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仁義無き戦い? 【2】

ここ、都内某所に事務所を構えるのは昔気質(かたぎ)の古風な任侠道で斯界に名の知れた、広域指定大門寺一家であった。

親分(おや)っさん、お加減は如何で?」

「あー__」

「親分ッさん__」

嘗ては一代の侠客として名を轟かせた大親分、桐蔭匡為の変わり果てた姿に若頭の夏目大吉は涙を流した。

大門寺一家は、戦後の経済発展と供に急速に近代化、企業化したこの世界に在って、今時珍しい昔気質の義理と人情を重んずる伝統派のヤクザとして、業界では一目置かれる特異な存在なのである。

戦後、押し寄せる経済発展の波に好むと好まざるとに関らずヤクザと言えど急激な体制の変化を余儀なくされ、任侠道は地に落ち見る影も無く鳴りを潜め、暴力を商品に堅気の人間を苦しめる事をもって生業とする、所謂“暴力団”へと堕落したのであった。嘗て、ヤクザの本場は関東、俗に言う関八州の侠客などが知られる存在であったが、経済活動に軸足を移した戦後には、本場は関西に移行した。譬え、世間に対する只のタテマエとは言え、一応曲がりなりにも任侠とか義理人情が表看板であった頃には関東が本場だったのに対し、関西に移ってからはそう言った慎ましやかな体裁ですらかなぐり捨ててヤクザと言えば金、ブランド品、外車、政治家との癒着と言ったさもしい図式が完全に定着してしまい、他人に対し本性を隠すと言った遠慮すらも失われたのである。

昔気質のヤクザは嘆きながら言った。金がヤクザを殺した、と。ヤクザの世界では金儲けの事を“シノギを立てる”と言うのだが、その語源は博徒と言う本来生産性の無い渡世を全うする為に、止む無く一時的に金儲けに手を出す事に由来し、その場を凌ぐ、一時シノギに過ぎない筈だったのである。所が、昨今のヤクザはシノギを立てることを持って本業としたかのように、一にも二にも、金金金と目の色を変える有様であった。今では大半が廃刊してしまったアニメ雑誌が雨後の竹の子のように刊行された昭和五十年代には、経済極道などと言う堅実なのかどうなのか良く判らない言葉が顕在化し、任侠雑誌なる得体の知れない出版物が景気良く出回っていたそうである。

そんな中に在って、未だ昔ながらの任侠の道を貫く大門寺一家は押し寄せる時代の波に抗って、同業者の間からは複雑な評価を受けつつも今日に至っていた。しかし、時代に逆らって己を貫くと言うのは並み大抵の事では無く、彼等は長く苦しい冬の時代を生き抜いてきた。そして漸くそれが報われ始め、ここ数年、彼等大門寺一家は、業界内部におけるその存在が徐々にクローズアップされ始めたのである。

数年前に施行された暴対法に加え、出口の見えない平成大不況の真っ只中、一時羽振りを利かしていた経済極道たちも青息吐息で喘ぎ始め、嘗ては時代の波に乗り、ノリにノリまくっていた連中が逆に前時代の遺物として淘汰され始めたのであった。嘗ては時代の寵児として持て囃された経済極道も、今となっては金に血道を上げ続けた異常な時代に咲き誇った只のアダバナ、恰も中生代の環境に過適応して巨大化し、巨体を持て余して時代の移り変わりに取り残されて滅亡した恐竜を思わせるお粗末であった。

そんな、金に身も心も売り払った浅ましき亡者どもから見れば、時代の流れに屈する事無く任侠道を貫いた昔気質の大門寺一家が、ヤクザの本来の姿であると漸く気付いたかのようであった。それを支えていたのは、何と言っても桐蔭親分の貫禄と人徳に他ならない。暴力団対策法が施行されるに当たって、この大門寺一家を広域暴力団として指定するかどうか、警視庁で検討したくらいであった。無論、好意からだったがこれを聞いた桐蔭親分は色を為して怒り出し、メンツが立たねえ、桜田門に殴り込みだ、と叫んだほどである。とは言え、大門寺一家は世に言う“武闘派”と言う訳ではなかった。任侠道とは、忍耐の道である。ヤクザとは本来戦闘のエキスパートではない。第一この武闘派等という戦後俄かに流行り出した、取って付けたような言葉自体がその事を如実に物語っているではないか。元々集団行動が基本の狼の場合“一匹狼”と言う言葉が有るのに対し、単独生活が原則の虎には“一匹虎”などと言う言葉が無いように。ヤクザが力に訴える時、それは最早、暴力である。故に“暴力団”なのである。洋の東西を問わず、本来のヤクザの姿は辛抱なのである。幕末から明治にかけて大阪に一家を構えた、鍵屋万吉という大親分は、若い頃“辛抱万吉”と呼ばれ、大阪西町奉行所のあらゆる拷問に耐えて大いに売り出したのだ。第二次大戦前後、アメリカにマフィアを中心とした巨大な犯罪シンジケートを築き上げた功労者で“ラッキー・ルチアーノ“と呼ばれるドンも、成る程、腕や頭脳なども秀でてはいたものの、彼がその世界に名を轟かせる切欠となった事件は若い頃、マフィア同士の抗争で敵方のドンに捕まって拷問を受けたにも拘わらず、五体満足で生還してきたという不死身の忍耐強さであった。その強運を称して”ラッキー“の尊名を頂戴したのである。『血のヴァレンタインデー』などと言う抗争絡みの殺傷事件で世の中に名の知れたアル・カポネなどは、仲間内ではキレ易く頭の悪い粗暴犯として軽蔑されていた。つまり、矢張りヤクザにとって最も重要な、評価の基準は”辛抱“と言う事であった。

それでも、ここまでの道のりは生易しいものではなかった。バブル全盛の頃には、上辺こそ伝統派の古風な侠客たちに一応の敬意を表していた同業者達だが、その一方で金儲けにせっせと勤しみ、時代遅れな任侠の徒たちを内心嘲笑って我が世の春を謳歌していたのであった。時代の渦中にどっぷりと浸った、勝ち組と呼ばれる成功者にはその先の事など見えず、見る事を意識的に避け、ヤクザと言えば最低外車が一人一台と言う状態が永遠に続くと信じていたのであった。昔ながらの任侠道が復活するなどと言うのは、さながらムーの白鯨が海上から天空に浮上するような白昼夢であり、そのような妄想に浸るムー原人などは時代錯誤を通り越して一時代前の段階の生物、日光江戸村を通り越して日光猿軍団のような連中と嘲笑っていたのであった。

時代は確実に移り変わりつつある。

しかし、皮肉な物であった。

「親分っさん」

「おお、新の字か?」

「親分っさん……」

若頭の夏目大吉が悲しげに呟いた。

「新蔵の奴あ、三年前エに死んじまいやした」

「オオ、済まねえ、徳次郎だったか?」

更に昔に稼業の行き掛かりで命を落した、駆け出しの頃に散々世話になった兄貴分の名前に、大吉は言葉にし難い悲しみを抱いた。

“親分っさん、何てエ情け無エお姿に__”

大吉は涙を流した。

この大門寺一家の三代目大親分こと桐蔭匡為、嘗ては一代の侠客として名を為したこの親分も、若い頃の無理がたたったのかここ数年特に老人性痴呆症の症状が悪化し始め、その日常の挙動は典型的なアルツハイマー型の兆候が深刻化していた。

「……大吉でやす、親分っさん」

「おお、大吉か。苦労を掛けるなあ。お前さんは良くやってくれとる。まだ若エんで頭という訳には行かねえが、歳が長けたらきっとお前エを若頭に据えてやるからな」

「恐れ入りやす、親分っさん」

夏目大吉は、もうとっくに若頭筆頭の地位にある。当然、大親分直々の指名に他ならない。逆行性健忘症の症状が顕著であった。

「気を使わねえでおくんなせえ、あっしは修行に精出して頑張りやすんで」

大吉は親分に逆らわなかった。

“世の中ってのは、何でこんなに理不尽に出来てやがんだ__”

夏目大吉は運命の皮肉にやりきれない思いだった。

“折角、こうして大門寺一家の名前が再び斯界に知れ渡り、親分っさんの貫いた任侠の道が日の目を見ようってエ、この時に__”

この桐蔭匡為親分は、ある意味では歴代の親分の中で最も苦しい時期に跡目を継いだと言えるだろう。時恰も、戦後は終わったと言われた昭和元禄真っ只中の右肩上がりの時代、二代目親分の指名を受けて大門寺一家の跡目を継いだ匡為親分は皆が挙って金儲けに直走る世相に逆らって、極道の本分を貫いた苦労人であった。同盟国側の犯罪組織が国家権力の統制の前に壊滅的打撃を受けた戦前戦中も苦しかったろうが、ヤクザの在り方そのものが根本的に問い直された戦後のバブル時代も、その波に乗った者はいざ知らず、それと拮抗して対立していた立場にとっては筆舌に尽くし難い苦難の時代であった筈だ。しかし、漸くその苦労が報われ、一旦彼等の頭の上を通り越したかに見えた時代が再びUターンを始めた頃には親分もめっきり老け込み、嘗ては最後の侠客と謳われた硬骨漢も、今ではすっかり恍惚の人と成り果てたのである。

知り合いの親分の中には、好意で係り付けの腕の良い医者を世話しようとか、いい漢方薬が手に入ったとか声を掛けてくれる者もあった。功成り名を為した親分は、殆どの場合健康管理に気を使う。その手の知識や心掛けは素人離れした者も多かった。周りみんなが金儲けに血道を上げていたとは言え、桐蔭親分と同期の親分衆もそんな浅ましい自分を内心恥じていたようで、昔気質の硬骨漢に正直敬意を抱いていたのである。単に道徳的な意味ばかりではなく、こう言った真ッ正直な侠客ならば利害の対立も少ないから、金銭に絡んだトラブルが発生した時には周りの親分たちも、良く桐蔭親分に手打ちの仲裁を頼んだから頭が上がらないのだ。

そんな時、桐蔭親分は、

「あいつ等も、本当は任侠を心得た連中なんだ。只、身内を抱えてどうしても食わせて行く為、身を落さにゃあ、ならんで」

等と彼等を弁護した。

「それに比べてわしは、お前エ等子分たちに苦労ばかり掛けてよう、不甲斐無い親父を許してくれや」

そんな桐蔭親分の心意気に、黙って着いて行く者も、多くは無かったものの皆無でもなかった。その筆頭が夏目大吉であった。

“親分っさん__”

その頃__


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