ、誰から?
「ああ、秋庭くんからよ」
亜紀の何気ない一言であたしの髪が逆立った。
あたしが素直に受け取らなかったから、今度は亜紀に押し付けたの?