昼の顔
昼の顔
――昔、あるところにそれは醜い娘がおりました。
道を歩けば石を投げられて嗤われ、実の親ですらあまりの醜さに会おうとしません。やがて年頃になり、一人の男に恋をした娘は自分の醜さに絶望し、いっそ儚くなってしまおう、と森へ行きました。
すると、そこに魔女が現れたのです。
魔女は娘の嘆きを聞くと、お前のもっとも『うつくしいもの』と引き換えに絶世の美女にしてあげよう、と言います。
自分にうつくしいものなどないと思っている娘は喜んで魔女に魔法をかけてもらい、家に帰りました。うつくしくなった娘に両親は大喜び。綺麗なドレスを着せてお城に送り出しました。
こうして醜い娘は世界で一番うつくしい娘になり、素敵な王子様と結ばれたのでした。
――まあ、これ、私の母の話なんですけどね。
アンヌマリーは今日も今日とてうつくしい母を見て、内心で吐き捨てた。
ちらり、と隣の席に目をやる。
双子の妹であるマリーベルは、今朝も朝食を部屋でとっている。父も、母も、使用人でさえ、マリーベルをかまうのは陽が沈んでからだ。
アンヌマリーとマリーベルは、テティートゥリアン子爵家に生まれた双子の姉妹である。
世界一うつくしい娘から生まれた姉妹は、母親の元の顔とそっくりだった。魔女がかけた魔法は娘に引き継がれなかったのだ。
物語なら王子様と結ばれてめでたしめでたしだが、現実はそうはいかない。人とは思えないような――父親は姉妹を見て「なんだ、このガマガエルは」と言い放ったそうだ――顔に、うつくしい娘は不貞を疑われ、しかしこのような顔をした男に身を任せる女がいるとは思えず、さては呪いかと大騒ぎになった。
母は、こんなのは自分の子ではない、と言い張り、捨ててしまおうとまで話が進んだところで魔女が現れ、世界一うつくしい娘が実は世界一醜い娘であったことが暴露された。
魔女は言った。
『お前にかけたものと同じ魔法を娘たちにもかけてあげよう。ただし、二人いては力が足りない。どちらかを日の出から日没まで、どちらかを日没から日の出まで、世界で一番うつくしてあげる』
こうしてアンヌマリーは昼の間、マリーベルが夜の間だけ、母譲りのうつくしい顔を得ることになった。
「……ごちそうさま」
「あら、もういいの?」
「ええ。食べ過ぎると、馬車に酔うんですもの」
ちなみに、夫を騙していた妻と妻の不貞を疑った夫は、そんなことなどなかったかのようにふるまっている。姉妹が生まれる前はそれなりに愛があったらしいが、今では仲睦まじく見せかけているだけだ。
世界一うつくしい娘はお城のような学園でたちまち多くの男を虜にした。実家は男爵家で、一番釣り合いのとれる子爵家に嫁いだにすぎなかったのだ。実際は、学園で出会った王子や高位貴族の子息たちの愛人だった――今も、なお。
父に愛人がいることをアンヌマリーは咎められない。裏切られ続けていた父には慰めが必要だったのだ。
うつくしい母は満足そうに微笑む。姉妹が乗る馬車は、王子様付きの王家の紋章が付いた馬車だ。
「殿下に失礼のないようにするのよ」
「わかっています」
アンヌマリーの顔にしか興味のない男であっても、相手は王族だ。断れなかった。妹のマリーベルと一緒に、と言うのが精一杯の抵抗だ。
母は姉妹に、自分のようになってほしいと願っている。
貴族の男を虜にし、ちやほやされて、ドレスや宝石を貢がれ、不祥事が起きても権力が揉み消してくれる。何不自由ない人生だ。
そんなものが本当に幸福なのかしら。アンヌマリーの朝は、いつも憂鬱だった。
食堂を出てマリーベルの部屋に行く。妹はすでに学園に行く支度を調えて、アンヌマリーを待っていた。
「ベル、待った?」
「ううん。アンこそ早かったじゃない。ちゃんとご飯食べたの?」
どうやらマリーベルは今日の予習をしていたらしい。教科書を閉じると心配そうに寄ってきた。
その顔は、ぎょろりと大きな両目が顔の両端に付き、鼻はぺちゃんこで、薄い唇は耳まで裂けている、ガマガエルのような顔だった。肌も不健康そうに荒れてでこぼこしている。
ぱっちりとした大きな目にすっと伸びた鼻筋、ふっくらと愛らしい唇のアンヌマリーとは似ても似つかなかった。ただし金の髪と青い瞳の色は同じである。
誰もが正反対の意味でぎょっとして振り返る姉妹だが、気にしていなかった。昼と夜ではこの顔が逆転するからだ。
たしかに、アンヌマリーはフィリップ王子をはじめとする男たちにちやほやされている。
しかし、今はそうでも学園卒業後、社交界に出れば、そんな待遇など泡と消えることがわかりきっているのだ。
昼間の茶会などは女性がメイン。男女の社交となれば晩餐会や舞踏会、つまりは夜会になる。
そこに、アンヌマリーは出られないだろう。
「殿下との同乗よ? ご飯なんて喉を通らないわ」
相手の顔しか見ていない男に褒めそやされてもちっともうれしくない。アンヌマリーは母のようにだけはなりたくなかった。
「しょうがないわねえ。なら、チョコレートを持って行って。昨日、ジュディ様にいただいたのよ」
ジュディ・ライトニング公爵令嬢はフィリップ王子の婚約者だ。他にもアンヌマリーに言い寄る男たちの婚約者とマリーベルは仲が良い。彼女たちは姉妹の秘密を知る友人だった。
迎えの馬車が来るまでアンヌマリーとマリーベルは予習した。顔ではなく中身で勝負がしたければ、学ぶしかなかった。
「おはようございます、フィリップ王子」
出迎えに来た王子にアンヌマリーはさきほどの嫌悪感を完全に消し去った笑みを浮かべた。楚々とした所作で、それでも待ちきれなかったとばかりに駆け寄ってきたアンヌマリーにフィリップが相好を崩す。
「おはよう、私の可愛いアンヌマリー。君の顔を朝から見られるだけで今日も一日頑張ろうと思えるよ」
「光栄ですわ。わたくし今日もフィリップ王子が迎えに来てくれてとても幸せです」
アンヌマリーが王子と挨拶を交わしている間に、顔をヴェールで隠したマリーベルが馬車に乗りこんでいた。
普通なら不敬を咎められるが、これは王子の指示である。アンヌマリーとの邪魔をするな。顔を見せるな。存在自体が不快なのだからいないようにしろ。
双子の妹を面と向かって罵られたアンヌマリーは秘かに激怒した。誰より努力家で、昼の間は醜いとわかっていても堂々と学園に通う妹を、アンヌマリーは誇りに思っている。マリーベルの良さを知ろうともしないくせに、なんて酷いことを平気で言えるのだろう。
こんな男が王族で、王子だなんて最悪だ。アンヌマリーは怒りを表に出す代わりに泣いてみせた。
わたくしとマリーベルは双子でございます。双子の妹をそのようにおっしゃるからには、わたくしの存在も不快ですのね。
嘆くアンヌマリーに王子は慌てて弁解した。そういう意味ではないのだ、と。しかし撤回はせず、謝罪もしなかった。むしろあんな醜い妹にまで心を砕くアンヌマリーにさらに惚れこんでいった。
王子にエスコートされて馬車に乗る。あんなに慌てていたくせに、王子がマリーベルへの態度を変えることはなかった。王子の視界に入らないよう身を縮め、ひたすら俯いているマリーベルにじくじくと胸が痛む。
「それでな、王宮のバラが見事に咲いたのだ。このバラ園は特別で、父上が母上のために自ら植えたのだそうだ。今度君にも見てもらいたい」
「まあ、素敵ですこと。では皆様でお茶会にしましょう」
その話は知っている。現国王は王太子時代、学園で出会った男爵令嬢と恋に落ち、彼女のために新品種のバラを作らせ自ら王宮に植えた。婚約者の令嬢を差し置いてドレスや宝石を贈ろうとする王太子に、お金ではなく心をくださいと言われてのことだった。お立場をお考え下さいませ。わたくしはどんな宝石よりも、あなた様からいただいた一輪のバラのほうが愛しく思えます。男の心をつかむには充分な一言だった。
男爵令嬢は学園卒業後子爵家に嫁ぎ、双子の娘を産んだ。
「あ……、みんなで、か?」
「はい。子爵令嬢にすぎないわたくしが、招かれたとはいえ王宮のバラ園に行くわけにはまいりませんもの」
もちろん、そのバラを男爵令嬢のものと公言するわけにはいかなかった国王は、王妃のためという名目でバラ園を造った。王妃も薄々勘付いてはいるものの、公的には子爵夫人にすぎない女に悋気を爆発させるわけにはいかず、自分の物とすることで鬱憤を晴らすしかなかった。
両親が愛しあっていると、純粋に信じ込んでいる王子は滑稽で、だからこそ憐れだ。本来なら嫌悪してしかるべき愛人の娘に言い寄っているなど、王妃が知れば卒倒しそうである。
「私が招いたのだから……」
「……未婚の令嬢を王子が個人的に招いたとなれば王子の醜聞になりますわ。口さがない者はどこにでもおりますもの。それに、王妃様のバラ園なら王妃様の許可が要りましょう」
アンヌマリーとバラ園で二人きり、愛を囁くつもりだったのだろう。アンヌマリーを狙っているのは王子だけではない。権力でもって彼らを出し抜くつもりであったのだ。
婚約者でもない令嬢にバラを捧げる。過去を彷彿とさせることを王妃が許すわけがない。アンヌマリーも王子と二人きりなんてごめんだ。
「……わかった。茶会を開こう」
「ありがとうございます」
王子は苦渋の表情で言った。
王子の学友や側近は、どれもアンヌマリーに熱を上げている者ばかりである。婚約者をはじめとする女性陣は彼とアンヌマリーを二人になどさせてはくれまい。王子の浅はかな計画は瞬く間に頓挫した。
学園の馬車止めには高位貴族の生徒たちが集まっていた。アンヌマリーとマリーベルは当初は自家の馬車で通学していたが、王子の申し出を断るわけにはいかず、王家の紋が付いた馬車に乗っている。
王家の馬車が近づいた途端、他の馬車が避けていくのは何日経っても慣れなかった。
「おはようございます、フィリップ殿下。アンヌマリーとマリーベルも」
「ああ」
王子にまず声をかけたのはジュディ・ライトニング公爵令嬢。この学園のファーストレディだ。
空の色を映す銀の髪に琥珀色の瞳をしたうつくしい令嬢は、姉妹にはとても真似できない見事な礼をした。
王子はそれにそっけなく返し、アンヌマリーの手を取って馬車から降りるのをエスコートする。続いてマリーベルが一人で降りた。王子はアンヌマリーの手を取ったまま、さっさと行ってしまっている。
マリーベルが思い切りよくヴェールを取り、ふぅ、と息を吐いた。
「おはようございます、ジュディ様」
堂々とガマガエルを晒すマリーベルに、ジュディは慈しむ目を向ける。
「あなたも大変ね」
「もったいないお言葉、かたじけなく存じます」
マリーベルはジュディを名前で呼ぶことが許されている。友人となることで彼女の庇護を受けていた。
アンヌマリーが王家の馬車にマリーベルを乗せるよう頼んだのは、なにもマリーベルのためだけではなかった。アンヌマリー自身王子と二人きりになるのは嫌だし、マリーベルがいれば王子も不埒な真似はできないだろうと抑止の意味もある。
そして、もう一つ。王子が馬車の中でアンヌマリーに語ったことを、ジュディにリークするためだ。
この利害があるからこそ、姉妹は安心して学園で勉学に励むことができていた。
学園でのアンヌマリーは、忍耐の一言に尽きる。
マリーベルとは別のクラス。休み時間ごとに王子や王子の学友、側近たちに囲まれ、笑っていなければならないのだ。
彼らの婚約者である令嬢たちは当然良い気分ではない。アンヌマリーの身分では迂闊に断ることができないとわかっていても、目の前で別の女にデレデレされていては気に食わないし腹が立つのだ。
わかっているからアンヌマリーは笑みを崩せなかった。疲れた顔など見せようものなら男たちは勝手に勘違いし、婚約者を責めるからである。
アンヌマリーの近くにいた高位貴族の後継が評判を落とし、ついでに成績まで落としたなんて冗談ではない。彼らがどうなろうと知ったことではないと言いたくても、社交界はそれを許すほど甘くないのだ。
アンヌマリーに惑わされた、アンヌマリーに唆された。自分の息子のふがいなさをアンヌマリーのせいにしてくるだろう。想像しただけでうんざりである。
だからこそ、マリーベルや彼らがいなければ友人になってくれていただろう女子生徒との気楽なおしゃべりを諦めて、こうして休み時間にも教科書とにらめっこしている。
「アンヌマリーは真面目だな。三年生になってから学年トップじゃないか。休み時間くらい楽しくおしゃべりしようぜ」
アンヌマリーの忍耐を知らずに教科書をつついて邪魔をしてきたのは伯爵家嫡男のチャールズ・ヴェリエールだ。アンヌマリーは秘かに「チャラ男」と呼んでいる。
あなたたちと話していても楽しくないんですけど。なんて本音を言えないアンヌマリーは仕方なく教科書を置いて微笑した。
「もう。チャールズ様、最終学年だからこそ、気を抜いてはいけないのですよ?」
前回のテストでトップだったのはアンヌマリーとマリーベル、そしてジュディだ。三人とも全教科満点。マリーベルに至っては回答文に解説と問題点を加えてさらに加点されている。
「遊ぶのは卒業後でもできますもの。ですが最高の環境で学べるのは今だけですわ」
本当にそう思う。貴族の中には女は黙って男の後ろにいればいいと考えている者が未だ多くいる。チャールズもその一人だ。
チャールズの婚約者は学年五位の才女だが、可愛げがない男に譲れと常々言われている。彼女が可愛くないのならアンヌマリーのほうがよほど可愛げがないだろうに、アンヌマリーは真面目だ優秀だと褒めそやすのだ。
「学生のうちこそ遊べって親父に言われたぜ?」
「それは学友同士で切磋琢磨しろ、という意味でしょう。……わたくしはしょせん子爵家の出ですし、せめて成績だけでも良くしておきませんと」
「アンヌマリーはそんなことしなくていいのに」
言うに事欠いて父親を持ち出すお坊ちゃんが何を言う。アンヌマリーはにこりと笑った。
「それに、チャールズ様やフィリップ王子のためにも、何があっても大丈夫なようにしておきたいのです」
「アンヌマリー……」
声が重なった。気が付けばチャールズだけではなく、フィリップ王子たちいつものメンバーが机を囲んでいる。
「フィリップ王子、皆様も。学園での評価は社交界にも響きますわ。ですから……ね?」
アンヌマリーが暗に「あなたのため」と言って笑えば男たちは頬を赤くして気まずそうにうなずいた。
どうせ彼らだって婚約を解消する気はないのだ。よくて愛人。母と同じ道を歩む気など欠片もないアンヌマリーは、せめて恨まれないように立ち回るしかなかった。
「男に媚び売って生きていける人は良いわねぇ」
「高位のご嫡男ばっかり侍らせて。あんな下品な女が良いなんて見る目ないわよね」
「どうせ卒業したら愛人だろ? 勉強したって意味ないだろ」
彼らがいなくなった途端、聞こえる程度の大きさで漏れる陰口にも慣れた。意外なことに、聞こえよがしに悪口を言ったり意地悪をしてくるのはアンヌマリーと同じ子爵家や男爵家の者ばかりだった。
チャールズの婚約者のガブリエラは伯爵令嬢で、ずいぶんチャールズに手を焼いていたらしい。本音はどうあれアンヌマリーのおかげで成績が持ち直した、とお礼までされてしまった。さすがは伯爵令嬢だとアンヌマリーは感動したものである。
「いいかげん、止めろよそういうこと言うの」
アンヌマリーが思い出していると、一人の男子生徒が立ち上がって悪口を言っていた生徒を睨んでいた。
「テティートゥリアン子爵令嬢の言ったことは正しい。僕らは学びに来ているのに、成績で勝てないからとこそこそ悪く言うなんて、それが紳士淑女のすることか」
気まずそうに目を逸らした彼らにため息を吐いた彼は、それから、とアンヌマリーに言った。
「テティートゥリアン子爵令嬢。殿下や高位貴族の子息が相手では断れないことはわかる。けれど殿下たちのふるまいが良くないと思っているのなら、せめて先生に相談したらどうなんだ?」
アンヌマリーは目を見開いた。ここまではっきり言われたのははじめてだ。
ラルフ・ロチェスター子爵は、ロチェスター伯爵家の三男ですでに子爵位を譲られている。れっきとした貴族ですでに社交界に出入りしているらしい。
大人びた人で、教室では静かに本を読んでいるイメージしかなかった。
「ありがとうございます、ロチェスター子爵。実は先生にはすでに相談したんですの」
いいかげん耐えかねたのだろう。怒りを露わにしたことを恥じるように赤くなったラルフに、アンヌマリーは感謝を込めて微笑んだ。
「……先生は何もしてくれなかったのか?」
その言葉に、アンヌマリーはそっと目を伏せた。
「先生方は、それなら別室で個人授業をしようとおっしゃいました」
学園の教師陣はダンスとマナーを除き男性ばかりだ。アンヌマリーは丁重に断った。
ラルフもまさかと言いたげに絶句している。
まさか先生が、元凶である王子たちを指導するのではなく、一人の女子生徒にそんな血迷った誘いを持ちかけるとは思わなかったのだろう。アンヌマリーでさえ聞き間違えたかと何度も確認したほどである。
「ロチェスター子爵、ご迷惑でしょうが卒業まであとわずか。なにとぞご容赦くださいませ」
「あ、ああ……。すまない、知ったようなことを言って」
悪口を言っていた生徒たちも、これには驚いたのか同情したようにアンヌマリーを見ている。
「いいえ。守ってくださったこと、嬉しかったですわ」
少なくとも口先だけかっこつけているフィリップ王子より頼りになる。アンヌマリーはラルフを見直した。
それ以降、ラルフが音頭を取り、クラス一丸となってアンヌマリーを守るようになった。
王子たちだけではなく、れっきとした大人の先生にまで狙われる身分の低いうつくしき令嬢。逆らえないからこそアンヌマリーは悲劇だった。うつくしく可憐な少女の貞操の危機に怒らないようでは男ではない、とすでに社交界入りしているラルフに言われ、奮い立ったのである。
「テティートゥリアン子爵令嬢!」
そんなラルフにアンヌマリーが心を寄せるようになったのは当然の成り行きだろう。
「ロチェスター子爵、わたくしのことはアンヌマリーでけっこうですわ。妹もテティートゥリアン子爵令嬢ですし」
なにより素晴らしいのは、ラルフはマリーベルを見ても引いたり嫌悪を浮かべたりしないことだ。
フィリップ王子のように邪険にもせず、一人の女性としてアンヌマリーと同じく女性扱いしてくれる。
「そうですか? では、私のこともラルフ、と」
「はい、ラルフ様」
とはいえマリーベルはラルフが現れると気を使ってどこかへ行ってしまう。男の人と話をしていて胸が弾む気分になるのははじめてで、アンヌマリーはなるべくマリーベルに一緒にいてと頼んでいた。
「アンヌマリー! 王宮での茶会の招待状だ!」
ある日の放課後、フィリップ王子が得意満面で招待状を差し出してきた。
「ありがとうございます、フィリップ王子。出席者はどなたがいらっしゃいますの?」
これは確認しておかなければならない。行ってみたら二人きりでした、なんてならないよう、ジュディにリークするためだ。自己防衛は大事である。
「う、うむ。まずはジュディとガブリエラ。チャールズもいるぞ」
フィリップのあげた名前はおおむね彼の学友や側近、そして彼らの婚約者だった。あたりまえのようにマリーベルの名前は出てこない。
「……わたくし一人では寂しいので、マリーベルもご一緒させていただいてよろしいでしょうか?」
「マリーベルもか?」
とたん、フィリップの顔が引き攣った。
「はい。子爵家からはわたくしだけとなると不安ですし……。お願いできません?」
アンヌマリーが両手を合わせ、縋るようにフィリップを見つめれば、彼女の顔にめっぽう弱い王子は葛藤の末、許可を出した。
「わ、わかった……。後でマリーベルにも招待状を出しておこう」
「良かった! ありがとうございますフィリップ王子!」
「いや、なに。それでだなアンヌマリー。茶会用のドレスを贈りたいのだが、今から仕立て屋に行ってみないか?」
なるほど。放課後デート目的でこの時間にわざわざ手渡ししてきたらしい。
アンヌマリーは授業が終わればマリーベルとまっすぐ帰宅している。うかつに残って日没を迎えたら大変なことになるからだ。
なのでいつも放課後のお誘いは断っている。
「まあ、王子。わたくし我儘を聞いていただいたばかりですのに、この上ドレスなんて頂けませんわ」
「遠慮することはない。私が贈りたいのだ」
「わたくしだけではなく、マリーベルの二着分でしょう? とてもそんな……」
「え?」
「だって双子ですもの」
アンヌマリーにドレスを贈るのなら、マリーベルにも贈るのが当然だ。何もおかしなことはない、と目を瞬かせるアンヌマリーに、フィリップもさすがにこれ以上強制してこなかった。
「殿下、婚約者でもない未婚の女性を町中に連れていくのはご身分に関わりますわ」
そこにマリーベルがやってきた。ヴェールを被り、にこりともしない忠告に、フィリップが忌々しそうに反論する。
「私とアンヌマリーは友人だ」
「では、友人としての礼節を持って接してください。アンヌマリーはまだ婚約者もおりませんのよ」
フィリップが邪魔をしているせいだ。ちくりと刺した。
「うるさいな、わかっている!」
フィリップは腕を振ってマリーベルを退けようとした。
「おわかりいただけてようございました。アンヌマリー、帰りましょう。では殿下、失礼いたします」
さっと避けたマリーベルがアンヌマリーの手を引いて前に立ち、フィリップに一礼した。慇懃無礼を絵に描いたような態度にも、アンヌマリーが大切にしている妹だと思えばフィリップは文句を言えなくなる。もちろんマリーベルはわかってやっていた。
「助かったわ、ベル」
テティートゥリアン家の馬車に乗ったアンヌマリーが、ほっと息を吐いた。
姉妹の秘密を守るため、帰りは自分の家の馬車が迎えに来る。表向きは令嬢の貞節を考慮して、となっていた。
貴族の令嬢なら迎えに侍女が付いているものだが、それがないのも秘密を守るためだ。秘密というのは知る者が少ないからこそ秘密なのである。
「あの王子もしつこいわね……。卒業まであと少し、アンをものにしようと必死ね」
ヴェールを取ったマリーベルが憎々しげに言った。
「ジュディ様との婚約はそのままで、なんとか繋ぎ止めて愛人にでもするつもりなのよ」
「愛人なんてとんでもないわ。夜になった私の顔を見られたら殺されるかもしれない」
アンヌマリーがぞっと自分の体を抱きしめた。
「……一応聞くけど、王子に打ち明けるつもりはないのね?」
「ないわ! 何よあのベルへの態度! あれを見て王子の愛を信じられるわけないじゃない!」
即答だった。
アンヌマリーがフィリップたちに靡かない最大の理由はそれである。日が沈み、アンヌマリーの顔を見た瞬間、彼らの愛は冷めるだろう。なにより大事な妹だと言っているのにマリーベルを厄介者扱いする態度が不信に拍車をかけた。
「だいたい、お母様とお父様を見ていれば、愛なんてものがいかに夢物語かわかるというものだわ」
アンヌマリーが言った。
魔女の魔法を解く方法はあるのだ。
物心ついた頃、アンヌマリーとマリーベルは魔法を解いてもらおうと魔女の森へ行った。たとえ醜くても、本当の自分で生きていきたかったのだ。
半分は文句のようなものだったが、姉妹の訴えを聞いた魔女はそれならと魔法を解く方法を教えてくれた。
「真実の愛、ね。お母様は美女のままだわ」
真実の愛を見つければ、魔法は解ける。
それを聞いた姉妹は絶望した。二人の母は今もなおうつくしい。それの意味するところはつまり、両親は真実愛しあっているのではない、ということだ。
魔女の森から帰った後、よくよく両親を観察してみれば、どうやら二人ともに愛人がいる。特に母は国王陛下をはじめとする貴族の間を蝶のように飛び交っていた。さらに調査を進めれば、出るわ出るわ、母の艶話。王宮のバラ園、宰相閣下の初恋の君、遠い海の国に真珠を取りに行った将軍、領地に花畑を作った伯爵。あまりのことに姉妹は母の裏切りに怒るより情けないと呆れかえったほどだった。
そんな母のようにはなりたくない、と姉妹が決意するのは当然だろう。同時に愛というもの、特に男女の愛について信じることができなくなった。
「んー、そうだけど、ラルフ様は?」
思い出してうんざりしていたアンヌマリーは、マリーベルの言葉にハッとした。
それを見たマリーベルがニヤニヤ笑う。その顔はガマガエルの魔物が獲物を前に「さてどのようにして食ってやろう」と舌なめずりをしているようにしか見えなかった。
「ラルフ様はロチェスター伯爵家の三男。伯爵様はお母様と歳が合わないし領地経営に熱心でシーズン以外は滅多に王都に来られないそうよ。ということは、お母様の毒牙にかかっていないと見ていいでしょう」
毒牙とはまたいい得て妙である。
「そ、そんな。ベル、ラルフ様とは何でもないのよ!?」
アンヌマリーは頬を染めて狼狽えた。
「何でもないからこそ言ってるの! アン、もしかしたらこれが最初で最後のチャンスかもしれないわよ? しっかり見極めなくちゃ!」
「見極めるって……」
「私たちの秘密を打ち明けるかどうかよ。ラルフ様のこと、好きなんでしょう?」
今度こそアンヌマリーは真っ赤になった。
胸の奥で否定していたものが、言葉にされたことではっきりと浮かび上がってくる。これは、恋だ。私はラルフが好きなのだ、と。
「でも……ラルフ様が受け入れてくださるかしら……」
「だからそれを見極めるのよ。私の顔を見ても平気で話しかけてくるくらいだし、脈はあると思うわ」
「ベル……」
アンヌマリーはぎゅっと手を握りしめた。
「ベルは、それでいいの?」
「私たちが、人を好きになっちゃいけないなんて、幸せになっちゃいけないなんて、そんなはずないわ!」
マリーベルが震えるアンヌマリーの手に手を重ねる。
「それに、私はアンに幸せになって欲しい。私はまだ良いのよ、昼間は外に出なければいいんだもの」
卒業して成人となり社交デビューすれば、どうしても夜会に出なければならない時が来る。
その時、アンヌマリーがどんな目で見られるのか。それを思えば今のうちに真実の愛を見つけたほうがいいに決まっている。今ならよりどりみどりなのだ。
「お母様の思い通りの人生なんて私はイヤよ。アン、チャンスがあるならそれに賭けてみるべきだわ」
「ベル……。わかったわ。ラルフ様のこと、ごまかさずにちゃんと考えてみる。でも見極めるって、どうしたらいいのかしら?」
「お茶会にはジュディ様もいらっしゃるんでしょう? 協力していただけないかしら」
マリーベルの作戦はこうだ。
まず当日、マリーベルは適当な理由を付けて欠席する。フィリップはマリーベルの顔など見たくもないのだから、喜びこそすれ怒られることはないはずだ。
「そして私はアンが心配だから、とラルフ様に代理を頼むの」
マリーベルの頼みを無視する様なら論外だし、下心ありきで引き受けてもクラスメイトの助けもないままラルフがフィリップにどこまで立ち回れるか、それを見ればいい。
「その時ジュディ様たちに、ラルフ様が本気でアンを想っていてくれるのか見ていただくの。本当にアンが大切なら、ジュディ様の身分を盾にするようなことはしないと思うのよ。どうかしら?」
いかに友人の姉といえど、自分の婚約者の心を奪った女にはいい気はしない。ジュディたちが姉妹の秘密を知り、彼らと結ばれるつもりがないと知らないラルフには、ジュディたちもアンヌマリーに敵意を抱いている相手だ。
孤立無援で試すような真似をするのは心苦しいが、これもアンヌマリーのためである。
アンヌマリーは眉を寄せ苦しそうに、それでもうなずいた。
翌日早速学園でジュディに話すと、彼女は考え込んだ。
姉妹とジュディの情報交換は昼休みのテラスだ。高位貴族が多く通っている学園には特別な生徒のための設備がある。
「見極め……。そうね、そのほうが良いでしょう」
テティートゥリアン子爵家に招かれ、実際に姉妹の顔が変わる瞬間を目撃して死ぬほど驚いたジュディは、姉妹に同情していた。
親の因果が、とはいうものの、何の罪もないアンヌマリーとマリーベルの過酷な運命と、それに負けまいとする心の強さに共感し、友情を誓ったのである。
「わたくしも、ロチェスター子爵には思うところがありますの」
ジュディは気づかわしげにアンヌマリーを見た。
うつくしい少女である。うつくしいものを見慣れたジュディでさえ見惚れて庇護欲をくすぐられる。どのような人間でも、彼女に微笑まれたら何でもしてあげたくなるだろう。
だからこそ、ジュディには疑問に思っていることがあった。
「ロチェスター子爵は、なぜ今になってアンヌマリーを守ろうと思ったのかしら? 教室に殿下が乗り込んできて迷惑だったとしても、卒業間近になってからでは遅すぎます。アンヌマリーが好きならなおさらですわ。苦しんでいるのを見て放っていたのですもの」
たしかにそうだ。マリーベルは神妙にうなずき、アンヌマリーは唇を噛んだ。
「こうも考えられます。ロチェスター子爵の裏には殿下がいて、アンヌマリーとマリーベルの仲を引き裂くつもりである」
「そんなっ、ラルフ様はそんな人ではありません」
「アン、落ち着いて。ジュディ様のおっしゃったことはただの推測よ」
とっさに否定したアンヌマリーをマリーベルが止めた。ジュディが続ける。
「あるいはロチェスター子爵は策略家で、アンヌマリーが弱るのを待っていた」
「っ!」
アンヌマリーがジュディに詰め寄りそうになるのをマリーベルが止める。ジュディは困ったように扇で口元を隠した。
「……もしくは、ロチェスター子爵が勇気を出すには、時間と味方が必要だった」
アンヌマリーの目から険が消えた。
「子爵の身分で殿下に物申すのは大変な勇気がいります。学園であっても、です。ロチェスター子爵はあなたを諦めようとし、しかし諦めきれず、苦しんでいるのを見るに見かねていた。……もし本当にそうなら、ロチェスター子爵の想いは本物だわ。わたくしの今の推測を聞いて、ロチェスター子爵を信じるか否かはアンヌマリー、あなたが決めることよ」
そこでジュディはマリーベルを見た。
視線に気づいたマリーベルは少し考えてハッとした。アンヌマリーの肩を抱いていた手に力が籠る。
ジュディは最悪の予想をあえて言わなかった。
もし、ラルフとアンヌマリーが真実の愛で結ばれて魔法が解ければ、アンヌマリーは元の醜い顔に戻る。そうなったら王子たちはもはやアンヌマリーに見向きもしないだろう。
その時目を付けられるのはマリーベルだ。マリーベルの顔が夜にだけうつくしくなると知れば、彼らには願ったり叶ったりである。むしろ夜の相手だけで済むのだから、妻となったジュディたちにばれずに好都合だとすら思うかもしれない。
ジュディ個人としては、婚約者のフィリップがそこまで屑な人間だと思いたくはない。だが彼らの父親が姉妹の母を共通の愛人にしているのを知ってしまった今は、いかに権力者の倫理観が低いかといわざるをえないのだ。
ジュディもまた十八歳の乙女である。尊敬していた国王や大臣たちが、一人の女を嬲り者にしている事実に怖気が走った。軽蔑、嫌悪、理屈ではない生理的な、女の部分が彼らの息子を唾棄すべき存在だと認識し、彼女に冷静な目を持たせていた。簡単にいえば、百年の恋が冷めた。
なにもこれはジュディに限ったことではなく、アンヌマリーに言い寄る男たちの婚約者の共通認識だった。腹が立つよりもおぞましく、情けない。一人の少女を逃げられないように囲い込んでいる彼らを見ると、そしてもしアンヌマリーではなく自分だったらと想像すると、何と恐ろしいのかと震えあがるのも無理はなかった。
王宮のバラ園での茶会当日。集まった少女たちの気分はつまりそういうものであった。
「アンヌマリー……。そちらは?」
フィリップは苦虫を噛み潰したような顔で、アンヌマリーと彼女の連れを出迎えた。
「マリーベルが昨夜から具合が悪く、茶会を欠席することになったので、急遽友人にお願いしましたの」
それはフィリップも知っている。早朝に欠席する旨が届き、あの顔を見ずに済んだと胸を撫で下ろしたのだ。
代理として友人を寄こすといわれて了承したのも、女の友人だと思っていたからである。
「殿下もご存知でしょう。クラスメイトのラルフ・ロチェスター子爵ですわ」
「マリーベル嬢の代理として参りました」
きりりと礼をするラルフは王宮での茶会に緊張しているようだ。居並ぶ面々がいずれも高位貴族の令息、令嬢となれば当然だろう。
「マリーベルは心配性で。わたくしが皆様の前で失礼をしてしまわないか、すでに社交界に出てらっしゃるラルフ様に見ていて欲しいと……」
「いえ、私のほうこそ貴族といっても子爵ですし、王子や皆様の前で恥をかかないようにするので精一杯です」
フィリップたちの前でアンヌマリーはラルフと名前を呼び、親しさを見せつけた。男たちの顔がわかりやすく引き攣った。
アンヌマリーは彼らがどんなに頼んでも、なかなか名前で呼んでくれなかった。友人だから、学園だからと言い募り、とうとう命令してやっとだったのだ。
それがラルフにはごく自然に名前で呼んでいる。婚約者たちの手前、彼らは咎めることができなかった。アンヌマリーを名前呼びする彼らを咎めた婚約者に、友人だから当たり前だ、と開き直ったのは彼ら自身である。
「ぐ……。よく、来てくれた」
フィリップはかろうじて歓迎の言葉を紡いだ。王子の隣りに立つジュディが心から二人を迎える。
「ようこそ、アンヌマリー、ロチェスター子爵。良い日ですわね」
「ジュディ様、今日はよろしくお願いします」
忌々しげにラルフを睨む男たちとは反対に、女性陣はにこやかに彼を歓迎した。
「こんにちは、アンヌマリー」
「マリーベルは残念でしたけど、ロチェスター子爵が来てくださって良かったわ」
「マリーベルにはお見舞いを贈っておいたわ」
「わたくしたちも婚約者同伴ですもの、ちょうど良かったわね」
「ロチェスター子爵の席はアンヌマリーの隣でいいわよね」
フィリップが指示する前にさっさと席まで決めてしまった。女性陣は邪魔をしてこないようわざと離れたところにテーブルを用意しておいたのに、アンヌマリーまでそこだ。
「アン……」
「まあ、まるでバラに囲まれているようなテーブルですわね。素敵。殿下、ありがとうございます」
アンヌマリーはこちらだ、と伸ばした手が空を切った。
かくして男だけのテーブルと、女の中に男一人というハーレム状態のテーブルが出来上がった。
「……殿下ったら凄い顔で睨んでますわね」
「チャールズ様もですわ。少しはご自分のなさっていることがどれだけ醜悪か、反省なさればよろしいのよ」
ジュディとガブリエラがそれぞれ婚約者を鼻で笑う。
「ラルフ様、急なことで申し訳ありません。おかげで助かりました」
居心地悪そうに固まっているラルフにアンヌマリーが頭を下げた。
「いえ……。私でお役に立てるのなら光栄です」
苦笑しながらもアンヌマリーのためにと言うラルフに女性陣は好感を抱いた。アンヌマリーをせっついて菓子や茶を勧めさせ、ラルフの社交界の話に花を咲かせた。
「それにしても本当に見事なバラですこと。……マリーベルにも見せたかったわ」
バラの薫風を浴びたアンヌマリーが気持ちよさそうに目を細めた。このバラ園が国王と母親の不貞の証だと思うと複雑だが、バラに罪はない。マリーベルならどんな配合の肥料を使っているのか、虫よけには何をしているのかと興味が尽きないだろう。
「あら、それなら少し散策してきたらどうかしら」
ジュディがイライラがピークに達しそうなフィリップをちらりと見ていった。
「え?」
「どんなバラが咲いていたのかお話すれば、マリーベルも喜ぶのではなくて?」
「そうですわね。ロチェスター子爵、アンヌマリーをお願いしますわ」
「えっ」
今日のラルフはアンヌマリーの騎士役だ。アンヌマリーを立ち上がらせたジュディは、続いてラルフを立たせてバラ園の奥に送り出した。
二人がバラ園に歩いていくのを見たフィリップたちも立ち上がる。
「あら、殿下。どちらへ?」
「いや、あの二人は王宮に不慣れだろうから案内をだな」
「余計なお世話ですわ」
「どっちが余計なお世話だよ。婚約者のいない女性と二人きりになるなっていつも口煩く言ってくるのはそっちだろ」
「チャールズ様、それなら大丈夫ですわ。ロチェスター子爵にも婚約者は居りませんもの」
そして、フィリップたちはまたしても墓穴を掘る。
「殿下。殿下とアンヌマリーは友人ですのよね?」
「くどい! そう言っておるだろう!」
アンヌマリーとの関係を問い質され、友人と答えたのはフィリップである。
ジュディは満足そうに笑った。
「では、友人の恋路を見守ってあげませんこと?」
「さすがは殿下、バラ園で恋を囁かれるなんて乙女の夢をお膳立てなさるなんておやさしい」
「お心が広いですわ。ねえ?」
「そうですわね。殿下の大切な『ご友人』ですものね」
優雅に笑う婚約者の牽制に、反論が思いつかず、男たちはぐぬぬと唸るしかなかった。
バラを眺めながら歩くアンヌマリーは、心が浮き立つような、重苦しいものを飲み込んだような、相反する気分に陥っていた。
「……申し訳ありません、ラルフ様」
「どうしました?」
「わたくしのせいで、殿下や高位の方々の不興を買ってしまったかもしれません」
「ああ……」
アンヌマリーがバラよりも可憐な顔を曇らせた。
フィリップたちが今日の事を恨みに思い、ラルフに嫌がらせをするかもしれない。子爵のラルフでは理不尽に逆らうこともできないだろう。
「大丈夫ですよ」
「ラルフ……」
立ち止まったラルフに、アンヌマリーも足を止めた。
「殿下やチャールズ様たちは、身分が高いからこそ一挙手一投足に注目されている。下位の貴族に無体を強いて潰したなど、醜聞です。そんなことをすれば他の貴族の心が離れてしまう」
だから大丈夫だとラルフは笑った。
「それに、うつくしいバラを守る、守りたいと思うのは男の夢でもあります」
アンヌマリーは頬を染めた。
「……どんなにうつくしいバラも、夜には萎みますわ」
「それは手入れが足りないからでしょう。花をうつくしく保つには愛情であると聞き及んでいます」
ラルフはその場に片膝をつくと、アンヌマリーの手を取った。
「アンヌマリー、あなたというバラが枯れないよう、愛を誓うことをお許しください」
指先にキスをされたアンヌマリーは、全身が甘い痺れに浸された。頬が熱を持ち、視界が濡れるのを堪えきれない。
「……はい」
アンヌマリーの初恋は、夢のようなバラに包まれていた。
家に帰り、ラルフとのことをマリーベルに伝えると、妹は我が事のように喜んだ。
「やったじゃない! おめでとう、アン!」
「ありがとう、ベル! ……でも」
「わかってるわ。打ち明けるタイミングよね?」
アンヌマリーはうなずいた。
ラルフを信じると決めても、やはり怖い。夜になり、醜い顔に戻ってしまうとなおさら不安が募った。
真実の愛を見つけるとは、はたしてどのタイミングなのか。キスかもしれないし、結婚かもしれない。あるいは醜い顔でもう一度愛を誓う必要があるのかもしれなかった。
「……正式に婚約する前が良いと思うの。夜会には出られないことを説明しないといけないもの」
婚約後では、両者の傷が深くなる。弱気なアンヌマリーを、マリーベルが抱きしめた。
「そうね、早いほうが告白の余韻があっていいかもしれないわ」
若干姑息なことをマリーベルも考えている。
「それに、時間が経てばたつほど、騙しているようで苦しくなって言えなくなるもの」
母のことである。
母は昼夜問わず美女のままだが、生まれてくる子供のことまで考えていなかった。その卑怯さが、姉妹の不幸になっている。
「勇気を出して、アン」
マリーベルが目に涙を浮かべたガマガエルの頬に頬を擦りつける。姉妹にこうしてくれるのは、互いの他にいなかった。
「ラルフ様だって、勇気を出して言ってくれたわ。今度はアンの番よ」
「ベル……。ありがとう、私、頑張るわ」
今まで姉妹が信じられるのはお互いしかいなかった。アンヌマリーは自分だけ恋を叶えた後ろめたさと、祝福してくれるマリーベルに、別離を予感して涙を零した。
次の日、アンヌマリーは相談があると放課後にラルフを呼び出した。場所は人気のない特別教室。ラルフが信じなかった場合に備えて、マリーベルにも隠れてもらっている。
「遅いわね……」
呟きがぽつんと教室に落ちる。日が沈み、アンヌマリーの顔が醜く変わる瞬間を見せて証明したかったのに、もう日は沈んで空は夕焼けに染まっていた。
「また明日にする?」
ロッカーの中に隠れていたマリーベルが言った。いざとなればマリーベルがアンヌマリーのふりをすればいいが、あまり遅いと使用人に怪しまれる。
うん、と言いかけたところで廊下を走る足音が近づき、ラルフが入ってきた。
「ごめん、待った? ……あれ? マリーベル?」
いかにも慌てて走ってきたラルフは息を乱していなかった。アンヌマリーは自分を見て「マリーベル」とためらいなく呼んだ彼に、そうだろうと思いつつショックを受ける。
この顔でもアンヌマリーだとわかってくれるのではないか、期待していたのだ。
「…………」
そんなアンヌマリーに気づくことなく、人当たりの良い笑みを浮かべたラルフが近づいてきた。
「昨日のことを聞いてアンヌマリーの名前で呼びだしたのか? あれはライトニング公爵令嬢の手前、ああ言わざるを得なかっただけだよ」
「……え?」
「私は君に頼まれたからこそアンヌマリーのエスコートをしただけさ。その、たしかにアンヌマリーは可愛いけど、彼女はいずれ殿下たちがお召しになるだろうし、本気になるわけないじゃないか」
アンヌマリーはあまりのことに血の気が引いた。
「……では、どうしてアンヌマリーを助けたの?」
「殿下の命令だよ。どうしても靡かない彼女に、それなら男をあてがってしまえば良いとね。公的な愛人にするにもそれなりの身分が必要だし、万が一子供ができたら引き取り先が必要だろう?」
頭がガンガンする。気持ちが悪い。足元が崩れていく感覚に膝がふらつき、しかしアンヌマリーは耐えた。まだ聞いておかなくてはならないことがある。
「なぜ……そのことを私に言ったの?」
「だって、君もアンヌマリーが嫌いだろう?」
ロッカーがカタンと鳴り、アンヌマリーはとっさに「いいえ!」と叫んだ。ここでマリーベルが出てきたら、この男に逃げられてしまう。
ラルフは真っ青になって震え、涙目になっているガマガエルに蔑みの笑みを向けた。
「そうやって、いかにも姉思いのふりをして殿下たちを追い払っていたじゃないか。……別に、ごまかさなくてもいいよ。双子なのに自分一人うつくしいと周りの愛情を独り占めするアンヌマリーを憎むのは当然だ」
「アンヌマリーを……好きではなかった?」
「そりゃ、はじめて見た時は天使かと思ったよ。でも、なにかにつけ自分を卑下してか弱さアピール。あなたのためと言いつつ男を操作しているのにはぞっとしたね。僕にまで殿下と比べて身分の低さを馬鹿にする。謙遜してみせているけれど、中身は性悪女だ」
吐き捨てるように言われ、とうとうアンヌマリーの目から涙が溢れた。ラルフはそれを、ゴミに湧く虫でも見るかのような目で見る。
「アンヌマリーには言わないでくれよ? 僕はアンヌマリーを妻にすることで殿下たちの庇護を受けられる。時々貸し出すだけでいいんだから安いものだ。君だってアンヌマリーに復讐できるんだから、悪い話じゃないだろ?」
テティートゥリアン子爵家を継ぐマリーベルは結婚できないだろうから、アンヌマリーが産んだ、誰の種とも知れない子供を養子にすればいい。フィリップたちとはそこまで話が進んでいるという。
復讐の喜びに歪んだ笑みを浮かべて得意げに語ったラルフは、声もなく泣き続けるアンヌマリーに言った。
「もしかして僕が好きだったのか? 君とは共犯者のつもりだけれど、ガマガエルを妻にする趣味はないんだ。ごめんね」
もしもここにいたのがマリーベルで、そしてアンヌマリーへの憎しみを募らせていたら、その一言はアンヌマリーに復讐する起爆剤になっていただろう。
だが、この醜い娘はアンヌマリーだった。愛する恋人と信じていた男の裏切りに泣いていた彼女は、ラルフへの情が一片残らず消えていく感覚に泣き止んだ。
「……わかりましたわ」
言わなくてもそこで聞いているのだ。
怒りに燃えるアンヌマリーに、肚が据わったと思ったのだろう。ラルフは「良かった」と言って特別教室を出ていった。