第100話 運命の女神様…9
まるで悩み事なんか一つも無いみたいな慶の暢気な笑顔を見ていたら、今まで悩んでいたあたしって……あたしって馬鹿みたい。
「なに言ってるの? 何処に行っていたのよ! もう!」
「ああ、要兄と一緒だったんだ」
「要兄?」
あたしは何処かで聞いた事があるその名前を訝って訊き返す。
「うん。美咲のカレシ」
「……」
また『カレシ』。
そのキーワードに引っ掛かって、思わず言葉を失ってしまった。あたしはさっきまでその事を忘れようと思って苦労していたのに、また思い出しちゃったじゃないのよ。
当たり前だけれど、慶はあたしのそんな悩みなんかこれっぽっちも気付いてはくれない。
慶はあたしが作ってしまった『間』を訝っているのか、浅く首を傾げてあたしの様子を窺っている。
そ……そんなに……見ないでよ。
思わず俯き、そして今はそんな時じゃないわと我に返る。
「そ、それどころじゃないわ。今の今まで何処に居たのよ?」
「どうしたのさ。そんなに怖い顔をして」
「『怖い顔』で悪かったわね。あたしの事は良いから。何処へ行っていたの?」
この悩みなんかまるで無いみたいな、晴れ々とした顔はなに? 勝手な事をしでかして、人に心配させておいて……少しは反省くらいしなさいよ。
あたしの怒りのボルテージがぐんぐん上がって来る。
「ああ、要兄とツーリングに行ってたんだ。バイクって楽しいもんだね。僕も免許が欲しくなったよ」
「慶ッ!」
あたしが急に大声を出したものだから、慶はハッとして息を飲んだ。
人が心配しているって言うのに……この能天気っ! 今日、自分が何をしでかしたのかを思い出してみなさいよね!
あたしは不安で胸が苦しくて、どうにかなってしまいそうなくらい、一杯心配したんだから。
「今はそんな事を言っている場合じゃないでしょう? しかも自分のお母さんの大切な手術の時に、美咲姉さんの彼氏とツーリングって……一体どういう神経しているのよ?」
「そ、それは判っているよ。でも、僕にだって事情が……」
理由を言い掛けた慶は、慌てて口籠った。そして、手術の事をどうしてあたしが知っていたのかを不思議がっているみたいだった。
「良い? よぉ~っく聞いて。五分くらい前に、あたしの携帯へ美咲姉さんからの連絡があったの」
「?」
瞬時に、あたしの真剣な表情から空気を読んだ慶は真顔に戻った。
「話の途中で呼び出されて……また掛け直すって。美咲姉さん、何だかもの凄く慌てていたみたいだったけど……」
慶は話が終わらないうちに、あたしの手から自分のカバンを奪う様にして取り上げると、急いで自宅へと引っ込んだ。
開けっぱなしのドアから慌ただしくカバンを放り投げる音がした。その後すぐに慶は再び家から現れると、倉庫のシャッターを乱暴に押し上げて、中から自分の自転車を持ち出して来る。
「慶? 何処へ行くの?」
「決まってる。大学病院だよ」
「大学病院? ちょ、まさかその自転車で? 今から?」
「行って来るっ!」
大学病院は郊外にあり、ここから直線距離で二十キロ以上離れている。郊外行きの電車で乗り継いでも片道だけで結構な時間が掛るのに、それを自転車で行こうとするの?
行けない距離じゃないけれども、これから夕暮になり暗くなって行く一方だし、道路も混雑する時間帯。しかも、あたしの言葉で慶は落ち着きを失くしてしまっている。
もしも……何かが起こってからじゃ済まされないのに。冷静さを失っている慶を独りで行かせるだなんて、危険だと思った。
「待って! 慶!」
「香代、来るなっ!」
あたしは自分の怒りに任せて慶を闇雲に奔らせてしまった事を後悔した。
慶に倣って、急いで自分の自転車を漕ぎ出した。
今、慶に付いてあげられるのは、あたししか居ないんだから……そんな想いが湧き起こる。
直ぐに追い付けると考えていたあたしは、自分の読みの甘さを反省した。
あたしは、頼りない昔の慶のままだと……あたしよりも体力が無くてひ弱な慶だから、すぐに追い付けるだろうと思っていた。なのにあたしのギア付きの自転車を以って全力で追い掛けても、中々慶には追い付けない。それでも、あたしは力の限りペダルを漕ぎ、夢中になって慶の後を追い掛ける。
やっと慶に追い付いたのは、学校校区を出た辺りの、国道とバイパスが交差する横断歩道だった。
信号待ちをしていた慶にやっと追い付く事が出来たけれども、慶は少しも嬉しそうにはしてくれなくて、怒っているみたいだった。
「付いて来るなと言っただろう? 遅くなるから帰れよ」
「何よその言い方。大きなお世話だわ。アンタだけじゃ心配だもの」
頭ごなしにきつく言われてカチンと来る。八つ当たりなら御免だわと思った。それこそ、今まで時間があったにも関わらず、病院へ行かなかった自分が悪いのに。
それに……ショックだった。慶があたしに向かって怒鳴ったりするなんて、考えても見なかった事だから。でも同時にそれは、慶が先を急いでいて他に余裕が持てなくなっているからだとも判っていた。
判ってはいるのだけれども、もっとマシな言い様は無かったの?
「意地っ張り! 置いて行くぞ」
「そっちこそ!」
「なんで僕が香代に置いて行かれなきゃなんないんだよ!」
「言ったなぁ!」
売り言葉に買い言葉。人がせっかく心配しているのに……
「暗くなる前に帰れって」
「うるさい!」
あれ? もしかして、あたしの事を心配しているの?
鬱陶しそうに慶が言った言葉は、もちろんそのままの感情もあったでしょうけれども、あたしの事を気に掛けての言葉でもあったのだと思った。