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あの子の名前の一文字目

作者: 案菜
掲載日:2021/01/30

 寒いと思えるうちは、まだ寒くない。この街に住み始めて八年がたったけれど、そういうことなんだと自覚した。

 プレハブよりは暖かい環境の職場を出ると、黒い闇の中に冬の星がゆっくりと瞬いているのが見えて、自分の内側から吐き出た空気が白く染まっているということには意識が向かなかった。雪で濡れているアスファルトはまだ凍ってはいないが、何となく注意しながら歩き始める。

『こういうときは、おでんを食べたくなるよね。駅前のコンビニのおでんをさ』

 顔を思い出すこともなくなった旧友の声が、脳内に響く。そういえば、名前も思い出せない。美術部で、眉毛が薄くて、遅刻魔で、えくぼが可愛くて、下唇の豊かな厚みには思わず触れてしまいたくなるくらいの、優しい子だったということは、覚えている。顔全体はぼんやりとしているけれど、部分的には思い出せる。脳内モンタージュはできない。そりゃそうか。もう一年以上会っていないのだから。

 く、だっけか、あ、だっけか、ゆ、だっけか。彼女の名前の一文字目すら思い出せない。自宅に着くまでに思い出せたら、何だか嬉しいのにな。寂しいな。ん。さ、さ、さ、あ。思い出せた。さっちんだ。

 手袋越しに自分の頭を撫でる。寂しさが少し遠くへ飛んで行った。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 寒い冬が舞台のお話ですが、何だかほっこりとなりますね。最後の「寂しさが少し遠くへ飛んで行った」という表現が好きです。
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