第43話 帰り道
暫くお互いが黙り込んでしまい、居心地が悪くてどんよりとした重い空気があたしを包む。でも、きっとそれは慶も同じだと思った。
「か、香代、あの……さ……」
「……?」
あたしの斜め後ろで自転車を押して歩いていた慶が、躊躇いながら先に沈黙を破った。
だけど、さっきまでみんなと一緒だった時は、自然に慶を見る事が出来たのに、今はダメ。
声を掛けられて少しだけホッとしたけれど、振り向いて慶を見詰める勇気が出ないあたしは、自転車を押してのろのろと歩きながら、浅く俯いてしまった。
視線の先には、何の変哲も無いアスファルトが延々と続いている。けれど、あたしの中では慶の事を意識していて、慶の一語一句を聞き洩らさない構えで耳を欹てている。
それは慶がこれから言い出すかも知れない、あたしの禁止NGワードが頭の中を駆け巡ったから。
慶がそのNGワードを話題として取り上げれば、すぐにでもダッシュして自転車を漕いで逃げ出そうと思ったから、両手で握っている自転車のハンドルをぐっと強く握り締めて身構えた。
「今日は来てくれてありがと」
慶は微妙に照れながらあたしに話し掛けて来た。
ゆっくりと歩いていたあたしの歩が止まり、思わずその場に立ち停まる。
「……」
「香代が来てくれて、愉しかったよ」
ありきたりな社交辞令なのかも知れないけれども、それでも何故だか嬉しくて、気持ちがやや上向きになる。慶が先に話し掛けてくれたせいか、あたしはそれまで張り詰めていた心の糸が、一気に緩んでしまった。そして、胸に痞えていた重苦しい不快感が和らいで軽くなる。
なに? あたしはもしかして、慶からお礼を言って貰いたくて、ずっと不機嫌だったとでも言うの?
あたしって、そんなに『何様』だったワケ?
「べっ……別にあたしは……」
「結構上手くなったじゃない?」
「なにが?」
「ボールのコントロール。田村がマイペースでゲームを進めたから、前半は殆どポーチに出られなかったみたいだけど、後半は積極的だったよね。三セット目の時には遣られたなぁー。綺麗に決められちゃったし」
ああ、唯一慶がリターン出来ずにパスしてしまったやつね?
何を言い出すのかと思ったら、さっきのゲームの反省会? 相変わらず気が利かないと言うか、テニス馬鹿って言うか……
呆れて見上げると、眼の前にあたしと同じく自転車を押す格好で立っている慶と視線が合ってしまった。
街灯に照らされて無邪気に笑った慶の顔が何故だか眩しく思えて、あたしは戸惑いながら顔を逸らせてしまう。
「て、手首もだけど、頭はもう大丈夫なの?」
「あ? ああ、あれ? 軟式だからそんなに痛くないのは香代だって知ってるじゃない」
「そっ、それはそうだけど……」
打撃の良い音がしていたし。
「ま、その……あれから川村のサービスの度に、前衛でビビってたのは事実だけど」
慶はゲームの最中に、ペアを組んでいた姫香のミスサーブで、後頭部を直撃されていた。
セオリーとして、慶はあたし達相手コートからのリターンに集中するため、ペアである姫香のサービスの時に、背後は完全に無防備状態になってしまう。
姫香だってわざと慶の事を狙ってサービスしたのじゃないのだろうけど、味方のまさかの攻撃に、前衛で構えていた慶はその場に頭を抱えて蹲り、あたしとサービスをした姫香は驚いて――そして田村くんは慶の不幸を見て、コートに引っ繰り返って大爆笑した。
ミスサーブでペアを攻撃って言うのは意外とある事だし、あたしは経験者じゃないけれども何度かそのシーンを見た事があった。でも、今日みたいに狙い澄ましたようクリティカルにヒットして、慶の真上垂直にボールが高く跳ね上がったのを見たのは、これが初めてだったから。
あの時は心配したけれど、もう本人が大丈夫だって言っているんだもの。
そう思ったら気が抜けて、思わずくすくすと笑ってしまった。
「あー? なに思い出し笑いしてるんだよ」
「え? だ、だってぇ……」
あたしが笑うのを注意している慶が、釣られてくすくす笑ってる。
声変わりをしてしまった慶の笑い声を聞いたのは、この時が初めてだった気がするわ。クラスの男子の馬鹿笑いとは全く違う、低くて幅の広さを感じさせる慶の笑い方が妙に大人っぽく思えてしまい、あたしは頬とおでこが異様に熱くなってしまった。
でも、薄暗い街灯の下だから、きっと慶には気付かれたりはしないわよね?
先に口を閉ざして笑うのを止めたのは慶の方だった。
あたしには、慶が急に黙ってしまったように思え、訝って慶に倣う。
「なぁ、香代」
「ん?」
「遠藤さんには、そのう……この事を内緒にしていて欲しいんだ」
「どうして?」
言葉を選んで言い難そうにしている慶を、あたしは見上げた。
慶の手首の怪我だって、あの時は誰が見たって事故だと思うだろうに、試合間近に慶に怪我をさせてしまったと強く責任を感じて、自分を責めていた亜紀。
だったら、リハビリゲームをしている今こそ、彼女を呼んであげた方が亜紀だって喜ぶのじゃないのかしら?
「ほ、ほら。遠藤さんは責任感が他の女の子よりも強いから、僕がこうして香代達と自主トレしていたのを知れば、きっともっと責任感じてしまうからさ」
「なんで口止めみたいな事をするのよ? 亜紀も呼んであげればいいじゃない」
『あたしなんか呼ばなくっても、あんたの事をずっと一途に想い続けている亜紀が居るんだよ?』そう口に出してしまいそうになったけれども、あたしはそれ以上言えなかった。