既存小説となろう小説
既存小説となろう小説の主な違いは、主に風景などの描写量の大小が言われる。
既存小説は読者に対し、風景を伝えるため描写に文章の多くを費やし、逆になろう小説は風景など描写の文章の多くを省くといった具合だ。
これが出来るのも、現在の読者がかなり少ない文章量で多くの想像が出来るためである。
著者は既に40を超えたが、それでも小さいころからゲームやTVなどで沢山の創造世界の映像に接してきた。
よって、少ない描写で沢山の映像が想像できるのである。
逆に、著者の親世代は70代。
小さいころにはカラーテレビも貴重品だった世代だ。
当然に沢山の創造世界の映像には接してきていない。
その分、多くの映像に関する描写を小説家が担ってきたのだ。
歴史上進化というものは、その多くがある部分を退化させる代償を支払うものである。
例えば、我々は電車や車を使い、移動時間を他のことに使うことに成功したが、その分昔の人に比べて足腰は退化してしまっただろう。
それと同じように、なろう小説は詳しい描写を省くことになったが、結果的に少ない文章量で短時間に多くの情報量を読者に伝えているのだ。
なろう小説が描写の少なさにバッシングを受けることを多数見てきたが、それはより新しい需要に応えた進化に対するものであると解釈すべきであろう。
話は変わるが、著者は小さいころ、読書感想文が泣くほど嫌だった思い出がある。
なぜこんな沢山の文章を読まないといけないのだろう、と思ったものだ。
当時は、もし文章量が少なくても内容が分かる書き方があれば、とは思わなかったが、なろう小説という至便な表現方法があれば、昔の読書感想文も楽だったかもしれない。
きっと、なろう小説とは既存小説から進化した形態であるのだ。
……では、なぜ今なろう小説が叩かれるのか?
多分、人類は何時の時代も『最近の若い者は……』と言いたいのである。
……しかし、もしかしたら、進化無き退化かもしれないが。




