第60話 文化祭…8
「この試合、何が何でも止めさせなくっちゃ」
「あ、待ってよ、舞ちゃん」
元々責任感が人一倍強い部長の長谷川先輩は、廊下でざわめいている部員の在り様に、遂に我慢が出来なくなったらしく、椅子から勢い良く立ち上ると、肩で風を切って歩くみたいにずんずんと調理室を出て行った。そして、その後を追う様に残っていた百瀬先輩方も出て行く。
「……」
残されたあたしは、複雑な気持ちで先輩方の後ろ姿を見送った。
姫香達と一緒に、もう一度慶の試合を見てみたい気持ちが半分と、残りの半分は長谷川先輩と同じく、顧問の先生の許可無くして『今は遣るべきでは無い試合』にSTOPを掛けなくてはいけないと言う気持ち。だけど本当は、長谷川先輩の気迫に呑まれて怖くなって、素直に先輩に合わせてしまった――あたしは無意識のうちに先輩から嫌われるのを避けて、在る意味良い子ぶってしまったのかも知れない。
どうしよう。長谷川先輩からは快く思われたかも知れないけれど、一緒に居た百瀬先輩や金子先輩からは、あたしはどう思われてしまったのかしら? 他の一年生はみんな隣の教室へ行っているのに……もしかしたら、変な子だって思われてしまったのかも知れないもの。
あたしは何故だか急に先輩方の視線を意識してしまい、咄嗟に口にしてしまった自分の言葉に、自信が持てなくなってしまった。
「おい、準備が出来たって言ってる……」
「その必要は無いわ!」
慶達をコートへ引っ張り出そうとしていた男子先輩方が再び外から声を掛けた途端、長谷川先輩が更に大きな声でぴしゃりと言い放つ。
一瞬にして、ざわざわして浮足立って居た部員全員が息を飲み、空気が凍ったように思えた。
あたしは得体の知れない不安を抱きながらこっそりと、廊下に集まっているみんなの傍に歩み寄る。
「当の本人達がその心算が無いみたいだし、外野がとやかく言う必要は無いでしょう? それに、今日は何の日だか、みんな判っているの?」
慶達の様子を見て安堵したしたのか、落ち着いた長谷川先輩の声に、あたしはそっと教室内を見廻して、慶の姿を捜した。
みんなが遠巻きに高柳くんの座っている席に注目している。その視線を辿って、あたしは向かい側に座っているエプロン姿の慶を見付けた。先輩が噂していた八神くんはその場には居なかったし、彼の不穏な存在感さえ微塵も見出せない。
「あの時、グリップチェンジでまさか秋庭が切り返して来るとは思わなかったよ」
「僕にはもう後が無かったからね。単なる苦し紛れさ」
「そんな事は無いさ。秋庭はいずれ硬式に?」
「うん。その心算。高柳は?」
慶の問い掛けに、高柳くんは注文していた紅茶を一口飲んで、にっこりと笑った。
「僕もだ。だったらこれを機会にもっと積極的にグリップチェンジを遣った方が良いかも知れない。特に、バックハンドストロークでのヘッドスピードを上げたいと思う時に、浅めのイースタングリップで手首と腕をしならせてヘッドを加速した方が間違いなくヘッドスピードは上がると思うんだ」
「あ、なる……」
あたしの心配を余所に、どうやら慶は高柳くんの再戦を無難に回避出来たみたいで、二人の間には和やかな雰囲気が醸し出されている。
「ちぇ、つまんねーの」
「せっかくのイベントだったのに」
ホッと胸を撫で下ろしたあたしのすぐ横で、男子の先輩それぞれが呟き、その場を後にした。その先輩方に倣う様に、次々と部員が愚痴を溢しながら各自の持ち場へと散って行く。
「はぁ~、土橋、アキバケイって、根性無しか?」
「えっ?」
不意に背後で田村くんの声がした。田村くんは慶の試合を待ち望んで、反対していた門田くんと揉め合っていたのを、あたしは知っている。
「あ、あの……」
「ホント。せっかくのチャンスなのに馬鹿だわ」
気弱になってしまったあたしの言葉に被せるように、姫香がキツイ一言を浴びせた。
『そんなことは無いわ』と否定したかったけれど、それ以上あたしは何も言えなくなってしまう。
「土橋、気にすンなよ。一時はヤバイ空気になりそうだったけど、アキバケイだって今は何をするべきかくらい弁えてる。それに、高柳って奴も判ってくれたみたいだしな」
誰かと思って振り返ると、その声はすれ違いざまに発せられた門田くんのものだった。
門田くんは、慶を炊き付けようとしていた田村くん達に反論して言い争っていたのだったわ。
あたしは門田くんの声に励まされた気がして、沈んでいた気持ちが軽くなる。そして、ここにももう一人……
「秋庭くん、彼と仲良くなれたみたいで良かったわ」
そう言って笑い掛けてくれたのは、慶の事を今でも想っている亜紀だった。
「う、うん」
「あのままみんなに流されて、許可無しで試合なんて遣ればどうなっていたか判らないもの。でも秋庭くん、きっぱりと彼の申し込みを断っていたわ。後日お互いの都合の良い日にゲームをしようって」
「そうなの?」
「ええ」
意外だった。だって、慶は昔から人に頼みごとをされれば断る事が出来なかったから。
何事も穏便にしようとする傾向が強い慶は、時には自分にとって厭な事でさえ引き受けたり、不利になる様な事を押しつけられたり……でも、それでも他の人に頼ったり、泣きついたりなんかしない頑固な所が在ったから、いつもあたしが見るに見兼ねて慶の代わりに断ると言う、意地悪な女の子の役を引き受けていた。六年生の時から慶と距離を置くようになってからは、門田くんが慶の断り役になっていた事だって、あたしは薄々気付いていた。今日の高柳くんの事だって、自分からハッキリと断る事なんか出来ない、気弱な慶だから廻りや先輩方に流されてしまって、とんでもない事になってしまうのじゃないかしらと思って心配していたのに。
ところが、高柳くんの来校は、慶にとっては単なる交流として終わったけれども、それまでの経緯が顧問の藤野先生の知る所となり、勝手に試合をさせようとした男子部員に厳重注意が行われ、藤沢中学校の男子軟式テニス部はとんでもない事態に巻き込まれてしまった。