第50話 新人戦…5
「や、八神くん」
あたしは思い切って彼に声を掛けてみた。お節介だと思われてしまうかも知れないけれど、それでも同じテニス部員なのに、一人で放置されるだなんて寂し過ぎると思ったから。
けれども、八神くんはあたしの声が聞こえなかったみたいだった。
ううん。絶対に聞こえていたはずなのに、彼は無視を決め付けたんだわ。だって声を掛けた時に一瞬だけ八神くんが立ち止まったのを、あたしは見てしまったんだもの。
久し振りに逢った八神くんはすっかり性格が変わっていた。相変わらず、女の子かと見間違えそうになるくらい綺麗な顔立ちをしているけれど、何だか今はトゲトゲしていて近寄り難くなっている。
みんなが慶の応援を優先するのは判るけれど、それでも同じテニス部の部員なのに、応援席から立ち去る八神くんを引き留めようとする人は他に誰も居なかった。中学一年生にしては小柄な八神くんの後ろ姿が、あたしの眼には余計に小さくなって見える。
「なんか、取っ付き難くて感じの悪いヤツだわね」
「土橋、あんな奴の事なんか気にするだけ無駄だって。もう良いから放って措けよ」
姫香の言葉に田村くんが付け足す。
だけど、二人とも昔の八神くんを知らないからそんな酷い事が言えるのだと思った。
「でも……」
「土橋、あれは自己中な我儘を繰り返した八神自身の問題なんだ。ああなってしまった以上、もう本人が自覚して気付くまで、外野がとやかく言ったって駄目なんだよ」
あたしと同じく昔の八神くんを知っていた門田くんが、視線は慶の試合に向けたままであたしに向かって忠告した。
「アウト!」
審判の凜とした声が響き、慶の試合を観て居なかったあたしは、ハッとして我に返った。
押されていた慶の試合状況を思い出してしまい、あたしは恐るおそる慶のコートへと視線を送る。
慶のコート側の副審が、片手を挙げて高柳くんのボールがアウトになったと判定を下していた。ラインぎりぎりの際どいコース判定に、これで終わりになるかも知れないと、固唾を飲んで見守っていたみんなは、ホッと安堵の息を吐いてざわざわとざわめいた。
「っきっしょー! アイツ、さっきからアキバケイの弱点ばかり狙って来やがって」
「仕方ないでしょう? 勝つためには」
「はあ? お前はどっちの味方なんだよ?」
「そ、そりゃあアキバケイには勝って欲しいけど、でも対戦相手が強過ぎるわよ」
熱くなった田村くんに、姫香の容赦無い冷静な突っ込みが入る。
軽口を叩いている田村くんだけど、慶がかなり苦戦している様子が彼の焦りとなって表れているのが判って、あたしは正直、この試合をじっと見守り続けるのが辛くなって来ていた。
確かに今の慶はベストコンディションで試合に臨んではいない。だからと言って痛んでいるだろう右の手首を庇いながら、歯を食いしばって必死に対戦している慶がここで負けたとしても、誰も慶を責めたりなんかしないのに――
それでも慶は気力を振り絞り、果敢に高柳くんに向かって挑戦した。両手打ちでラケットのリーチが短い分、そのリスクに対してコート内を懸命に走ってカバーする。
慶を追い詰める高柳くんは、左右へ振り回すよう慶を走らせながらチャンスとあらば、球足の速いリターンを繰り出し、時には慶の身体目掛けて鋭いボディーショットを仕掛けて来る。けれど、慶は粘り強く返球して、なかなか勝負を彼に譲ろうとはしなかった。
今振り返れば、慶の自主トレにあたしが呼び出されて慶へボディーショットを仕掛けるよう田村くんが注文をしていたのは、この時の為だったのかなと思った。
激しい接戦ラリーが続いた末、高柳くんよりも先に慶の体力と集中力が遂に底を尽いてしまったらしい。慶がリターンをアウトさせてしまった直後に、高柳くんの強烈なスマッシュが、慶のラケットを弾き飛ばして決まってしまった。
悲鳴とも絶叫とも取れる声が部員達から響いたけれど、お互いが全力を尽くした名勝負に、プレーヤー二人に対して、双方の観客席からは割れんばかりの拍手と声援が惜しみなく注がれた。
勝敗の明暗を分けるように、高柳くんはラケットを握ったまま空に向かって両手を挙げ、観衆の声援に応え、慶は待機していた顧問の先生に連れ攫われるようにして足早にコートから退場し、病院へと向かった。
「良い試合だったな」
「ああ」
「まるで決勝戦を観ているみたいだったよ」
負けてしまったけれども、鳴り止まない拍手に囲まれて満足そうに笑顔を浮かべる部員に混じって、田村くんが冗談を言ってみんなを笑わせる。
「あれ? 亜紀は?」
「れ? 何処に行っちゃったんだろ?」
気が付くと、興奮して拍手を送る姫香の隣に座っていた亜紀の姿が消えていた。
もしかして亜紀は慶が負けたのは、自分のせいだと思ったのじゃないのかしら? でも試合前までに慶の怪我は治っていた訳だし、お医者から暫くは安静にするようにと言われていたにも関わらず、自分からトレーニングを再開して完治を長引かせてしまったのは、他ならない慶本人の責任だわ。だから、今更亜紀が責任を感じる事なんか無いのに。
会場の外で自分を責めて泣いているのかも知れないと思った。あたしは亜紀を探そうと、ベンチから腰を浮かせる。
「良いから、暫くはそっとしておいてあげなよ」
「え? で、でも……」
「思い込んじゃうとこのあたしでさえ何を言っても聞かないから。今はそっとしておいてあげて」
あたしが姫香の言葉を振り切って、亜紀を追い掛けないようにしているのかは判らなかったけれども、姫香はあたしの右手を取り、きゅっと握って来た。しっかりとした口調だったけれど、姫香の手は緊張しているのか少しだけ冷たかった。
多分、姫香もあたしと同じで、本当は今すぐにでも亜紀を探し出したい気持ちで一杯なんだなと思った。
「もう少ししたら、一緒に捜しに行こう」
「うん」
「あー、お前等何? 女同士で手なんか握り合っちゃって」
調子に乗って突っ込む田村くんを、真剣な顔になった姫香がキッと睨み付ける。
「う、うるさぁ~い!」
「土橋さん、川村さん、騒がない!」
「す、すみませ~ん」
二年の先輩から名指しで注意されてしまい、あたしと姫香は居心地が悪くなり小さくなってしまった。ちらりと騒ぎの張本人を見上げると、田村くんは意地悪そうにニヤニヤ笑ってこちらを見ている。
「ったく、あ、あの馬鹿……なに勘違いしているのよ」
「……」
怒った姫香が、顔を真っ赤にして呟いた。
あたしも姫香と同じように顔を赤らめてしまったけれど、それは男子の田村くんからそんな風に見られてしまったのかと、恥ずかしくなったからだった。