第4話 居合わせた男の子
姫香からごちそうになった帰り道、あたしは舌先に仄かな甘いクレープの余韻に浸りながら、二人に入部希望の真相を知るべく、探りを入れた。
「ねぇ、亜紀はどうして慶の事が好きになったの?」
「うわー、香代ってば『慶』って呼び捨て?」
「あのね……」
呆れて言葉を失った。
「何年慶のお隣さんを遣っていると思っているのよ? そんなあたしが『秋庭くん』って呼ぶ方がよっぽど不自然だわ。なら二人とも呼び捨てにしたら?」
「おおっ? 幼馴染から呼び捨てのお許しが出たわよん? 亜紀ぃ~、どーする?」
「でっ……でもぉ……」
姫香がにやにやしながら、『そんなこと出来なぁ~い』だなんて言って赤くなって俯いている亜紀を肘でつつく。
二人は『彼』の話題になると妙にソワソワして落ち着かなくなるところがある。同性のあたしから見ても可愛いなと思うのだけれど、そのお相手が慶だなんて……あたしとしては微妙だわ。
「で? さっきの話だけど?」
「あー、あたし無視ぃ?」
「姫香は後から聞いてあげるから」
茶化さないで欲しいのに、テンションが上がってしまったのか、姫香は超上機嫌。亜紀も姫香に乗せられたのか、クスクス笑っている。
あたしも二人に合わせて表面では笑っているけれど、その実、心の中では何を聞かされてしまうのか心配になって、ドキドキしていた。
亜紀が慶と出会ったのは、歳の瀬も押し迫った去年の冬休みの事だった。
週に二回、停留所を七つ通り越した隣町までピアノのレッスンを受けに通っている亜紀は、この日、今年最後のレッスンを終えてバスに乗り、帰宅の途についた。
けれど、運悪く仕事納めの帰宅ラッシュと重なって、定員をオーバーしたバスの混み具合は半端じゃなかった。
次のバス停で降りなければいけないのに、亜紀の立っている場所からは、停車サインのコールボタンまで手が届かない。
立ち位置さえ変えられず、ままならないほどの混み具合の中で精一杯片手を伸ばすけれども、五年生女の子の平均身長よりも背が低くて、身体が小さい亜紀にとって、そのボタンは全く届かない場所にあった。
どうしよう……
他の人に『押してくれませんか』の一言が恥ずかしくて、言葉に出して言えない。けれど、降りるはずのバス停は、どんどん近付いて来る……
いよいよ困って、泣き出しそうになった時、亜紀の頭の上から声が降って来た。
「次、降りるの?」
「……」
見上げると、自分の通っている小学校の校章が胸に入っている、白いジャージを着た背の高い男の子が、亜紀のすぐ傍に立っていた。
亜紀が涙目になって大きく頷くと、男の子は亜紀の代わりにボタンを押してくれたのだそうだ。
「で? それが慶だったの?」
「ん……」
亜紀は恥ずかしそうにもじもじしながら頷いた。
あたしなら、別にボタンを押してくれた男の子にときめいたりなんかしないけど?
「まあまあ、香代、まだ続きがあるんだって」
不満げなあたしの表情を読み取ったのか、姫香が亜紀の話をフォローする。
男の子が停車ボタンを押してくれたお陰で、バスは亜紀の下車するバス停に停車した。けれど、今度は余りの混み様に、バスを降りたくても降りられない。
「降りるんでしょ?」
「で……でも……」
人を掻き分けて出て行こうにも、身じろぎ一つ出来やしない。そもそも、亜紀には人を押しのけて自分が通るなど、実行どころか考える事すら思い浮かばなかった。
「降りる人が居ますので、少しお待ちください」
せっかく運転手がアナウンスしてくれたのに、降りそうな客の気配が無いと覚った他の乗客から『悪戯じゃないの?』と言う声が上がった。
ざわざわとざわめき始めたバスの車内で、切羽詰まってしまい、今にも泣き出しそうになった亜紀は、さっきの男の子から急に腕を掴まれた。
「降りまぁーす!」
亜紀が想像もしていなかった元気な声が車内響いた。
男の子は亜紀の腕を掴んだまま、他の乗客の中に分け入って、ぐいぐい乗車口に連れて行く。
「なんとか降りられたね?」
「は……は……い」
バスから無事に降りられた亜紀は、男の子からそう声を掛けて貰った。亜紀は安心して気が抜けてしまったけれども……何か大変な事を忘れてしまっているようでならない。
「降りる時は、頑張って勇気出さなくっちゃ」
「あ、ありがとうございました」
男の子にお礼を言ってぺこりと頭を下げる。そして、そこでハタと思い付いた。
「あ、あのぅ~」
「ん?」
「降りて……良かったのですか? あなたまで」
車内でボタンを押して貰った時、確か一緒に降りる予定では無かったみたいな言い方をしていた彼だったけれど……?
「えっ? う、うわっ! マジっ?」
亜紀の問い掛けで我に返った男の子は、かなり慌てていたと言う。そして、次のバスが来る間、亜紀も一緒に待っていたのだそうだ。
男の子は気を利かせて、いろいろ話し掛けてくれたけれど、亜紀は恥ずかしさと緊張で会話どころじゃ無かったらしい。相槌を打つのが精一杯で、会話の内容さえ覚えていなかったそうだった。
唯一、亜紀が覚えていたのが小学校の白いジャージ。それがテニス部のジャージだと知ったのは、年が明けて三学期始業式が始まった後の事だった。
「ね? ね? 笑えるでしょっ? ふふっ、二人とも間抜けなんだからー」
姫香が噴き出したかと思ったら、今度はお腹を抱えてくくく……と笑い出した。その背後で、亜紀が照れて耳たぶまで真っ赤になり俯いている。
「ははは……」
思わずあたしも乾いた笑いをしてしまった。
はぁ、なんか……慶らしいオチだわ。
優しい所は認めてあげてもいいのだけれど、なにかこう……スマートさに欠けちゃうのよね。慶がトロいのはもう既に知っているし、話の途中でこうなるだろうなと結果は予測出来ていたのだけれど……
でも……ちょっとだけ、慶の事を見直しちゃった……かな?